ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

2021/10/12〜10/26の箇条書き日記

(2021/10/31更新)


ひと月が経とうとしていた。長い、短い、いや長い?多分相応なんだろう。



心を体が追い越していたのか。
思い入れはないのに、外見は相手にそれ相応に思い入れがあるような行為をしている/行動ができてしまうときがある。正確には、思い入れはゼロではないのだが、一般的にその行為に相応するとされる思い入れの量のレベルに、実際の量が明らかに達していないと自覚できるとき。こういうときに他者から行為に言及された場合に、たまにそのギャップ分だけ変な罪悪感が生まれる。
逆もあり得る。そうだ、逆は明らかに苦痛だろうな。こちらは思っているのにそう思われない、つまり行為主に気持ちが足りていないとみなされ否定されるとき。このギャップダウンするもどかしさの方が直接的に悪性だ。



※以下、大いにネタバレ有り

2021/10/22記す。押見修造著、漫画『HAPPINESS』。まず表紙のカラーの人物画が目を引く。空の描写ーー太陽や月、夜空に浮く明かり、闇夜全体の描写が、かのムンクの有名な絵のタッチみたい。海外の誰かが何年もかけて描いたアーティスティックかつクールな漫画伝記で読んだ。例えるならあるいは版画みたいだった。

読み終えた。表紙からそうだが、人物の絵が上手。作品リストから、やっぱりティーンの男女描写が作家性の根幹を担うんだろう。物語は劇場的でポップカルチャーらしい。物語というより絵が叙情を支えている。
次の段落までは私のための整理。ルールを破って排他された人間が血に飢える生態(吸血鬼)となってしまい夜行、見ず知らずの人間を襲っては血を吸い、バレると捕らえられるので殺す。そんな人間社会の中にあってどうしようもなく歪んだ性を獲得した元人間と、一般の人間社会との断絶が、主人公・岡崎誠生来の良心によって埋めてられていく物語。吸血鬼には人間性を与え、人間にも義理人情を尽くす誠のこころに、前向きに生きようとする善良キャラは感化されていく。
第10巻p.84あたりの、30歳の誕生日に供えられたケーキを真夜中に一口食べて「ありがとう/元気でね」のシーンには、本来はど真ん中の直球すぎてなんて事ない描写のはずだが、私的にただ今の身の上と重ねざるを得ず、同情して涙がちょちょぎれた。あと同p.137あたりの、看護師が悪意なく笑顔で「…じゃまた来まーす(カーテンピシャッ)」の台詞、話始めの「…」が患者目線からリアルだった。

印象的な台詞群(第6巻pp.126-131)を抜粋する。
母「五所さん」「本当に…/あの時はありがとうね…」「一生懸命誠のために/ずっと…探してくれて」「警察にも何度も…/あんなひどいことがあったのに…」
「ずっと…感謝してるの/本当にありがとう」(太字:ゴシック調←不明確なので'調')
五所「いえ…」「そんなことないです/私は何もできなかった」「こうして私だけ…/私だけが普通の生活を送って…」
「ごめんなさい…」(太字:明朝調←同上)
母「五所さん/私ね」
「周りの子達が/大学生になって/就職して…/結婚したりするのを見ててね」「どうしても考えちゃうの/何で誠を/こんな風にしてあげられなかったんだろうって」「幸せを/普通の幸せを…」「私は誠に/どうして与えてあげられなかったんだろうって…」
「でも違う」「あの子はきっと必死に/今もどこかで生きてるから」「私が誠を不幸せだなんて/決めつけちゃいけない」
「だから五所さん/五所さんは自分の人生をちゃんと生きて/五所さんのために」「私もがんばって待ってる/またいつか誠と会えるって…信じてるから」
(以上)



説明せずにリアルに演じることで、客のリアリティに触れて、結果それはその人のリアルになる(YouTubeよりKREVA言)



芥見下々著、国内外問わず大人気の漫画『呪術廻戦』。高島鈴氏による批評を読んで、文章がどう書かれたのかを想像的にでも追ってみたくて、原典である既刊分0-16巻を一通り読む。

正直、あんまり思い入れできず疲れる。目的地に向かうための国道沿いを脇目も振らずに歩いた後の感じ。ただ大筋をなぞる作業に終始して、それだけ。「呪術師の労働モデルの罠」このキーワードだけを念頭に、それだけ。話と話の間で言い訳らしく挟まれる熱を帯びた詳細設定の解説に冷める。

進撃との違いはなんだろう。必殺技倦怠期かな。「手前漫画読んでるどころじゃねえじゃん」な気持ち、その罪悪感が耽溺を阻害している可能性も考えている。あるいはこの漫画体験自体が、さながら無理やり課題にとりかかる中高生のような消極的気分下にあったか。社会の規範や通俗と自己の内面とを擦り合わせる時期に不健康で生育不全を起こしたからか、自分の気持ちを素直に正確に把握する能力が低い。とまれ現状、特段の理由がないと読み返したくない。
アクションシーンは大概どこに何があるのか(特に体位)がつかめなかったものの、そういうのは読者のうちに往々にして起こるもので、アニメ化されたときの映像で補完するんだとラジオ「大童と千代田」で聞いていたから怖がらなかった。でも多分アニメ見ない……。
批評家の仕事にはリスペクトが生じる。このテキストからあの文章を抽出するんだから。



例えばメロンパンを英語で綴るとなんか雰囲気変わる
melon pan

p.s.
これを書いてから、必然か、メロンパンが食べたくなって10/26、近場のパン屋に買いに行ってしまった。サクサク外生地の砂糖味が、期待通りに美味かった。お菓子は就職するまで自分から買わないという約束をおのれに課して1ヶ月ほどだが、これはそのお菓子ではない。そもそもこのお菓子購入の制限は、ここ2,3年の際限ないお菓子の摂取習慣にストッパーをかけることを主たる目的とし、また間食という名の余剰=文化は摂取したいから摂取しようという、やってもやらなくてもいい行為の因果からまずは積極的に主体的になり、体の主導権をたぐり寄せる・自律(≠自立)(まず自'律'をすることで自'立'を目指す)意識を体に刻む意味にも重きをおく。その意味では、今回のメロンパンはこの本来の目的に背かない行為であるから、現状正当化されるとする。



どうやらSNSをどこか舐めていて、その偏りは一部誤りだったようだ。何で架空アカウントも作り放題のサービス内でポチるだけのフォローボタンを沢山押されれることが社会的権力とみなされているのか、と訝しむ目で舐めていた。訝しみは今も無くならないが、しかし各種SNSの性質を真面目に吟味・考慮して営業する人の据わった声を聞くと、一つの界隈とその慣習についてをこちらが知らないだけなのかとも思える。



アトロク、中国アニメの話になったときの宇多丸はほぼ必ず「羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)」の名前を口にしているような。まさか買われている?思えばいっつも言ってる気がするんだけど。



濡れた皮膚を放っておくと肌が荒れるというのは彼女が教えてくれた



絶滅危惧は生物に限らず。多様であることが正しいのは生物に限定されないから。新聞や雑誌、農家、森林、ほか。



競争原理下において、進行形で人が離れている古びたメディアと勢い活発な新興メディアがある。後者は大群が押し寄せ金も入り活況を呈する反面、その実は玉石混交している。前者は後者の登場によって突然その地位が揺らぎ始め、ご贔屓の支援によってなんとか絶命は免れているものの、首の皮が繋がらなくなる未来に対する恐怖に晒されている。一方で閑散とする中にあるゆえに、現存する旧型全体の品質の平均は上がる。正確には、品質向上の機運が高まる。淘汰状態にある業界の利害関係者には、どうすれば生き延びられるかを苦慮し新興メディアに対抗せんとするインセンティブがうまれる。古いからこそ、第三者からしたら無作為にそれに接触した際に'当たり'を引く確率は、以前に接触したときよりも上がるのである。その点で、古いからという理由で絶滅するストーリーに抵抗することは、良い可能性の芽を摘む動作に待ったをかけることと同義であり、一定の価値や説得力を持つと言える。



やはり就職を考えることを家事で逃げている



真剣にも見られるし、お笑いの視点でも見られる、懐の深い「ボレロ



2021/10/19 10:31、見送り、飯を食い、一通り作業を終えた後、ベッドの縁に座って記す。スーパーのチラシを見る癖を辞めなければならない。約束と違う。



考え事のせいか、それとも久々に飲んだコーヒーのカフェインのせいか、4時間睡眠で目が覚める。寝たくても寝られない人の苦しみがなんとなくわかる。



会話中、「ループしてるループしてる」「話ぐちゃぐちゃで何言ってるかわかんないよ」「ばあちゃんはあっちいってて(笑)」。はいすみませんと苦笑いで後ずさった。急で私は何も言えなかった。
実るほど首の垂れるなんとやらと言うように、歳をとるほど謙虚にという美徳はたしかに素晴らしい。が、しかし相手に尻に敷かれるように、抑圧されるように、理由もよくわからないまま、察せられる相手との空気感や関係性のために頭を下げる、否下げておく姿勢は、ここでいう美しい謙遜とは違う気がする。彼女には、私が言うのもあれだが、自信を持ってほしい。うるさいうるさいと窘められるのは確かに合理的な反応によるものなのかもしれないが、私も人間だ、私全体を私の一つの個性として受け入れる余地があってもいいじゃないか。こう思うのも、相手の老害的扱いと同様に筋が通った人間の反応だと言ってもいいだろう。気高くあれとは大仰だが、後ろ髪を引かれる意識があっても優先的に自分を大切にする、豪傑顔をチラ見せする機会を設けてほしい。諸行無常、栄枯盛衰、時の流れだ仕方ないと波に飲まれるのを受け入れるまでは健康なのだが、それでしょんぼりするのはあまり見たくない。彼女には、現代人たる私が自身の将来像を査定する際に決して考えられない、年齢に比した活力がある。揚げ物から肉、魚、酒、スイーツ、もちろん野菜までなんでも食べるし、友達と好き好んで連日外出するし、周りを辟易させるほど長々好き勝手喋っていられる体力がある。側からみたらずっと楽しそうに暮らしていたから、いざそうじゃなくなると惜しい。これもただの善意の押し付けかもしれない。


多様化する社会で必要な、ひとりひとりに最適化された「ライフスタイル提案」を実現していくために、これからも進化し続けます。
(TポイントでおなじみCCCのHP最下部より引用)

「多様化する社会」で「ひとりひとりに最適化された「ライフスタイル提案」」が必要なのは、明らかに手前の都合だろ。間に受けるならば、文言から正直さは伝わる。
「多様であるのには最適化が必要」って道理がよくわからない。多様と最適化って逆いってない?最適化は機械的画一化を主人側から言い換えた言葉だと思ってるって言ったら、保守確?



NHK「SWITCHインタビュー達人達 沢則行×宮城聰」から想起
番組内での言を、以下段落終わりまで。学級会で浮かないように腐心しなければならない全体主義的空気感。それは外部が乏しい、つまり小さく閉鎖的なコミュニティだから発生する。人間の集まり中ではよく気を使わなければという気持ちに駆られるが、実は外部は広くて、今いる空間世界はone of themだ。
そう言うが本当か。私に見える世界はどこも資本主義でいっぱいだ。みんなどこかで何らかの絶対を共有しなければ生きられなくなっているのではないか。どこも資本主義であるのは貧しくないか。共有する便利にかまけて、異物を殺すか塗り替えるかするルールが正しい世界にある。これでは世界全体が学級会と大差なくなってしまう。
仲が良くならなければならない神話、その正しさは私的には嘘のようだ。知らない・関心がない・話したくはない・理解できない・好かないなど、はっきり言って断絶する岸の向こう側の他者の存在はなければならない位の認識の方が、平和状態には貢献すると思う。個人間あるいは徒党間で対立はするが、互いが不干渉であれば、その間それぞれに平和な時間を流すことはできる。知らない・好かない・分からない、しかし存在は許してやる。両者で取り決める一線は踏み越えない約束を守れば、断絶を平和のために肯定できそうではある。



自分の納得感をしばしば時間の長さに見出す傾向にあるのは、時間が内容を保証しないから危うい。



2021/10/17記す。写真とお骨の前のお供えを初めて忘れる。夕飯にはそばめし、胡瓜ともやしの酢の物、茹で鶏を作る。たかだか1ヶ月にも満たないうちに。所詮。



物語、いや物語るための物語、例えば漫画アニメ小説映画。世に溢れている。
それより一枚絵がいい。美しい一枚絵をじっと見たい。



NHK「地球でイチバンの氷の世界と大地の鼓動 グリーンランド アイスランド」。Wikipedia曰く、過去番組「地球イチバン」シリーズの特選編のフィラー番組。ナレーションはなし、時折説明の字幕がつくだけであとはずーっとインストゥルメンタルのBGM。好き。とくに音楽が良かった。Shazamを使って調べようとしたが、しかし誰の演奏、何の曲か判明しない。



自由、開かれた自由。ゆえに精神的・肉体的強者が強奪する。世の中の第一義が自由であるから、「自由であること、その点はおおむね平等である」と口を衝く。
ここでの自由を一定程度否定しないと新自由主義は改訂できないのではないか。これまでの自由が毀損されるから「不自由だ!」との声が噴出するが、それなしでシン・新自由は求められない。




女王蜂『Introduction』。テレ朝深夜のバラエティ番組「トゲアリトゲナシトゲトゲ」のOPでずっと使われていたから、聞き取れる部分を打ち込んで歌詞を検索した。
オープニングではサビが印象的に使われていた。
はじまらないからはじめた それだけ 何も怖くないのに怯えてはいられないでしょう〜」
ここの耳触りはまあ良くて、だから検索したのだが、その実はすごい歌詞だった。欲望の肯定のために既存のルールや現状を肯定している。キマってて、全能感に溢れている。
入りの歌詞、
神さまが 気まぐれと不公平を唱えても 気に入らないから 関係ないね 稼いで使って 好きなら好きなだけ〜」
に既に顕著で、私には刺激的で、それは最後まで一貫する。決して好きとは言えない楽曲になった。ただ当たり障りのない(=万人の耳目に刺さらないことで馴染ませることを目的にした資本主義と親和的な)ポップスから距離が置かれる点で、アメリカンで画期的なのかもとも。清濁併呑する、まさに時代を生きる一人のリアルか。清濁併せ呑むことを前提とし、時代の脚光を浴びるマイノリティによるおらおら系個人主義、これをファッショナブルでイケてる態度とする向きーー私から見える資本主義の様子をなかなか言い得ている。



テレビ東京バラエティ番組「あちこちオードリー」、古舘伊知郎ゲストの回。彼の話す自身の心のありよう、あり方が、老後の正解かと思えた。
たまに見てしまうSNSの評判に正直に凹み、でも流行りの恋愛映画はこれも正直に一秒も楽しくないから、考えのもと見ない(流行りを頑張って追わない)と決める。謙虚にいながら、自分の最も力の入れられるフォーム・今まで培った技能が特有に市場価値を持っているのを考慮して、それで求められるものに応えるという結論を出した。言われ慣れない「古臭い」との声を受け入れるという線引きもする。謙虚に最善を尽くす。そこに確かな誇りももって、安易な自己卑下・自己否定に逃げず肯定感も守る。これがバランスが取れているようで格好良かった。



小説は書けないが、小説を分析したときにしばしば抽出されるたとえば美意識や価値観といった端的な内心については思いのままに書くことはできるし、それは結構好きである。



2021/10/12記す。朝8時15分にピンポン、郵便局からの宅配。今日はたまたま人間ドックの同居人を見送ったため既に起きていたから悠然と対応できたのだが、しかし宅配は朝9時からが決まりだろうと、頭は批判でいっぱいだった。カメラに映る仕事人に向かってインターホンで応答するも返事をされない。音声の故障かと思ったが、やつの耳が遠い可能性の筋も同じだけ伸びたから苛ついた。敢えて無視しているのかもしれないと思ってきたら、やつの非がこちらの瑕疵の可能性を上回って、瞬間この苛つきが肯定された。
玄関に据え置く不織布マスクを1枚取り出し鍵を開け、ボールペンを忘れて取りに戻り、表に出る。同居人宛ての名前を見せつけられ、ボールペンを渡されたが、自らのを取り出しサインをする。片手で楽に持てる箱の荷物を受け取り、「お疲れ様です!」と私的には張った声の、挨拶を兼ねた嫌味が口を衝いた。
部屋に戻る。日清のごろっとグラノーラチョコナッツを喫しながら、罪悪感が募る。「仕事してない分際が、ルール外の朝8時過ぎから宅配便が届いたくらいで苛立ってんじゃねぇよ」と、来る就活時に受けるはずのショックに耐性をつけておく都合にかこつけて、罪悪感を持ち出し自己否定する。この動き、先回りして真っ当面を用意しておいて、犯した罪の意識を積極的に和らげ安心しようとする一連のオートメーションこそ、まさに私の内面や行動原理を象徴している。



(一部敬称略)



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