ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

直近2週間の思い出

(2021/09/13更新)


医療現場が舞台のテレビドラマが多い印象なのは間違いないのかな。比較的正しさを持ち出しやすい、また感動を作りやすいからなのかなって安易に考えるけど。



芥見下々って「あくたみしもじも」って読んでたけど「げげ」だった




テレビの音をかき消すために付属のイヤホンで流す大きめの音量のMen I Trustが良い。2021/09/12 13:24の現状、宝。



鼓動が速くなるのが、左胸が跳ねるのでじっといていてもわかる。不平等に納得いかないのは直感的で、もう一つだけ冷静になると、不平等に置かれる結果を招いた自業自得に怒っていることに、不甲斐なくて苛立つ。




たまたまDIORのテレビCMを目にする。彼女は一体何人の人間を踏み越えてきたんだろうという気持ちになる。少ししてYouTubeでもう一度見て、人間だけではない、植物や自然を含める生命全般にも思い至り、次いで翻って、同じように自分も顧みる。



夢:土日の休み、小学校の体育館。ミニバスをしているのを見る。休日のはずだが、先生が数人いた。大変だ。彼女に同伴する、2人。躍動しているのはS山さんの妹だとわかったが、口には出さない。
しばらく見てそこを出る。銀色の横開きの扉を出てすぐ右手に、バスケットボール5,6個を入れられる位の段ボール一杯にスーパーで買っただろう食材が溢れているのが、肉が入った白いトレーが斜めに刺さっているのでわかった。すごい量だねと彼女が呟く。
校舎を歩く。休み時間のように児童がごった返す。そこで急に声をかけられる。サインをください?戸惑っていると、ちょうど壁面に貼られたチラシの写真ーーオリンピック選手と学校とがふれあう事業についてまとめられた張り紙が視界に入った。オリンピック開幕前に文化事業として小学校にアスリートが訪れるイベントがあったらしいが、その子は私をイベントの中心人物の一人だと思ったのだろう。イベントは終わっているはずだが、上に白いジャージも羽織っていたし、またどうやら低学年の子だったし。彼女の補助もある私は速やかな応答のための推測をして、なんと言ったかあるいは逃げたか忘れたが、とにかくサインは断った。
彼女が段々疲れてきた。児童は廊下に濁流のように溢れている。私はコロナの心配を口にした。なんとか3階の3-Hの教室にたどり着いた(ここで高校のクラスに飛んだ)彼女は、なるほど入り口すぐの自席に座り、次の授業の準備や資料集を読むふりをして休んだ。起きる



案:目的もなく小説を読めない奴のためにセンター試験の設問のような問いを章の終わりなどに設置して、読解具合の検証を外からはたらきかける。
なおその設問が作品自体に取り込まれるのもあり。



松本大洋鉄コン筋クリート』のどこか、確か序盤に出てきたセリフ「すいませんは癖になる」には経験を下敷きに完全同意する



フィクション評論・批評にはどのタイミングで接触するべき?
評論家が評論する時の頭はどうなっている?



2021/09/10、13:49。数日ぶりの晴れ。30度弱。網戸の窓の外から鈴虫が鳴いている。カンタンもいる。昼でも鳴くんだ。学校のチャイム、13:50。



※以下ネタバレを含む。
松本大洋著、漫画『鉄コン筋クリート』1巻終わり。漫画家の作品を読むのは初。作品世界が、独自の絵も助けて、斬新。相応しいカテゴライズの用語を持ち合わせていないのでこう、ブランチリポーター(概念としての)のような形容になる。鮮やかで想像的で、快刀乱麻を断つ清々しさを覚える。途中顔と名前とキャラがわからなくなるのはよくあって、例によって頁を前後して流れを確かめた。
1994年3月初版、97年8刷。思ったより古いが、戸惑うくらいの見たことのない世界ゆえにか、決して古臭くはなかった。有名作だから様々芯を食う評論も簡単にアクセスできる所にあるんだろうけど、まだいい。

2〜3巻読了。読み終わる。
3巻の後半になるにつれてセリフが明瞭になっていった気がする。だから徐々に作品のメッセージとも呼べるものの意味がわかってきた。文学的?(文学をしらないからはてな)にも読み取れた。なるほどこれだから評価されるんだろう。黒の中に白があり、その逆も然り。都市開発に賛成反対という具体的・現実的な対立の話題から、完全主義対不完全主義、真実対嘘(夢)、明瞭対曖昧、そしてそれは個人の内面にも同じ構図が生じるーー主義の葛藤と変遷からの理想対現実=個人の華々しいでもささやかな理想に対する世界の冷酷な現実の存在ーーというところまでを、わかりやすく転化してくれていた。第3巻p.174イタチaka悪魔の自分のセリフ「俺はあらゆる醜悪と堕落を信じる。/不正、不義、苦痛、怒り、憎悪、残虐を信じる。」に明快だった。さらにそこには虚無・孤独・真実とキーワードが連なる。
オチは地に足がついたハッピーエンドといってもいいのではないだろうか。こういうのが物語でのメッセージの伝え方として褒められる作りなのだろうな。




保守(予備軍)?



タイトル案:思えば
1日1文書き出しが「思えば〜」の詩を書いたものの羅列。日付つきだとだるいかな。



小学生の頃、自由研究で描いたヒラタクワガタの絵を褒められたことがあった



左右の手をそれぞれ両親に握ってもらって両足を浮かせてみたりしたかった



※以下、多少のネタバレを含む。
末次由紀著、漫画『100%の君へ』。高校生の清廉潔白な恋愛がテーマの少女漫画。少女漫画を読むのは初めて。ドラマ『花より団子』と『山田太郎ものがたり』は観たことがあった。これはジャンルの王道なのだろうか。調べる気は起きない。
2000年台初頭出版の予想は読後、まんまと当たった。時代の隔たりはあった。例えば、
略奪肯定・転校生の異性に接触プレー・教師がルッキズムを隠さない・セリフ「私の方が幸せにできる」・物語中に選択肢や立場の違いを提示しない
など。
これらを(俯瞰して批判的に捉えるでも、お笑いらしくスカすでもなく、)あくまでリアリティを込めて描くところに、昨今のトレンドとの齟齬を直感した。

今になってメモらず読んだのを悔いる。特に印象が薄い作品だと余計にあれだから、感想を書く前提なら今後気をつけよう。
窮地にヒーローたるプリンスが助けに来る流れは、作品の様式美と呼ばれるものだろう。しかしゆずの母の心変わりの唐突さや、ゆずに対する樫尾の敬語/タメ口の使い分け、最終オチは不自然に映った。母の心変わりや最終オチにみる歪さは、全2巻という絶対的な制約を察せられたから仕方ないとして、ゆずに対する樫尾の口振りはなんだろう。
たしか2巻の後半くらいから明確に'さん付け'が取れたが、あれは自然だった。ただ両者の交流イベントを数回経た後も通常会話に敬語が混じって、でも時折ゆずがちょけると激しくツッコんだり、強めの主張を言うときはタメ語になったりする所が、私的にちぐはぐな使い分けにみえた。樫尾の非パリピ+一匹狼感を仕立てるのに敬語がちな要素を入れるのはわかるのだが、とはいえ相手母との接点を持ち合って、数回の打ち解けイベントを経て、告白されるも格好良く断った後でもまだ敬語?!みたいな。いやそもそも高1で彼女おって行程一通り済ませてる時点でお前は花形の高校生だろ?それをいじらしく敬語とか使って誤魔化そうとすなよ!あ!!
あくまで想像だが、昨今のこの手の限られたページ数の少女漫画なら、リアリティを補完する小ネタを攻撃的にどんどんと仕込んで、夢物語に対する読者に目眩しをかけるんだろう。その点でこれは目眩しがないつるんとした印象で、プラトニックな恋愛がテーマの作品の展開の原型をみせてくれた感がある。そんなところか。

総じてあまり面白くは読めなかった。次の展開を楽しみにできなかったから。物語の核となる飛躍に笑けてしまったので、多分適者ではない。最近の作品を読んで確かめるべきか。手に取れるだろうか。誰かのキュレーションがあれば、もしかすると食指も動くかもしれない。ハライチ岩井よ叫んでくれ。



少なくともラジオの霜降り明星とパンサー向井は、感慨深いことを殊更強調する。両者とも売れているから、ただ感慨に浸るのが目的化したエモ虫(←本の虫・練習の虫と同様の虫の意味。もち造語。)な訳ではなさそうだ。



意識的無意識的に関わらず、同じ人間の誰かの、責任とは違う、不自由の上に成り立つ自由は正しいか。存在しても良いか。
私は食べることにはそれほど頓着せず、料理も決して好きとは言えないが、やらないと申し訳ないのでやる。大胆に踏み込んで言えば、自分が抑圧されていないと「共同体から認められないのでは」との恐れが生じ、これが無意識のうちに自らの行動に織り込まれている。これは、これまでの人生の経験の延長にある。野球は我慢だった。顔面も意思と無関係に白日に晒してきた。そういえば大学進学に関しても、三者面談後に価値観を洗われた。「(浪人してでもいいから)偏差値を基準に選べば?大学で学ぶ内容が仕事にならなくてもいい、むしろそういう人のが多い。偏差値が高い学校の方が、社会的評価があって将来への門戸がより開かれる。」
私はそもそも扶養にあって、しかも喧嘩が嫌いで、否定語が向けられるのを忌避する性格だった。次いで、そういうものだと思った。私は指示を聞いて、そのまま受け入れた。
不自由からくるストレスへの対処として、私が同じことをやり返しているというのがある。相手が私と同じように不自由を感じているとしたら、私が同じことをやり返されて不自由に苦しむのに、少なくともその相手には文句は言えない。同じ穴の狢だからだ。持ちつ持たれつとはこのことを言うのか。持っている最中の苦痛が、後の感謝をもってしても受け入れられなくなったとき、自分が自らの行動に納得できないとき、そのときを潮時に設定するのが一般的か。
2週に1遍はあるこう言った吐瀉文の類いはのちの黒歴史になるが、本ブログの性質を優先して記録物として保管するべきとの判断を下す。実際的な問題が起きぬうちは'まだ'消さない。



ミュージシャンの言う「好きでやっている(から苦しくない)」は、快楽主義の側面がある
快楽を中心に人生を送らない生き方はないのか
あるいは自由であることを主軸には置かない、自由主義よりは明らかに不自由ではあるが、不自由の中の平穏無事にも光を当てる生き方とは何か



無料を漁って1日を終えるのだから、中学時代と変わらんやん



そうだよなぁ、すれ違うあの人がもしわしだったら、きっと目を剥いて怒って、急いでスーツを着るんだろうな



ちょっとした一言が言えない。お呼びたてすることがもしかすると多くなるかもしれませんが、よろしくお願い致します。お先に失礼します。



昼のFMラジオのお便りで紹介されたら大分ポップ。赤坂アカ横槍メンゴ著、漫画『[推しの子]』。



フィールドワークという語に苦手意識がある。意思に関わらず外に出なければならない、人と略



カウントダウン
一時的に距離を置いて擬似的にそれを体験する夕刻、不覚にも事故や事件で突然誰かがいなくなった家の中に近づき、自然とそれを想像できる。



周囲から浮いて高い資本力が垣間見えるさまに恥じらいがある。自意識過剰の可能性もあるが、しかし仮にそうだったからといって、それはあくまで今回の環境下で自意識過剰(=「(他と比べて)金あんな〜」と思った、あるいは思われたかもしれないと思う)であったとしかいえない、要は相対する現象だから、これに恥ずかしがる性格がすぐに修正されるわけではなさそうだ。




2021/09/06、2020東京オリンピックパラリンピックの全ての日程が終わったらしい。今まで最中にあったから、やっと終わったんだといった気持ちもあるが、振り返るとおよそ1ヶ月強前に開幕してからあっという間だった。全競技を隈なくチェックしたわけではないし、チェックすればよかったのに〜と熱を上げるほどオリパラフリークになれてもいない。もう終わってしまった。
「もう終わった」視点に重心をおくと、どうしてもオリパラとカネの問題が頭を擡げる。国を挙げて数年前から準備する催しが、正味1ヶ月程で終わるんだ。この自明な事実に、開催国の国民になって初めて目がいった。
今の資本主義のあり方、そして貧富の差の拡大、自由や多様性を尊重する風潮を鑑みて、やはりオリンピック・パラリンピックaka世界スポーツ大会は、国費を投じるものではない。私はスポーツ観戦は好きだし、事実自宅観戦を好きに快適に楽しんだけど、何百?何千?億?兆?円を費やすほどの価値は、現状、ないように思えてならない。ましてや招致が決まると同時に半強制的に開催国民の血税が使われることが決定する、開催期間1ヶ月の文化事業である。私的にはこの「開催期間1ヶ月」というのが、この結論に至っ(てしまっ)た結構大きな要因になっている。上記したショックから通じる。
世界を取り巻く思想や、特に開催国における資本にまつわる思惑や思想、建前上の正しさ(憲法や法律で保障される個々人のあらゆる権利に基づく平等性(ex.競争原理の下での資源の再配分や生存権の保障))、具体的な問題の存在(ex.貧富の差・少子高齢化にかかる社会保障費・東北や九州地方をはじめとする天災復興・企業の国際競争力etc.)などの一つ一つを考慮し、且つ少なくとも国民の合意を取り付けた上で(普通選挙制度によってそれは果たされている?!)開催するスポーツ大会など、今あり得ていいのかと。そんな気分。
(東京都負担7020億円、国負担2210億円(大会組織委員会のHPより(2021/09/06アクセス))。東京都が思ったよりめっちゃ払っていた。億円単位で感覚が狂うが、にしてもハード施設は高え!

オリンピックは卓球・バスケットボール・スケート、パラリンピックはボッチャ・車椅子バスケ・同テニスが楽しかった。卓球バスケは展開がスピーディ。見慣れた野球などに比べてゲームの止まる時間が少ないのが見物だった。スケートは文化的。出場選手同士がグッドプレイをあからさまに分かち合うさまに刺激を受けた。
ボッチャは個人で金メダルを獲った杉村英孝選手の相手を凌駕する技術の高さに見惚れた。車椅子バスケと同テニスは健常者のバスケやテニスとは同じようで違う競技だった。車椅子のハンドリング、バスケは接触プレー、テニスのダブルスは基本2人とも後衛で、場面によって前にも出る(前衛後衛が入れ替わり得る)動きがデフォルトなところに、健常者バスケ・テニスと明らかに異なる競技性をみた。



2021/09/04 9〜10時頃、久しぶりにイトトンボを見かける。よく確認しなかったがたしか体が緑色だった。



いい言葉を見つけた。「弔い合戦」。



なぜ人口減少を愛国心もない国民が憂わなければならないのか(反語表現ではない)



空から降ってきた便利を受け取るのは吝かではないのだが、任意の点において、もはや自分では想像できないこれ以上の便利を、自らが率先して動いて生み出す手足となる必要はないのではないか。便利になってほしいと思っている人だけで便利を生み出せなければならない。その便利のかたちが想像できない、あるいは別に必要ないと思う大多数の人々を(幹部でも末端でも)労働者として雇うと、富の不均衡や、延いては個人の幸福(観)が歪む。なんでこんなことしなきゃなんないの、なんでこんなことしてんだろって。妄想だが、自分のやっていることを信じられなくなった人みんなが一斉に仕事をやめれば、生活必需品やインフラにかかる個人の出費は減るのではないか。一斉になんてまるで現実味がないが。



ここは今から倫理です。メモ
今置かれている境遇にも重なるところもあったので、作品に出てくる場合分けしたチャート上に自分を置けて、客観視と理性的な解決を望むことができた。知識漫画から知恵を拝借、ライフハック的機能を享受した。
高校教師が、(明言はされていないが見た感じ)偏差値50ほどの学校の生徒を指導する設定というのもあるだろう、言葉は端的で平易、話は単純だが、それでも私は知識漫画として我が事を念頭に新鮮に読めた。不適応反応・フラストレーション(欲求不満)反応。フラストレーションは正当な努力をして解消しなければならない。その期間を経て欲求が満たされるまで耐え抜く必要がある、つまり耐性が要る。耐性は訓練しないと衰え、訓練すれば身につく。欲求にまず気づくためにも、耐性を身につけて欲求不満を解消を図らなければならない。
目に見える多くのものは大抵誰かの労働で成り立っている。
労働で得た富は暇を潰すためだけに使われる、世界がもう便利すぎて。ここが労働に対する虚無感を生んでいる。
「労働とは時に"生きる喜び"と直結するものなのに」(原文ママ)



学校の授業は眠いけど、翌日にその授業を描いた漫画が描かれたらまだ眠らず読めるという倒錯?
気だるい高校生が高校の授業のシーンを描いたフィクションをすすんで受容するのは自然な行いとされる
(雨瀬シオリ著、漫画『ここは今から倫理です。』第3巻、p.172の想像のふきだし「今日の話/ちょっと眠いな」から想起)



app「picture this」
写真を撮ってそれが何かわかる草木図鑑



現状、自分の見た目に対する吐露の言葉が、他よりも解像度が高いようだ



2021/09/02テレ朝ドラマ『相棒』の夕方再放送。ほんのワンシーン、反町隆史の顔ドアップの演技ーーたしかあれは加藤清史郎君だった気がするが、彼が杉下右京からペンを渡され名前を書くよう促されるシーンだった(ちなみに右京のペンの渡し方が独特で、持ち手側の先を親指・人差し指で摘んで、吊り上げるように縦にまっすぐ持っていた)ーーを断片的に見かけて、それが私的に良かった。人(ニン)と役がマッチしたらしい、自然な渋い声色のタメ口だった。水谷豊のパートナー役としての彼が続投になったとの芸能ニュースを聞いたことがあったのを思い出して、辻褄が合った。



漆原友紀著、漫画『蟲師』。漫画家の作品は初見。1巻第3話「枕小路」読み終わり時点で、そういえば手塚治虫っぽい。ナレーションの字数や語調、絵のトーン、物語の転がり方、オチの余韻、作品世界観のための人物の時折の言い切り口調。一番は、上の空ぽいがどこか現実に通ずるようにも読める内容。これらがなんか治虫の漫画っぽい。



こうしないといけないと思い込んだまま、その思い通りに自らを引き上げられれば、それはその人のみにおいては正しい動きになる。(正確には、なりうる、か。)
「寝たきりになって呆けてしまうといけないから、足は痛いけど少しは動かないといけないんだよ。」
「お父さん死んで一人になったけど、まだ生きなきゃね。」
気丈に振る舞う祖母がとても逞しく映る。実際、長い年月で培ったコミュニティの手を借りながら、まだ自力で動けてはいるし、著しく老衰した素振りが見当たらないから、上の言葉に嘘はないのだと思う。真似はできそうもないが、この力強さにはまぎれもなく惚れ惚れしている。ちょうどオリンピアンのアスリートの努力を見るようだ。



周りの人物が怒っているからこれは怒るもの、怒ってもよいと判断した可能性がある。自然に任せては感情すら自分で決められない身体であることは自覚した方がよい。



山崎さやか著、筒井康隆原作の漫画『NANASE』。
スピーディに最後まで読めたことは私的に大きい。挟まれるヌード描写がページを繰る急進力になった。
男性→女性に向ける生々しい(半ば露悪的ともとれる←受け売り)性欲に駆られた視線が惨いほど繰り返され、あぁ相当辛いな、気をつけよう、となる。視線の苦痛は、私も顔面が酷いという理由で、(検証は全くしたことがないから被害妄想の場合もあるにせよ、)外では基本マスクを着ける習慣を14年は続けているから共感できた。この習慣は2つの自傷的意味(顔を覆う面積と経済との兼ね合いから個分けされた白色の不織布マスクを使っている。マスク内の蒸れと蛇腹状の内部生地によって、ナイフの刃先のように接触した皮膚が傷つき肌が荒れるという実際的な意味と、「この顔面は人様へ見せられない⇄見せてはならない」意識を育て(切っ)たという心理的な意味がある。)をもって、酷い顔面の内面化を達成さえさせた。そう考えると、この共感には多くの一般読者以上の確かさがあると信じられる。
主人公はそれでも、性的対象に見られまくる現実を、出版された年代(=原作は1975年、本作は2001年発表)の関係もあるのか肯定的に捉えるし、しかも「美人に見られるのは嬉しいは嬉しい」(意訳)と連れ子に応答してみせたので、このセリフをそのまま受け取るならば、その力強さはもとより顔に落ち度が生じない人が羨ましくならずにはいられない。

ただ一方で、ちょうど同じタイミングで聞いたラジオが影響して逆方向からの問題提起の可能性も、これを書きながら頭に浮かんだ。
YouTube動画「大童と千代田」内での大童澄瞳氏の言(以下意訳)「(生物的に)男性は女性より性欲が強いと言われており、男性の方が女性よりも筋肉量で上回るため、これが性犯罪の根源的な動機になっている。ただこれは」(coming soon......)

読んでためになった教訓などはない。が、敢えて言えば、異端者に対する憎悪=自己保存欲や自己愛の裏返しがドライブする恐ろしさ。それと、特殊であることの苦悩=コンプレックスの存在や実際的な苦痛をともなう病、そしてそれに起因する恐怖は、いわば誰にでも起こ(りう)る普遍的な事象だから、例えば自分の見た目の悪いことで、その点で自分にとっては恵まれた普通以上の見た目の他者を、自分が特殊であるという自己認識によって恨むのは筋違いだということ。



インターネット上で興味を持った人物を詳しく知りたいと思って、ググってSNSを探したりインタビュー記事を探したりして深掘りなどすると、どこかで私的地雷を踏むのか、気がつくと最初持った興味が醒めていたということがまあまあある。感覚では初期衝動の減退と言い換えられる。
対象を多面的にとらえると、始めに興味を抱いた一部分を延長して拡張した理想像が、現実の形に変わっていく≒歪んでいく。また興味関心の持続時間は自らでコントロールできない。ゆえに頭の中の理想のままにしておきたい場合は、積極的に深堀りしないほうが吉。ありのままなさまが、いつでも例外なく確実に誰にも正しいわけではない。



ヘッドスライディングを「気持ちが出ている良いプレー」と好感するプロ野球の監督



ポップ

ネットニュースにて、フジファブリック若者のすべて』が高校の教科書に載るとの知らせ。記事を読む数日前に、YouTubeでたまたま初めて通しでこの曲を聴いていた。かねてから存在は知っていたし、ラジオなんかでサビやメロは断片的に聞いたことはあったのだが。相変わらず歌詞は聞くだけでは頭に入ってこないので、読んで追った。
なるほどこれが人生というやつか、これもまた楽しそうだ。夏の終わりの余情が発生した経験がないから共感はできなかった。ただ全体、明らかにエモが溢れるのはわかる。コメント欄上位からもそれは見て取れた。メロディと歌詞と歌声がモチーフにビタビタなところがウケている一番のポイントだと踏んでいる。ボーカルの死も作品の付加価値を高めているようだ。浅いか。
書いて一言、めちゃくちゃつまんねえなこの文章。



手先不器用だが細かいという、生にあまり向かない性格



鏡の前、白い電灯の下勇気を出して首を起こすと、まあ、愕然とした



http://h2l.jp/
またしてもTwitter経由で、BodySharingなる単語を知る。2週間位前に妄想した、現実的などこでもドアのすがたに近い思想だと理解した。
妄想の内容はこう。出先にアバターとなる箱(ペッパーくんみたいな人型を想定)を準備して、今から行きまーすつって乗り込んだ専用の箱とソフトを介して、アバターの上半身や視覚聴覚触覚を直感的に感知・動かせるって寸法。歩行を直感的に実現するのは難しい(あちらの実地をこちらの空間にトレースはできない)から、足に関してはダンレボのコントローラーみたいなのでまかなう。これでどこでもドアのように、一瞬で指定した場所に行けたことにする。
五感のうちの残り、嗅覚と味覚はどうしよう。食卓を囲む需要はあるのかな。優先順位が低いから、この2つのデータの遠隔のやり取りは2021年現在は後回しにされてるっぽいけど、文化って余剰だから、そういう未来もいずれは求められるんじゃないかなと想像する。するとどう実現するんだろう。食べ物の歯応えとか飲み下しとか。嗅覚味覚それ自体は、IMAX体験みたいにこちらの箱に用意があればある程度は実現できるのかな。箱的嗅覚や箱的味覚というような、アバター内限定の新たな感覚っていうのが始まるとか?



資本主義のルールをフォローした上で、お金をたくさん稼ぎたい人に制約がかかる(稼げる上限が決まる)のは許されるのか。それが新たなルールか。
GAFAが許されないのは独占しているからで、(課税とは別に)利益があと100セクター位に分配されて今より利益が均されれば、デジタル課税は免れたのか。



覚え方:
「能」の字には「はたらきかける」の意味があり、能動(:動いて働きかける)・能記(シニフィアン)(:記号として働きかける=文字や文字を音読するときの音声)などが例に挙がる。
※所記(シニフィエ)(:記されている所。記されているもののありか。=意味内容)



(一部敬称略)



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