直近二週間中に思ったことなどを箇条書きした記録
(2021/08/07更新)
夢:田舎駅を乗り継ぐ一人、修学旅行中。久しぶりに電車に乗って座席に座ったら、肩幅のすぼめ方を忘れて右隣の女性に迷惑がかかった。彼女が抗議するように私と同じく腕を組んで応戦してきたようだったので、私は自分の非に気づくことができたんだと思う。
特急列車が停まる駅で降りたカズヤが、誰か笑わす対象に向かって「こんなことしかできないから!」と相変わらずに声を張った後、猛然と線路脇を下り方向にダッシュし始めた。
家族にお土産を買うのを忘れていたことを、乗っていた上り列車が随分と上った後に気づいて落胆する。ここもうお父さんの仕事場ある駅じゃん。
なんとなく降りた駅から右手に数メートル進んだときすれ違った、複数人家族のうちの一人と思しき小学5〜6年生くらいの女の子が、買い物カート一杯に5kgと10kgの米の袋を乗っけて運んでいた。袋に印刷してあるマークが、そういえばさっき改札を出てすぐ正面に、老舗らしいトレードマークが主張する広告看板が3,4枚連なって張り出されていた、そのうちの一つだった。たしか唯一、その小売り会社の広告だけが2連チャンで横並びしていたから、どこか心に引っかかって覚えていたのかもしれない。
商業施設に入った。売り出し中らしい最新のマットレスと枕が目について、なるほど誕生日プレゼントぽいのでこれに決めようとするも、従姉妹がこの前同じく寝具を買った際、マットレスと枕をセットで予約すると、同時にオーダーメイドで反発具合や高さなどを設定できたと話していたのをすぐに思い出した。
出口に向かう下りのエスカレーターで偶々前にいたK地さんがやっぱり良い。一緒に人生を過ごせたらどんなに幸せだろう。すると気持ち悪がられるのが怖いので、後ろを確認して今いる段から後ずさりで2〜3段上がって距離を置いた。
見た目に関する反論を言葉で行っても、見た目の強度に勝てる気がしない。自分の見た目の悪さを言葉を尽くして言い訳しても、理解が得られるだけで、それは良い見た目から享受できる快感には及ばない。理解を得られることで解放はされるけど、快感に憧れる欲求不満は解消されない。結局見た目の悪い人間は、良い見た目の優位性を認めながら、その快感を味わう経験を諦めなければならない。ないものねだりのつまらないことを、自分の実感を経ることなく承知しないといけない人生の難しさがある。人生のおよそ半分の期間、見た目にコンプレックスを抱える愚かな人間にはこう思える。
以前、確かひろゆきが自身のYouTubeチャンネルで語っていた、見た目の良さとはカテゴライズされることであるとの言説に、今も首肯する。「良い見た目とは、既に見たことのあるような、一見して感情を揺さぶらない/感情に起伏を起こさない、極力違和感を覚えない姿かたち」という考え方である。
もちろん人それぞれに好みの顔貌があるのは確かで、それぞれに良い見た目の基準や価値観があるわけだが、それはいわば個人の容姿を決定づける最後の個体差の部分であって、些細な違いに過ぎない。
一般的に、各人が思い描く好みの顔貌には共通する前提条件がある。想像する例えを挙げるならば、
髪がある・皮膚に凹凸が少なく肌が荒れていない・もし仮に似顔絵を描くとき、肌の色は一色で足りる・顔の輪郭の円形に歪みが小さい・顔の各部が正月遊びの福笑いの正解の如く一般的な場所と角度で位置する・五体満足
などである。良い見た目の人間には、それに該当するのに最低限満たされなければならない条件が暗に設定されている。それはつまり違和感なく見た目を許容するために設けたカテゴリであり、このカテゴリに分類されることで初めて良い見た目か、否か(=否かとは、良い見た目とは言えないの意味であり、悪い見た目という意味ではない。)を判断されるスタートラインに立つ。
その上で、見た目にコンプレックスを持つ私の気持ちを言うと、見た目を良くしたいのではなく、悪い見た目でありたくない、である。現時点での私の見た目に関する欲求を説明するのに、これは必ず明言しておきたい。理想的な見た目に積極的に近づきたいのではなく、この見た目から逃れたいのである。これはすなわち、自身の見た目についてカテゴライズされたい欲求と言い換えられるのではないか。知らぬまにカテゴライズされるのを欲していた見た目に関するコンプレックスとは。どう判断したらいいだろうか。
2021/08/07追記する
見た目に関する上の文章2本の論旨が、同じ人間の正直な心の中には両立しないのでは?と疑ったことから考えた、欲求と願望という軸。
見た目に関する欲求と願望について
前者は差し迫って沸き起こる、当人にとって現実的な感情の発露。後者は絵空事や想像と言い換えられるような、いわば夢の話。欲求のために目標は立てられるけど、願望のために目標は立てられない。なぜなら願望は、当人の現実とあまりにかけ離れているから。
すると今の見た目から逃れたい気持ちは欲求で、見た目によって恩恵を得たいと思うのは願望に分類される。
たまたま前から自転車に乗ったおじさんだろう人が咳き込みながら向かってきたので、咄嗟に脇道に逸れて夜の公園に入った。咳き込んだ飛沫入りの空気が流れ消えるまでの猶予を作る名目で、小高い丘に上った。すると背もたれのない平らなベンチが2つ並んだ、下が白いコンクリートで固められた四角い空間がこじんまりあった。こんな場所は初めて知った。人差し指の先から第一関節くらいの大きさの黒い蟻が活発に歩いている。夜なのに、と思ったが、行動するのに朝も夜も関係ないなと思い直した。辺りに木が生い茂るとまではいかないけど林立とは言えるくらいに生えている。夏の日中は木陰ができて、風さえ吹けば気持ちよさそうだ、蚊が気になるところだが。
目線の先にあった木の幹を見た。思ったのは、別にこれに囲まれて生活したくもないな、と。森の中が仕事場の研究職……なんていう結構私的上位にあった理想のお仕事の一つが、今の正直な感性にそぐわないのではないかという疑念が湧いた事実に出会う。次いで、巷でよく言われる、実際に現場に赴くことの有益さを実感する。
全部の文字がひらがなのタイトルは、その質を疑いたくなる。意図的にひらがなのみで仕立てるタイトルの、中身の伴わない恐れ。時代の価値観に順であるのが売りで、最大公約数の正しさに寄りかかってはいないか。批評を知らない大衆の目を舐めていないか。つまるところそのギミックはこすられすぎて、いい加減古くないかと。
一発ギャグ案:
- 顔面を殴るフリをして、顔の目の前で小指を立てて一言、「今季最大の小指の存在感。」
- 両手を親指だけ立ててグッドのポーズを作る。両親指を外側に向けて(右手親指は右方向に、左は左に)、4分の4拍子で右右、左左のリズムで手を内から外に動かす。またそのとき右腰と左腰も手と同期してなめらかに動かす。3小節目に入るあたりで一言、「日本人の70%の人生を、抽象化しました。」
夢:教室の席の前後で話している。東京大学物語に憧れた旅好き。台湾によく行ってたらしい受験生。世の中には色んな人がいるね、と言った。
筑摩書房のウェブ版、コラム『第1回 くたばれ、本能――『BEASTARS』論』を読む。漫画作品は全く読んだことなかったけど、私的にわかりやすく示唆に富んでおもろかった。批評(とりわけポップカルチャー批評)ってまずはこんな風に書くものなんやな、と漠然と思った。
現実を意識する。東京ドールズradioにて、ゲストの佐倉綾音氏のお便りを受けたトーク。七夕にかけて願い事はあるかとの問いに対して、考えたのち曰く、「お金と健康かな。不労所得、土地が欲しい、いい資産運用がしたい、もうアラサーよw」(要約)と。何のてらいもなく、またよく聞くごく自然な回答として会話が流れていることに胸がざわつく。その実は例によって取り残される焦りや不安なのだが、それに対して抗える正義(=つまり幸せとはただ私のものであるということ)を知っているため、複雑な心境に陥る。両正義が綱引きする。
確かなのは、どうやら私は現実逃避をしているらしいこと。
夢:始業後、部活も始まる。着替えを準備しながら、「行きたくねぇ〜な〜」と心の声。
何がかっこいいとされるかって大体は刷り込みで決まるんじゃないか?
例えばロック音楽が全盛の時代はロックがいかにかっこいいかを説明する解説も全盛で、だからかっこいい。ヒップホップがかっこいいのも同じ。かっこいいについて、そう言われるから自然と受け入れる人間が大勢で、業界の各界隈はそれを好んで推し進める。必死にポピュラーになるのを目指して、裾野を広げたくて、自らの地位を向上したくて魅力を発信する。そして金を儲ける。かっこいい音楽は、聞き手にかっこいいと思われれば思われるほどかっこいい音楽に近づく。
何か腑に落ちない。それでは、音楽自体がかっこよくなくても、嘘をついてかっこいいと喧伝したらかっこよくなってしまうではないか。かっこいいとは人数で決まるのか。いや、そもそもかっこいいとは、私が信じているよりもずっと架空に近い流動的な概念で、かっこいいとみなされる対象そのものが自立してかっこよくなるのではなく、人の認知にのみその拠り所があると断定しなければならない価値観なんだろう。
そうであっても嘘つきは否定していいはずだ。資本主義らしく金を使った強引な嘘の喧伝に抗うには、何より自分がかっこいいと思う気持ちを吟味する姿勢を保つことが、最も基本的で手っ取り早く、確実に効果的だろう。本当にかっこいいと思っているのか、自分自身に検証をかけることが、金欲しさを理由に常識らしく吐かれる嘘への反抗として成立してほしい。
個性を出せと要請されて個性を出せるのは、それはそれで同調志向で迎合的な態度と言えるのでは?
時間は偉大だそうだ、「若い身空で〜」と褒めるも貶すもするのが自然らしいからして。
タイトル案:俺の正義は弱い
人との接触を避ける性格の主人公は、対人時、簡単に自分の正義を胸の内にしまう癖がある〜。
ひろゆきがオーバーグラウンドにいる。
(昔はわからないが最近の)彼の語りは、日本のタレントがなかなか取り上げない特有のテーマを特有の話法で話すだけで、その内容は日本人一般の価値観にそぐう当たり障りのないことを言っている。そういうのもあって多分芸人が真似したり(霜降りせいやのイニミニチャンネルで初めて見た)して認知度が高まったんじゃないか。そもそも時代が下ったっていうのもある。時間が経って丸くなった(守りに入る年齢になった)っていう。
本や映画はなんで私の日常に溶け込まないのか。その理由の一つとして真っ先に挙げられるのは、それらの真面目さを過剰に尊ぶあまり消費に疲れているから、というものだ。
本や映画にはほとんど必ずメッセージが含まれている。それを鑑賞者が各々本気で受け取ることが、それらを鑑賞する醍醐味であり、場合によっては鑑賞理由の9割は堅く占める、というのは教科書レベルで世間に通った了解事項であるから、それを逃してはいけない気持ちに駆られる。鑑賞後に何らかの私的答えが出ていなければならないと思考する義務感、この心理的な負担が生理的にそれらを遠ざける要因になっている。事実、日常的に見聞きするお笑いは、鑑賞後に私に答えを求めない(し答えを出さない)から生活に馴染んでいる、と考えて違和感がない。
またソーシャルネットワークがインターネットで整備されて、他の鑑賞者のみんなはどう考えているのかを気にする欲求が煽られるのと、学校教育中に育んだ同調志向(というよりかはむしろ異端にはなりたくない目立ちたくない怖い!というネガティブな志向の方が強いというのが実態に近い(これが同調志向か))のコンボで、答えを出す作業がさらに精神的負荷を負っている。
謙遜の美が、遠因ではあるかもしれないが確かに悪く作用している自覚がある。
そうだ、アニメもそうだ。アニメも私的ハードルが高いコンテンツな印象で、それはつまりアニメと考察行為はウロボロス状に関係し合っているから、私の答えが考察慣れした考察徒の正解と適合するかどうかが、アニメを見る前から気にかかって疲れてしまう。
物事への偏愛ぶりを語るオタク趣味・NERDINGみたいなものにもそろそろ飽きてきている。
夢:大食い番組になぜか出ている。しかも負ける。ただ失礼だからと完食はした。千鳥がいた。前回はノンスタイル石田がいたらしい。優勝は大食いタレントで売れようとするらしい女性だった。名前は忘れた。
2021/07/07の15時過ぎ、今年初のアブラゼミの鳴き声が聞こえる。まだ梅雨明けしてなかったような。
いつかロックのレコードを聞かなくなってもロックは二人を、あの日の二人をきっと忘れないから
と
アニメの夢から覚めたアニメオタクの目に映るアニメ
が相似形をとった(妄想をした)
自分を納得させるだけの材料を準備できて初めて人前で胸を張れる、面倒な性格
ex.顔面を人前に晒すためには、顔面を人前用に作り上げる準備期間を設けて、自分がその顔面を人前に晒すことに納得する段階を踏まなければならない。納得する段階のレベルは別の言葉では言い換えられず、納得するには自分が納得しなければならないとしか言えない。
さながら雑巾を固く絞り上げるときの手の痛み
主張を曲げない心の傷み
もう20年前にもなるらしかった3-3の団地群。今が20年前になる頃はもう結構リアルに死ぬ準備、死ぬ自覚をする年齢である。ただ今こうなるとは思っていなかったからして、当然20年後の想像も知れている。
初めて知った、金とアニメ'制'作について
TVアニメ化『チェンソーマン』 「MAPPA」のクレジットが意味するものとは? | マグミクス
やたら正解でありたがる癖がついている。
「芸人が『思ったより早い年齢で園芸の楽しみに気づき始めた〜』なんて喋るラジオを聴いていて本当にいいのか俺は?」なんて迷うのは愚かだろうよ。2021/06/30現在そのラジオ番組を欠かさず聴く選択が合ってるのか間違ってるのかを、未来のいつ誰が決められるんだろうと考えれば、それは明らかだ。聴きたきゃ聴け、やめたきゃやめ、に尽きてしまうはずだ。
夢:パネラー3人のうちの一人。千鳥ノブが実在の女の子とバーチャルセックスするのを側から見てヤジる。本当にやってみたくて女性側と先輩のノブ側両方に対して口悪くdisる。俺はそういう人間だ。唆されて思い切り向きになってるの。
食事は醜い側面もあるだろう。だから料理の見た目をそれほど気にしないし、遠慮せず言えば気にするものでもないと思っている。
弱肉強食とは汚い。それは力で欲望を押し通すという傲慢かつ野蛮な正義とも言える(、というのは頷いてもらえるだろうか)。だから生ゴミの臭いを許容している。臭うけど、でもお前は生きているうちはもっと臭ってんだから。
甘味噌炒めで和えた厚揚げの白に茄子の紫が滲んでも、それがどうしたと。紫のシミよりもっと汚いだろお前はと。
夜に自室のベッドの上、スマホで好きにエンタメを漁れる時間があればいいのなら、それは金を稼ぎに行っても十分実現可能なのではないか。
どう思う?音楽を、その音楽にまつわる物語(ex.作家のバックグラウンドや私以外のリスナーの聴き方)込みで好きや嫌いになる態度のこと。その音楽を一聴して、その音楽の好き嫌いを決められない態度のこと。「物語の強度に胡座をかいて、音楽の強度を二の次に考えることは、決して音楽を蔑ろにはしていない、だってリスナーに聞かれて初めてその音楽に価値が生まれるんだから。音楽自体の強度や物語の有無なんて、音楽の良し悪しに関係ないんだよ。聞き手が音楽から受け取ることが全てなんだ。」という意見について反対するとしたらどうしよう。
「それは音楽を聴いているのではない、音楽を頼りに物語を反芻しているだけだ。」とか、「それは音楽鑑賞というよりむしろ、メディア(というフィルター)を通して発されたメッセージを解釈し把握する営みだ。」とか言えばいいのか。これで足りるのか。
背伸びの罪
言葉知ってるって思われたい。聡明さが滲む文章を書きたい。余白に賢さを見出されたい人間の、背伸びした文章が痛い。背伸びする可愛さやいたいけさが好感されるのは、10代〜20代前半あたりまでが限界だろうか。それ以降の、大した鍛錬の習慣もない人間が小手先で憧れを追っかけるさまは、察せられるだけでキツい。文章にはそういうキツさが顕著に露わになるような。底知れなさを醸したい欲求、これが痛い。
トマト・モッツァレラチーズ・バジルのカプレーゼの作り方
コールスローcoleslawの作り方
(一部敬称略)