ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

ここ2週間のうちに思ったことなどの記録

(2021/05/04更新)


夢:他人(ひと)は冷酷だ。見た目がマヂカルラブリー村上みたいな人は、これから死ぬ奴を前にして泣いても笑ってもいない。課題なんてどうでもよくて、生きながらえてよかったと、与えられた持ち分をやりおおせるのに精一杯なのかもしれない。ただ死ぬ奴から言わせてもらうと、その目は冷酷だ。人間はこうなんだ、大したこともしないくせに、誰も助けず、ただ一丁前に命を全うしようとする。私や私の取り巻きの行く末を見るようだ。分かっていたんだ、分かっていたけどやめられなかったんだ、と。その様がこれだ、と。最後は皆やたら名残惜しいこと、愚かしくて笑えるな、恥ずかしい。まだ全然走れるくらい筋力が残っているのが我ながら勿体無い。ああ、だから臓器提供は許しておくものなんだ。
遺言の文面は目覚めた直後に誤字のケアだけしながら書き殴ったから、一応は原文ママの鮮度が残るはずだ。読み返すと、書く側の切実さとは裏腹に、内容がめちゃ薄い。またしても人間とはそんなものであるのを思い知らされるようだ。
(一行空け)
注射を刺されて安楽死する。口減らしの可能性は多くがわかっていたが、それでも別の正しさを優先してこれが行われている。学校の校舎で鬼ごっこ。最後は4人1組でコードが割り振られて、死ぬ奴がちゃんと死んだかが管理される。
終わりを前にして、何度も同じように逃げ遅れて、同じように鬼ごっこに負ける夢を見続けているかのような既視感がある。捕まった直後に打たれる一発目の注射のおかげで覚醒しないから眠い。眠いながら打ってる。
以下(夢中)遺言。
今まで関わった全ての方へ
ありがとう申し上げます。父さん母さん怖いけど、行きます。ありがとう。課題書いといたから共有してくれ。次の世よ。
怖い怖い覚醒しないからもう行かないといけないが怖い。私がラスイチそう。粘ってるから。
さようなら。さようなら。怖いさようなら。、ありがとう。頼む。



生まれてこの方、私は気遣いの文化圏に生きている。親や祖父母とでも基本的には年中気遣いありきで接してきている。
その気遣いとは何かを例えるなら、サラリーマン同士の名刺交換時に下手を取り合う構図、あるいは仲間内で飯を食いに来ているおばさま方による会計前のセッション「いいわよいいわよ、私が払うから」の発生から感じ取れるバイブスを纏うことである。家族にもじいちゃんばあちゃんにも、もちろんクラスメイトなどにも、「つまらないものでごめんね」や「申し訳ないんだけど〜」な姿勢を暗黙のうちに常に備えて会話するのが自然だったし、今現在もそれが心地良い。この姿勢については、今まで咎める大人もいなかったし、むしろ「他人を気遣えて素晴らしいね、よく出来ているね」と褒められさえしてきたから、取り立てて意識することも直そうとする気も起きなかった。したがって私にとっての気持ちいい対人関係には、前提に必ず気遣いがないといけないことになっている。
ここでネックになっているのは、私が対人時において常備する気遣いを、相手にも求める嫌いがあることである。もちろんたまの味変は予定調和を壊して人生を豊かにするから例外はあって構わないんだけど、基本筋は、たとえどんなに長い時間一緒に過ごしたとしても、私とあなたの両者が上記したような気遣いを持つことで初めて(私のための)心地良い関係が成り立つので、どうせ関係を築くなら快い方がいいと、私は人間関係にこの心地良さを生むだけの気遣いを欲している。
ざっくばらんで明け透けな人間関係は、私の人生には無縁で、今思えば普段とは別のコミュニティ、特に運動部内でしばしば通用した「同じ釜の飯を食った仲間」や「裸の付き合い」と表現されるような肝胆相照らす間柄を目標とする文化に接したときに、言葉にできない居づらさを覚えていた。こちらの了解なしで手前勝手にドアをドンドン叩かれるのが嫌だった。そのカルチャーショックからくる違和感は、結局最後まで克服できなかった。
人に言わせれば、私の理想的な関係性は、他人行儀とか血の通っていない関係とかに該当する、本当の意味での人間関係をわかっていないつまらないものなんだろう。だから本当の人間関係の素晴らしさを拒む人間と一緒にいたい人間は現れず、この断絶を言語化できないまま、私は一人でいる方が楽に感じるようになっていったんだろう。
他人同士である以上、互いの譲歩があってこそ関係を維持できるというのは最近わかってきた。ただ、私も譲るけど同様にあなたも私に譲ってほしいと思っている、思ってしまっている。



夢:小学生になる。教師・佐久間宣行が校舎内でこれ見よがしに真白い大きなキャンピングカーを運転する。乗って確認した。前後のワイパーがでかくて動かすのにガタガタいってる。着替えゾーンがある車内は、邪推か、彼のよからぬ嗜好をうかがえるよう。
さっき同じ輪の中で行動していた小1の男の子がたまたま帰国子女だったので、昼食のときそのクラスになぜか居候したら、なんだか場違いな気持ちに苛まれたので出た。
晴れた外で理科の授業。校門を出てすぐの、敷地を囲む緑のフェンス越しに生える草木が対象。確か小4くらいのクラス。一緒だった男の子のナツキ君は賢くて、授業が始まるや否やふらっと現れた先生が問うた質問に、一呼吸置いてから挙手、流れ星〜から始まる応答をみせる。「ゆとりには全くわからない〜」と口に出し、一部の周りの人間から同感を得る。



テレビでワーっとする人がラジオで常識人らしいと、ハッとするな。ダイアン津田。よなよなでの声色はただのお父さん。回数を重ねているのとか放送時間帯とかの影響はあるだろうが。ギャップ萌え。



以下、私見による複雑な気持ちの生じた履歴。
前書き。調査もなにもしていないから、ただただ声優を生業とする人への偏見に満ちた発言になる可能性が高い。ただここではっきり言いたいのは、以下の文章は声優に対する落胆や否定の表明では全くない。それは、自分の仕事に対する態度のあり方について思いついたことを率直に言っている。私の偏見によってその仕事の具体例が声優に指定されただけであって、声優の仕事に対する態度は概ねクソだと言いたいのでは全くない。もう一度言う、声優のここが嫌いとか言っているのでは全くない。声優という例から敷衍したところに真意がある。言い訳は以上。
声優は自身のファン=声優ファンを歓迎はするけども、プライベートな自身は声優ファンの存在を好きにはならない、言い換えれば声優ファンになる気はない(人が多い(という印象))という現実を思うと、複雑な心境に陥る。自分は決して自分の商売のファンにはならないし、生まれ変わってもなろうともしないだろうけど、今その人に生計を支えられていることはありがたい、という態度。これにどこかちょっと違和感がある。
お笑い芸人がよく言う「俺が客席にいたら笑うかを基準に考えたりしますね〜」っていう態度は好き。純粋。受容者の立場にも十分なり得るし、その上で提供者をやっているっていう人。芸人本人が、客であったとしても芸人という仕事にコミットできるのを容易に想像できると言ってくれると、客としては芸人という職業の存在に説得力があるように思える。
でも声優はそうではなくて、彼らの一部(大体?)は、自身が声優ファンではない。ファンの存在はありがたがりはすれども、彼らの行動に戸惑いすら覚えるときがある(端的に言うと例えば、なんで私みたいなののファンなの?なんでこんなイベント来てくれんの?みたいな考え方)のが当たり前のようなスタンスでいることがあるのが通例だったりする。もちろん、時には我に返って自分の置かれた立場を俯瞰して見るのは、自身の仕事人としての成長のためにもよくやることだけど、そういう態度が平常の、言ったら一貫してずっと自分のやってることに冷めたスタンスでいられると、ファン側としては寂しい。(かと言って嘘はついてほしくない。このバランスが難しい。時間を使ってグラデーションで変えていくか、自らの自然な成長・成熟に期待するか。)
自分の仕事をフォローしてくれる人(に感謝するだけではなく、彼ら)の視点を素直に持てる人は、そうでない人より正しいとまでは言えないけど、せめて劣りはしないだろう。仕事人としての奥行きが増す。自分の仕事に誇りを持てとかそういう美辞麗句や諺のニュアンスが欲しいのではなくて、こうもっと実際的な、自分の仕事を愛してくれる人と並び立ってみてよ、っていう、一方的に愛する立場側からの提案くらいのこと。



沈默が流れるって表現は今や定型文だけど、私的には新しい。沈黙の場面で、沈黙は流れる感じがしない。満ちる感じがするけどそれだとたしかに弱いよな。流れるって最初に言った人凄い。



マウントを取る奴は必然的に自分がマウントを取れると思うもので取るもんだからな、何でなら正当で何でなら不当かなんてないぞ。マウントは取るな。自意識の慰めにしかならん。



2021/05/01記す。TBSラジオの番組『問わず語りの神田伯山』は、一筋縄ではいかない、人に対する感情のありさま、その正しさを教えてくれる。尊敬する人にもこういう疵(とされるもの)がある、みたいな話し方が番組全体を通して自然になされる。例えば伊集院光について。「昔から大好きだったし今も尊敬するけど、あの頃聴いた言葉は今思えば胎盤や羊水みたいなもんで自己肯定のための甘やかしだったな〜、対談後に嫌われたの納得いかねえな〜、でもその後らじおとで名前出してくれて器でかいと思ったな〜」みたいな態。好きと嫌いが転々として、それらが同居するのを当たり前みたいに喋る。一貫せずに対立する感情は、決して矛盾ではない。またそこには葛藤もない。
この、ある人の人格全てを感情や時々の世評に準じて手放しで肯定したり否定したりしない態度に触れて、わかりやすい理解を追求しがちなメディア(我々にとっては忙しい毎日に埋もれないよう即時的に内容を把握できるメリット、発信側のメディアにとっては写真週刊誌的なバズりによるおぜぜのためという企業経営の側面のメリットがある)と持ちつ持たれつな関係にある私に生じる、認識の歪みのようなものを確かに自覚する。
偉業を成したとされる輝かしい人は、その功績が輝かしいうちは、その生い立ちから今現在の顔かたちまでの全てが褒めそやされるべきで正しい。逆に極悪非道な無差別大量殺人者は、その存在全てがおおむね絶対の悪であるのは間違いないとして、その上で何でこんな人間が生まれてしまったのか検証・議論しましょうとなる。これが即効型メディアのメッセージをシンプルに受け取る人にとっての、ある人に対する認識の形成過程の定番だろう。認識を明快にして立場や考えを確立したい欲求が、偏執な言動をも生む。正義が振りかざされ合う。この人は時間が経って久しぶりに話題に触れると、「あ〜昔はこんなこともあったな〜」との感慨に囚われるばかり。
即効型メディアが正しい/絶対に間違っていると規定するのにも正しさがある。出来事をありのままに伝えよう、且つそれはなるだけわかりやすい形で届けようとした結果導いた一応の答えが、今の形態で落ち着いているということだ。即効型メディアのメッセージの大体は、おそらく厳密には「〜と断定して差し支えないだろう」あるいは「〜と断定すべき」といった主観的な推量や義務の意味をはらんだ省略文を織り込んでいる。それは実務的な理解(例えばその人の功績の大きさや犯した罪の量刑の判断等)のために設ける一時的な解釈である。しかしその実務用の一時的な理解が、報道によって世間に広まってそのまま一般的な認識に定着してしまうと、その人に対する偏った認識が出来上がるというわけだ。
何が悪いのか。一つには説明が足らないのかもしれない。メッセージ中に上に挙げたような省略文があることを前もってもっと声高に示せ。
話が逸れて疲れた。



バラエティ番組のアイドルオーディション企画があまり好きではない。手広くやって更なる成長を望みすぎ。



蘇ってほしい書店に、売れた作品の草稿をあげて、それを高値で売ってもらうという、クリエイターの書店思いな行動



世界の快適音楽セレクションが聴き逃しストリーミングできるようになってて嬉しい



身体のラインが程よく出た人に目を奪われるが、同時に視界に入った奴も同じように目で追っている様を見て、冷める。目を奪われない秘訣。



病院の駐車場にて、幼稚園の制服を着た息子をワゴンの後部座席に座らせるのに腐心する後ろ姿。薄い生地の黒いワンピース越しの突き出したお尻から透けて見えた黒いT。



魅力とは典型か?
私の魅力というものの認識は、脳内に既にインストールしてあるおのれの魅力要項になるべく多く(任意の数)該当すれば、それすなわち魅力とみなされるプログラムか。インストールは必ず外からのものだから、言葉を覚えるように魅力要項が埋まるとすれば、魅力とは、世にありふれた価値の項目から選ばれるにすぎない、つまりオリジナリティは選び方にだけ見出せるくらいの、たいていは典型に収斂するしかない人間の営みなのではないか。そう考えると些か虚しい気分になった。要は今現在の人間を測る魅力といえば見た目・性格・金で、そこからはほぼ逃れられないんだと。魅力とはほとんどの人間にとっては煩悩と同義だと。悲しい、落胆する。



菊地成孔のエッセイの最終回が面白い。程よい間隔でわからない言葉が置かれて、それが程よく賢げ(かしこげ)。意図的な言葉選びだろうが、ファン心理かな、そこの寒さには盲目になっている。
昔、彼をショーンKみたいに叩く言説があるというのを聞いたことがあった。学歴詐称疑惑から、それが彼の努力である程度晴れた後も、ただのディレッタントで衒学者だっていう風に。そのニュアンスを賢げってワードに含めちゃってる節は否めない。でもそれには理由があって、だって彼がストリート出身らしい振る舞いを好んでするように見える/聞こえる/読めるときがあるから。エスタブリッシュメントv.s.ストリート=学者v.s.芸術家。こういう構図が念頭にあって、学者らしい芸術家、つまり学者ぶったジャズミュージシャンだから賢げってわけ。ただ、まあ「賢い」なんてのも結局は「審美」とかと同様に、それ自体に明確に本質的な意味が付されていない、主観表現のための曖昧な意味の単語だから、使う奴が勝手に具合を定義するよ。
加えて一応言っておくと、説得力に安心したくなりがちな思考、つまりなるべくみんなに賢いと言われる人の言葉を正当に受け取っていれば間違いないだろうみたいな思考を意識的・無意識的に関わらずする現代病を、意識的に回避しようとする一環で彼の文章を読んでいるところ'も'あるから、私としては、彼がただの好事家でもペダント(pedant)でも何でもいい、多分(まだ病気から逃れている最中だから、本当にどうでもいいと思っているか不安だから多分とした)。



青緑
緑青紺紫
好きな色を羅列、芸名らしく仕立てる。インチキ占い師。



彼は愚痴がドライブした結果、人のことを馬鹿呼ばわりして自分を確かめようとしていないか
仕事ができない人に「これできません」と言われたことをネタに、「言葉を失う、できねーんならやめろよ、はっはっは」と笑い合う2021/04/29、2階にて記す。



帯文案:今日二人は頑張ります。



人の目があると本音を言えないが行動は律せられる



U字工事の2人の雰囲気好きだな。日曜昼の自宅の空気感。日曜の昼下がりの自宅、炒飯をすくった銀のスプーンの重みを感じられる、あの緩やかな時間、許しに満ちる。



まだ王道を諦めてないとか、流石に自己愛強すぎ



夢:遠隔で彼女が発言したことを原稿に起こす任務。教室、鉛筆、緑色のマス目で細長い用紙。夜。スピードが遅くて教官らしき人物から怒られる。しかしなおスピードが上がらないので周りに待ってもらう。途中席を立つ。荷物置き場の誰かのバッグの上に、おにぎり4つが大きいジップロックの袋に入っている。うち一個は周りにごま塩が振りかけられている。前の同い年くらいの女性が挨拶する。



何のこともない家で過ごす日も、病院で入院する日も、同じ日常、その人のノーマル。説明語である、例えば普通という単語で実存を詳らかにすることはできない。私の喜怒哀楽を規定するために普通という単語が作られたわけではないはずだ。だから私が普通という単語に気分を左右されたくないと思えば、普通は私の気分を左右してはならない。説明語とは常にそういう単語である。謙虚な態度であってほしいものだ。
「失われた日常を取り戻す」とは、言うなればある個人のための標語で、「頑張ろう」あるいは「気合いだ」の言い換えである。家で過ごしたいと願う、入退院を繰り返す人がそう言えば、それは「これまで当たり前にあった家で過ごす日々をもう一度奪取・獲得しよう」という意味になる。
日常は失われないし取り戻すものでもない。日常とは、「つねひごろ。ふだん。平生。平常。」(「日常」の検索結果 - 広辞苑無料検索より抜粋)を意味する説明語で、つまるところその人が日常だと思った日々が(その人の)日常であると言って差し支えないだろう。その点で、先ほど標語であると説明した文言「失われた日常を取り戻す」とは、わざとドラマティックに時間を仕立てるための、装飾・アクセサリー・娯楽の意味の強いコピーライトみたいなものかもしれない。ここに、日常を失ったことにしてそれを取り返すという物語を作りたかった人間の作為を覚えることができる。あまりにも人口に膾炙したコピーライトは、慣用句や、もっというと箴言を耳にするときのような聞こえ方に変わり、当たり前に日常は奪われうるものになる。無意識に私の時間がドラマを志すようになるのは、上述した経緯の仮説(=「失われた日常を取り戻す」はドラマの作者によって人工的に作られた標語であるという仮説)を思うとカモられているようで、それは不幸なのではないか。
人口に膾炙すればするほど正しい価値観(←今のポピュリズミックな民主主義下の資本主義を想定)の弊害が起こっている、とは言い過ぎだろうか。「失われた日常を取り戻す」の作者は、失われた日常を取り戻したいと自身の身の上を説明する人を取り上げる報道を見て、光栄なことだ、ぜひ取り戻してほしいなどと感じ、それを本人はもちろんそれ(=失われた日常を取り戻したい人の様子と、それを見聞きして頷く作者の反応)を見聞きする聴衆も自然なことだとみなす一連があるだろう。私にとっては、日常は奪われたくも取り戻したくもないもののはずのに、なぜか真逆をいう発言を自然に受け取れ、同情し、しかもそれに気づかない。これが怖い。他人がどう思っているかはいいとして、無意識に反対意見が私に自然に受け入れられているっていうことに気がつかないことが何よりも怖い。こうして文字に起こしながら気づいた怖さだ。
失ったものを取り戻す快感のために負の思考にあえて陥るリスクを冒して日常をドラマの主題に据えるのは、怖い。私の日常は今のところ、そういう波風立つ場所には置きたくない。だから無意識のうちに日常を奪われうるものに規定するコピーライト「失われた日常を取り戻す」を嫌い、規定するまでに至った資本主義の構造もまた嫌う。



最近のサンドリは楽しく聞ける。歌いたがる有吉の歌が上手いのが面白い。昔は特に「あいつこんなこと言ってました」ってコーナーのネタがあまりに振り切っていて、どうしても謂れのない誹謗中傷に聞こえてしまうのがキツかった。いくらなんでもそれは……って具合で。そのとき、これを素で面白がれないんだから芸人にはなれないと思った。年取ったからなのかちょくちょく真面目なターンが入るのも私的には好き。



2021/04/26外来受診に同伴。病状や治療経緯について医師が確認をするのに応答する口ぶりがしっかりしている。



宇多田ヒカルを好きなのも、権威主義的思考の現れなのでは?



私的異性萌えポイント:横を向いたときに浮き出る首筋



こくうまキムチの終わり際のような鮮血



アルバム『HEART STATION』を聞いていると、喉のちょっと下あたりまで嗚咽の種が込み上げてくる心地がする。切ないというもの。



暇つぶしてるだけさ、色塗る人の歌聴いて
人を励ます大衆歌さ
いい気になるな 気分次第で決めないで まだ褒められてもいないんだから



悪人の恋人は私にとってどんな存在?どんな見え方をする?その人に害はないのに嫌ってしまってはいないか?その人の目を疑ってしまってはいないか、何でそんな奴を好きになったのよと。



権力を握る、あるいは力をつけてのし上がることについて
あることをするには、その界隈に親和的であることがとても大事な要素になるのでは。
私は頑張れない、頑張ったことがない。だから親和を探すか、もしくはまだ親和的な界隈にいるかが私にとっての正解になる。



強いチームのファンって目が肥えてるせいか口が悪い



kwann2021/04/10放送分エンディングトークより想起
「旅行中の車内でラジオを聴いちゃうと、そっちに集中しちゃってその場限りのエピソードトークができないから、旅行に音源持ってくんなよ」って視点は今まで持てなかった



夢:体が比較的大きな小学生の黒人の女の子。告白したらどうなるだろう。
飛ぶ
帰宅時間。外は雨。一斉に帰る。自転車に乗る者、バスに乗る者、徒歩の者、既に帰った者。私は目の前でバスに乗り遅れたヤモトがやむなく自転車に乗ってガンガン漕いでいく後ろを、そうするつもりはなかったのだが、結果的に同じく自転車で追走する格好になった。道路表示のピクトグラムがクールでスマホの写真に収めたかったが、雨だし、急いでいるし、手が空いてなかったので諦めた。残念だった。
飛ぶ
蓮の葉みたいな、面が大きな葉の一枚の上に小さい植物がいくつか生えていて、よく見ると蟻が管理している冬季用の餌袋か、中に甘い汁みたいなのが入っているような、豆の木の萌芽初期みたいな楕円形をかかげた植物がある。それを眺めていると、フェンス越しに白衣を着た爺、おそらく別学年の先生。私が帰るとき、別方向に下校する生徒の後ろ姿の一人に彼がいた(またブラックの女の子もそこにいた、赤のランドセルを背負って)ので、先生であるのを確信する。
飛ぶ
ガラガラの百貨店の地下1階か2階の、黒い網で塞がれたゲーセンコーナーに向かうまでの暗い通路に、紙風船を蹴っ飛ばして遊ぶ2人の男の子がいる。徐々に近づいてくる1人はよく笑っている。私を目視で確認すると、確か一緒にやろうよ的な言葉で話しかけてきた。私はそれに乗って紙風船をドリブルしてエスカレーターの方面に向かう。笑われる。エスカレーターの前まで行くと目の前からもう1人の子がドリブルで降りてきた。揶揄・小バカにされた余韻が残っている。あとは忘れた



助詞
省略すると修飾部ー被修飾部の関係といった意味の指定がぼやけて曖昧になって意味に幅を持たせやすいけど、一方で省略せずに明確に指定すると、省略したときほど意味の幅が持たせられないことが多い分、書き手の意図を忠実に反映しやすい。



ラジオで聞いている芸人が特にオーバーグラウンドのテレビ番組とかに出ていると、親近感から応援したくなる。例えばアルコアンドピース平子がヒルナンデスに出ているのを、たまたま病室に備え付けのテレビからの音で気づいて、心の声がする。
「え、平子か?平子だ。3色ショッピング?すげーじゃん、ああ、マユミさんネタで引っ張ってる。なるほどな、所帯持ちだからな、頑張れ〜。」
お前が頑張れ。リスナーの鑑な'しがみ方'か。



目を瞑って立ち現れた夢未満の妄想:平成ノブシコブシ吉村「田舎の奴らはバカばっかりだ」



担当医と私の年齢差がさして無い
くっ、とクる切迫感がある、いよいよ



あんなに好きだと思っていたラジオも、連泊中にはあまり聴けなかった。物理的・精神的両面からの理由で集中して聴けなかったのと、それも踏まえて聴く意欲がなくなった(ex.あんま聴けないな、いつもより楽しくないな、もういいや)のとが理由だ。変化が起こった先で、改めて自分がどうであるかを検証し見直すきっかけになったと前向きに考えている。2021/04/22、一時退院し、翌4/23 2:13、運転でなのかなぜか疲れた体ですぐ自宅部屋の寝床で目を瞑ったのちふと目覚めて記す。



読点打ってさも上等な広告ぶる普通の文言
寒い



エントランス前、車で待機中
アメリカ人によくみるような小さくて丸い体型の女性が歩いていて
幸せであったら何でもいいじゃん。(多分モデルにはなれな……、いや待てよ需要の変化によってはあり得るかもしれない渡辺直美の例がある……、ヘアカットモデル、いや違う……とすると何だほぼ間違いなくありえないのは……う〜んまあそうか、)多分プロ野球選手にはなれないかもしれないけど、他に無数に道があるじゃん。女性は痩せているのが絶対に幸せ、と誰が決めつけられよう。
そう思うと果たして、翻ってその女性を自分に置き換える視点に気づく。自らの思考に少し励まされる。ここにリベラリティのありがたみを実感する。



文字起こしするように喋ろうとするから原稿がほしくなる。私は書くときになるべく感情や意思の表れに忠実に働く言葉を強引にでも(例えば欲しい意味をもつ単語の類語をググるなどして)探す傾向がある。それは勝手にすればいいだろうが、話すときもそうしようとするから上手くいかない。言葉は浮かぶけどこの言葉選びは意にそぐわないなっつって会話中に間が空く。話すのには差し当たる相手がいる。会話はスムースであることを第一にした方が人当たりがよいと評判を得られるかもしれないし、会話後に覚える後味も美味しくなる可能性がある。だから今の結論、書くときと喋るときの理想は分けるとよい。



じつげんされたいこと
◯不摂生な食事等生活習慣が原因の病気は本人が意図しているかいないかが曖昧。例えるなら、とりあえず美味しいから食ってたら病気になったという患者を減らして、こうなるのをわかって食ってた患者に変えたい。生活習慣をなるだけ文字起こしなり写真なりで記録(可視化)して、日本人1000万人超の定期的な検査で原因を特定し、少子高齢化最先進国によるデータを次世代の世界に提供したい。
◯アフリカンと友達
◯◯山の家でも病室でも働ける仕事



夢:昼の5分ニュース番組で偶然知る。私と弟の名前が犯罪に悪用された。誘拐と殺人。事件の概要を説明するアナウンサーの原稿に合わせて、画面に漢字で「私の名前(6)と弟(4)」がテロップに出て仰天する。次いで当時の私らの写真が映る。ナイキの青と赤の色違いのキャップを被ってレンズを見ている、全身が写った写真。紛れもなく私たちだ。「◯◯(私の名前)だよ、同級生の」と言われたことで被害者はついていったらしい。
名前を犯罪に利用されるのを許すわけないから、言ったら私たちも歴とした被害者ではあるが、小さな子供が殺されているのである、すぐに大きな声では言えない。またしかも私自身、この個人情報流出に身覚えがある。ネットで景品欲しさに昔の顔写真と氏名、住所、電話番号などを送ったような気がする。詳細は忘れたがどこかの企業が企画したプレゼントキャンペーンだった。今じゃなくて昔の写真だから別にいいや、と思った記憶がある。すると私にとって、この被害は自らタダで個人情報を売った報いとも言い換えられる。殺人に加担した罪悪感と、個人情報を悪用された結果は自己責任であるとの意識とで、正直被害者感情になりきれない。
ところであの私たちの昔の写真は報道に要ったか?夢か



キラキラ女子とは具体的に何を好んで何をしている女性のことを指すの?またカテゴライズ?



敬称「先生」について
教師や医者は、仕事の性質上定期的に具体的に誰かを支えているから、支えられている側から「先生」と呼びたくなって、そういう人が日に日に増えるうちに呼称として根づいたっていう道理は分かる。けど一方、小説家や漫画家といった作家や政治家みたいな類いは、定期的にその技術で具体的に誰かを助けたりはしていないのにも関わらず、敬称は同じ「先生」である。助けられた一人の声がめちゃめちゃ大きいから「先生」呼びが広まったんだろうか。利害関係者が彼らに権威を付与するために、程よく親しみやすくも偉いのがすぐわかる呼称「先生」を広めようと決め、その思惑通りにいった結果なんだろうか。それともそもそも私の思い違いで、シンプルに彼らは「先生」と呼ぶに相応しいから、コンセンサスのもとそう呼ばれるのが当然の成り行きなんだろうか。



あれは確かフェラーリ。昭和の経済成長期を表す、明け透けに滾る赤色。



資本主義下のM&Aにまつわる話なんかはいわば現代の戦争。逃げて端(ハタ)から見ていたい。




同じ虫を見るのでも、野外と室内とで嫌悪が明らかに異なるのを科学的な手法で証明した、と。
急な招かれざる客に怯える。招かれざる客。



2021/04/21深夜3時23分頃、がっつりした音量でのピンポンパンポンの後、「コードブルーコードブルー◯棟◯階」を5回程繰り返すアナウンスがある



好きなものの見つけ方を知りたい
好きなものの見つけ方('好き'という感情の同定の仕方)
→きっかけは、自分を抑えたり我慢する美徳の中で成長したためか、何を好きでいるのか自分でわからないことが多いのをなんとなく察したこと。また具体例を用いて言うと、私にとって野球は大して好きではないけど、人生中で比較的長い期間プレーしていた経験もあり今でも野球中継をよく見ている。多分さして好きではないがそれをよく見る(見てしまう)という仮説、この一見不可解な現象を自らの日常中に見つけたという経緯もある。
ある人間の好きな物事を見つけ出すことは、大して好きではないが見てしまう(私でいう野球)ものからの離脱を助ける。
たとえば対象を評価する項目を準備して、各項目の値の高さで計るのがよいか。



好きという気持ちが自分でわからないことがままある。私は多分野球をそんなに好きではないけれども、野球中継をよく見る。好きではないがよく見る、これは成立すると思う。野球の見方を知っているから、手持ち無沙汰なときに野球中継を眺める行動をとるという道理。新しい対象を見るのに生じる心理的負荷(例えば、「なんでこうなんの」が対象についてわからなければわからないほど短いスパンで訪れ、それが煩わしい気持ちを高める)が、既に見方を知った野球の場合は限りなく小さくて済むので、保守的な思考の(=「失敗したくない、とりあえず、安定の、間違いない」などの単語への信頼が、新しいものみたさなどの好奇心よりも大きくなりやすい)私的候補に上がりやすくなる。



自分のいるところや行いを俯瞰したいときは、そのまま高い所へ行って今いた場所を見下ろすのがいい。効果的ということ。物理的に俯瞰した視点がそのまま俯瞰した心境を導く。単純な頭。
引いた絵によって周りの多くの中の一点であるのを自覚することを助ける。視界を広げることで対象が景色に埋没、景色を作る一要素に見え方が変わる。高い所に行くメリットであるが、ずーっと高い所にいては気がつけない一要素がもつ深みもあるのは間違いないので、人にもよるが一般人にはたとえば年一程度の移動が最適利用の範囲といえることになるだろう。



保護シートを貼った画面の四隅が硝子/宝石のカット/のようにヒビが入ったり剥げかかったりしている手元のiPhoneは使用3年目くらいで、隣人は2年更新の波にそのまま乗ったけど、こちらは敢えて乗らなかったのを思い出して。
自分たちの想像以上に自分たちの願望は大きく膨れ上がって、世界を余分に覆っているように思われる。大は小を兼ねるという言葉があるが、ある人間たちがバックボーンが由来になってか強烈に小を嫌って、あるいは思考停止して「とりあえず大で」を繰り返した結果、それが常識になって過大志向のスパイラルを生んでいるんだろうが、どうなんだろう。



夢:夜9時45分を回った店じまいをする八百屋にて、店員が他の若い客らにてんてこ舞いしている様に魔が差して、箱入りのりんごを万引きしかけたが思い止まる。自動ドアを戻る。



唐突に話を振られたときに「そうですね〜……」って周りの援護を意図せずとも求める様相になるところに、たびたび決まり悪さを感じては自己嫌悪に陥る。見ず知らずの他人との即興の会話はいつ何時もうまくできない。こういうときにいつも思う、他人との関わりをやめて、相手に馬鹿にされたり周りに不要な労力と迷惑をかけるのを根絶したい、と。



雨の日も風の日も海の波はよせてかえす


料理

鶏のささみで作るさっぱりしたサラダの作り方



南瓜のチーズ焼きの作り方
平たい耐熱皿に細く切った(スライスした)カボチャを入れ、ラップをかけて電子レンジへ。根菜類用のあたためモードでチン。熱が通ったら、冷凍保存してあるチーズを全体に振りかけて、オーブンか何かで焼いて完成。焼き目がつくと美味しそう。味付けなどは一切なしでも甘くてほくほくする。筈。



茄子栽培には苗を買う



鶏むねのひき肉で作る、大葉で巻くつくね



馬鈴薯(じゃがいも)ととうもろこしについて
牛乳パックに入れてレンジでチンできるらしい。とうもろこしのひげは残して。by佐倉としたい大西#21反省会



パイナップルの切り方



(一部敬称略)



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