直近二週間中に思ったことなどの記録
(2021/07/11更新)
例えば異性愛者の女性が恋愛を語るさいに出てくる「ダメな男」呼称およびその指摘は差別ではない?(もしくは差別を助長しない?)男女逆にしたとき「ダメな女」と言ったら、それだけで少なくとも燻りそうな。
揺り戻しだから仕方ないのか。主観的な表現であることをあらかじめ断っておけば問題ないのか。あるいは「ダメな男」と「ダメな女」には本質的な違いがあって、優良か不良かは既に明らかなのか。私はレディースデーだけ設ける映画館の割引サービスには未だに納得いってない。
淫夢とは何かについて改めて軽くググる。niconico動画に上がったホモビデオ(ホモビと略されていた)に端を発したものとの記述があった。ニコニコ動画や2chの文化を通ってきていないのが手伝って、また流行当時からの時間差もあって、正直この文化の面白がられるポイントを感覚的に掴みきれない。ポリコレ云々を抜きにしても、野獣先輩とはそんなにおもろいかと。多感な時期の経験の差、あるいは感性と言われればそれまで。
ところで今ホモって言い方は世間でどうなんだろう、セーフかアウトか。淫夢ジャンルっていうネットスラングが揶揄や嘲笑のニュアンスが含まれている印象だから、私的にはアウトな気がする。ゲイって呼称が通用してるし既に。ホモはホモソーシャルとかホモセクシャルとか真面目に(≒科学的に)語る文脈中の連語でなら使えるのかな。
→追記。↑を書いたのち検索で引っかかった以下の記事↓を読む。これが全てではないだろうが、門外漢が一連の事象の理解を深めるのには確実に役立った。
→さらに追記。らい(@rye_cx)という人のツイート↓より連想。存在肯定派は、「これはエンタメとして成立している」との立場っぽい。線引きする場所の違いを意識する。手前か奥かの違い。精神的に参っていたあの頃の、あの辛い夜にたしかに笑えたエンタメーーこれは正しい、正しくなくてどうしよう。そういう立場か。なるほど正義があった。ポリコレとは別個に扱われたいネタ的な楽しみ、決して褒められるもんじゃないけど、みたいな認識なのかな。時代の正義に駆られてキレイキレイしないでくれ逆に怖いわ、みたいな。
なお返信コメントのうち主が応答しているツイートが、まさに上記noteの初心者用解説にあった通りの面白がり方を支持していて、参考書にあった例題がそのまま試験に出た快感があった。
うーん、趣味の動画投稿で相応の反応を頂けることは嬉しいですよ。
— らい (@rye_cx) March 21, 2021
あと個人的には「鬱だったけど、姉貴の動画を見て元気出た」と言って貰えることほど幸せなことはありませんね。
私も淫夢で命を救われたように、他人の命も救えているかもしれない。これ程嬉しいことは今生経験したことがありません。 pic.twitter.com/5zJK76f8FB
メディア越しに容姿端麗な人間と接するのは、いわば檻越しに動物を愛でる動物園に行くのと同じみたい。綺麗な見た目の猿を愛でたい趣味、これは対象がパンダやペンギンやアルパカでも説明がつくような気がしている。
一度に沢山持った手荷物を元あった場所に戻す時に気をつけたいのは、手近な所から一つずつを確実に置くことだ
いつ死んでもいいように、がこれでもかと
人生の冗長さ
間違いなく幸せな愚痴だ
我慢できずに感情を吐露してしまう
やけを起こす
夢に出た名前:カルビニウム
シーサイドコミュニケーションズ『河瀬茉希と赤尾ひかるの今夜もイチヤヅケ』の提供クレジット読みが新しくて良い。元来提供クレジットは、笑わず噛まずに真剣に読まないといけないらしいものだったから、毎回録音サンプルじゃなくて喋りの延長で読まれるだけで新鮮。テンションが上がったり下がったり枕詞が付いたり最後に一言尾ひれがついたりして楽しい。それだけ提供読みが伝統的ということか。
人はいつから家を実家と呼ぶべきか。本来は自活のために別居を始めてからかつて過ごした家を指して実家と呼ぶものだろう。しかし実家でしか過ごしたことがない人も、社会的に自活するのが通例である年齢に達したとき、同い年以上の年齢の人と会話する際に家のことを実家と呼び始めるのは自然だろう。呼び方が世間の習わしに則さなければならないといえる。
過労する仕事人には申し訳がないが、家事的介護も一応は仕事だ。やりたくないことをやっている自覚がある。報酬は現物。やっていることは専業主婦の進化形のようなことだ。炊事洗濯掃除食器片付け+対人ケア。これを立派な仕事であると断定的に自認するのに誰の許可がいるだろうか。
浪人生が自虐的に「浪人しちゃいました〜、浪人が思ったよりキツくて今まで欠かさなかった放送を追えていません」などといったふつおたが読まれる、同い年の声優が達者にパーソナリティを務めるラジオ番組のアーカイブ音源を平日午前10時前の実家で聴いていたときに去来した気持ち。
確かに恥ずかしさや虚しさを感じているが、それは本質じゃない。人生の長さは人それぞれで、また幸せのなにかも同じなのも確かだ。私の幸せは私で決めていい/私の幸せは私で決まるのだから、人生の送り方も、(世間の習わしに基づいた)年齢に左右されなくて良いはずだ。だから現在の身の上に起因する面目ない恥ずかしさや虚しさが全てじゃない。今が全く間違っているとは言えない。そう思いたい。
年齢的に「もうやっていいよな」と思えてからやっと物事を始められる、保守性(さが)の鑑
他人の許認可がないと落ち着かない。自分に拠り所を置けない。
自分で小皿に出した醤油やわさびなんだから使い切れッ
名前案:平仮名使ワナイ
大谷翔平がこれまでの野球人生中に経験しているであろう数多の苦労を思うと、MLBを取り上げるテレビ司会者が「野球を簡単にできると思わせる選手」などと賞賛する言葉の空虚さを比較的強く感じられる。こういう側から物事を捉えることや捉えられる当事者の虚しさって、他にも多くあるんだろうなと思いを馳せられる。
晴れの日のご馳走が並ぶ食卓には、箸休めと呼ばれるメイン料理ではない皿が必要になるらしい。千切りキャベツや赤白交互に並んだ紅白蒲鉾など。
「あれ嫌やわ、嫌いやわ」って結構口にする『Aマッソの両A面』が好き。嫌悪の主張でも、なぜかを説得する言葉付きで本気で言うなら、好意とは真逆のベクトルでも感情の発露という質的にみた点で同じだから全然アリ。個人的な主張をある程度は、少なくともオーバーグラウンダーよりは躊躇わないでしてくれるおかげで新しい発見もある。今さっき聞いたpodcastにて。数年前流行った共感性羞恥って日本語が嫌いな人がいるなんて想像できていなかった。マウント取り(これも流行り言葉だから嫌だなややこしいなとの言及あり)の跋扈と、思考停止癖によって会話の積み重ねが減るからって理由を聞けば、筋が通っていて、確かにその通りだと思えた。
Aマッソの両A面:Apple Podcast内の#27 誕プレとアレルギー
以前に沈黙が流れるって表現が私的秀逸だと感じたが、沈黙が流れるとnobody knowsって表現が近しい。沈黙は満ちるはずだし、知ってる人は誰もいないはずだけど、沈黙が流れる・nobody knowsって言うのはまさにレトリック。
争いが苦手で、対立するとたとえ相手に非があると考えていたとしても、クリンチしてこちらが謙ってその場を後にしたくなる。まあまあと逃げたくなる。
建物の容積率の制限は、人口をざっくりコントロールするためにあるそう。それは、インフラの整備度合いに比して多すぎる人間が住んでしまったらインフラがパンクしてしまうのを防ぐため。
妄想:リベラル「わからないものを追いかけすぎないようにしています」
セブンルールみ
「あのときの選択があったから今の自分がある〜」などと口にするとき、それを肯定的に語るのにはまず今の自分を肯定できないといけないという前提があった
皆は緑には確かに価値があると思っているけど、実際に緑を金にできる術が限られているから優先順位が後退して結果緑が疎かになっている。例えばクラスター状に産業が集積すれば金になる、あるいは既存のビジネスの模倣版を作ればそのビジネスには既に需要があるとわかっているから競合して金になる。しかしそこには緑が必要ない。それだけ。
タオル地は涼しい。夏用。
働いてもいないのに皿に盛られた料理を平らげてはいけないのではないかと思っている。働いてもいないのに自室のエアコンは極力つけてはいけないと思っている。働いてもいないんだから本来、同居人含む他人には口答えしてはいけないと思っている。
Podcastで視聴中『Aマッソの両A面』の下ネタ程度が私的心地良い。女性お笑い芸人の、電波に乗せる下ネタの程度。
夢:バンドワゴンというのかバス型の車。部活。
夜飯終わりから寝るまでの間に、夜風に当たる体で外に出る。車体の左前についた出口そば。本当は彼女目当て。少ししたらいつも宇多田ヒカルも出てきて、逆サイド、もしくは右ヘッドライト前に来る。監督が最後に乗り込むのだが、彼女はその乗り込む直前に気配をうまく察して先に入る。最後列真ん中、逆からみれば最前列真ん中に座る。いつも最後の方は大分肌寒かったが、我慢した。なぜなら近くにいたかったから、否、近くにいる時間を共有したかったから、否、こちらが近くにいようとしている時間に気付いてもらって予め一方的な好意に慣れてほしかったから。
接近するのが怖くて、一方的に切り取ったその時間に幸福を見出している。猶予を前提に快感に耽っている。橋を渡って次の景色を望む勇気がない、中高時代から何も変わっていない性格である。シャイで(も)いいだろうと都合良く解釈している。
覚えているのは、上等な質だろう生地の黒いジャケットを着ていたある日。それは側面一部がメッシュぽかったりして、所々に細工が施されてあった。「(駐車場に上から照る)赤いライトに黒い上着が映えてすごくお似合いです」と言った。たしか微笑んでくれた。例によって顔はよく見られていない。私は今の彼女が既婚者かシングルマザーかを知らなかったが、それはどうでもよかった。ただ好きだった。
結局はやはり言えずじまいで起きる。自信がなさすぎる。明晰夢なんて知らない、見たことがない。
私的丁度いい角度になってきて、Aマッソ好き
語彙
ぶつけどころのない感情のぶつける場所がほしい
発散するのはもったいないとか偉そうに思ってる
山寺さんって、声優界的にはどうやって見られてんだろう。人間性とか。レジェンドの割に同業者の口から話に上がらないような。単純に孤高な存在なのか、あるいは何か噂があるとか。そういうのを全部吹き飛ばす実力で仕事をやれているのは、それはそれでカッコいいけどな。
YouTubeの検索窓にkinki kidsと打って検索しても結果が全く表示されない。「一致する検索結果はありませんでした」と出るだけ。事務所が意図して検索を遮断している?そんなことGoogleとのやりとりで成立すれば可能なのか?
(一部敬称略)