ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

ここ2週間中に書き留めたいと思ってそうした箇条書き

(2021/08/10更新)


お菓子をつまんで食べて汚れた指を膝まわりで拭く。もちろん半ズボンで、膝周りは裸。



A:
ある事象に対する認識に、異端である後ろめたさから無意識にストッパーをかける癖があった。自動的に無かったことになった原初な反応は、創作物に触れる過程で明るみになり、その後それはしばしば肯定的に再認識される。創作(の性質、つまり固有性や希少性、主張の本物であることが称揚される領域であること)の意義を実感する瞬間である。

B:
ある事象に対する認識に、異端である後ろめたさから無意識にストッパーをかけていた。自動的に無かったことになった原初の反応は、創作物に触れて明るみに出る。ラジオや漫画・文芸などの創作物に触れる過程で、どこか覚えのある感じを捕捉して、それを頭で反芻するうちに隠れていたことを認知する(反芻過程を経ずに直接バチンとくることも半分くらいある)。認知したそれは、最終的にはしばしば肯定的に再認識できるようになる。小学生時代に嫌いになった創作(の性質、つまり固有性や希少性、主張の本物であることが称揚される領域であること、また正解がないこと)の意義を実感する瞬間である。



ラジオ投稿文:
【人生相談】
恥ずかしながら私はある矛盾を抱えています。それは、他人と接するのが苦手なくせに、自分で主体的に何かを決めて行動するのも苦手だということです。
他人と接するのは、無口で見た目へのコンプレックスがある上に、人に嫌われたくないので他者との会話に肩肘が張ってエネルギーを過剰に消費するからという理由が挙げられます。また主体性に欠けるのは、学校教育で培った受け身の態度や、周りから浮くこと、駄目だと烙印を押されることへの恐怖にいまだ支配されているからと考えています(主体性を放棄する楽さを知ってしまっている面もあります)。
白いキャンバスを前に一人頑なにじっとしているのは、側からみれば愚かですが、私としては好きでそうしているわけではないのです。私としては、これからの人生、他人と接する能力を充実させるよりは、主体性の獲得を優先したいです。



お菓子を一気に食べると気持ち悪くなる。胃の腑への負担からか怠さをもって動けなくなる。ドラッグ。



世界を獲るなんて行為は本来存在しないのだから、言説・世界を獲るが通用する舞台でそれを実現するのには、相応の対価を支払う必要があるのは了解しておかなければならない。なおその際は、対価を支払いきれない未来をも受け入れる器が準備できているとよい。



世界各国の法律の文面がわからない異国人労働者のために翻訳する仕事



そろそろいよいよラジオを聴くのを辞めようと思う。正確には、ラジオは音楽を流す番組(例えばTokyo Moonや世界の快適音楽セレクション、Daisy Holiday!、山下達郎サンデーソングブック)やアトロクのような情報番組、それとFM然としたBGM番組(例えばLazy Sundayや平日朝6時くらいからやるやつ)だけにして、芸人やタレントや声優がパーソナリティの、話を聴かせる番組の録音をWALKMANに入れるのをやめにしたい。受け身の思考から離脱できない原因は、やはり真剣にこれにあるような気がしてきた。病気を治すのに生活習慣を改めるのは一般的で、必要な行動である。私にとってラジオは今、立派な生活の一部だから、これを切ることで生じる変化を確認しようと試みるのには意義はあるはず。と、わかってはいるが……。



自分の見た目に関する気持ちを説明するときに用いたい、欲求と願望という2つの感じについて
前者は差し迫って沸き起こる、当人にとって現実的な感情の発露。後者は絵空事や想像とも言い換えられるような、いわば夢の話。欲求のために目標は立てられるが、願望のために目標は立てられない。なぜなら願望は、当人の現実とあまりにかけ離れているからだ。
すると今の見た目から逃れたい気持ちは欲求で、見た目によって恩恵を得てみたいと思うのは願望に分類される。



コンプレックスとは私的なもので、客観的視点には乏しい。つまり私が持つ見た目のコンプレックスを解消するには、私が自分の見た目を今より肯定できれば良い。私が良ければそれで良くて、数値化による数値の変化や他人からの評価は、私に不必要であれば不必要になる。
ただ私の見た目のコンプレックスと他者(=赤の他人)との交流との間には、無視できない関係がある。私は見た目のコンプレックスから他人との接触を控え、嫌ってきた節がある。(節があるとしたのは、恥ずかしながら最近になって自らの見た目へのコンプレックスの存在を明確に意識し始めたため、過去の行為や経験の因果の総括を完了させられておらず、むやみに断定するのにも不安があるため。)(そもそも完了の日を迎えるのかすら分からない問題もあるが。)
なので、これから他者と交流した結果得た他者からの評価によって、これまでの見た目に関する自己認識が崩れた場合、もしかするとそれが自己肯定感に繋がり、コンプレックスの解消に近づく可能性がある。
しかしそれはギャンブルのようなものでもある。賭けてまで自己肯定感を高めて他者との接触回数を増やしたい気持ちは今のところない。交流相手の性格や知識、嗜好、相手の前に立った私に抱く総合的な印象、その日の気分などによって私に向けられる言葉が変わるのだから、肯定されたい人間がそのルーレットを怖がるのは不思議じゃないだろう。
数打つ勇気も正直ない。他者に自分を分かってもらおうとして会話するのはよろしくないと思っている。分かってもらおうとする前提で会話をして得られる承認なんて形式的だし、そもそも分かってもらう自信がないし、大体そこまでして分かってもらうのは厚かましいから嫌だし。またそういう会話における技術を身につける努力をする気も起きない。そもそも他者には不快になってもらいたくない。特に私に対した他者には、私の自己肯定感・精神的健康のためにも余計に不快になってもらいたくない気持ちが強い。相手を不快にさせる前に目の前からいなくなった方が、私にとっても相手にとっても望ましい。我ながら書いてて胸が苦しいな。
ここから導かれる結論は何だろう。積極的な他者との接触は結局図れないので、これまでにない別の方法、例えばインターネット上で交流……と書こうとしたがこれも怖い、むしろこちらのが怖い。見た目が見えない中で培った関係性を、見た目が見える場に持ち込んだとき生じかねない不和、これは無視できない。もし仮にある程度良好な関係を構築したのち、「どんな見た目だろうな〜……あ、ああ……そうか……」と、対面前に意図せず仕方なく上がったハードルを見た目によって下回るマイナスインパクトは、私が最も避けたい事案である。見た目によるマイナスインパクトは本末転倒、自己肯定感を得るという本来の目的を、無視は疎か損ねる結果なので、決してあってはならない。
ああひどい。結局ふりだしに戻るようだ時間を返せ助けてくれ。



卓球の試合の打ち合う音声(打球音とシューズが床に擦れる音と人声)がホラー向き。映像なしでそれだけ聞いているとどこか怖い。




東京五輪スケートボード男子パーク競技をテレビで見ていて、何で私はこの楽しそうな輪の中に入れないんだろうと思う



「◯◯歳なのに〜」との褒め言葉が危うい。
特に若さだけを根拠に下駄を履かせることは、それ自体は下駄を履かせる側の都合でしかないように思う。
若い才能を新星や逸材ともてはやすのは、もてはやすことでメディアや業界の大人にまずは得があるから。もてはやした後その才能がさらにもてはやされ代を作ってくれるか否かはわからないが、将来はどうでもよくて今が良ければそれが正しいとの立場なんだとしたら、それは対象が若かろうが老人だろうが人間への接し方として決して褒められやしない。
私が当事者だったら有頂天になって心に隙ができて結局死ぬだろう




(※以下、無駄にネタバレを含む。)
藤本タツキの漫画『ルックバック』を読む。漫画家の作品に触れるのはこれが初。
まず1回読んでよく分かんない、2回目通しで読んで内容を理解、3回目以降繰って戻ってを繰り返しセリフを吟味してこの辺がエモいのかな、こういうこと言いたいのかな、などと当たりをつけられるようになる。つまり全体、印象的ではなかった。直感的に感動はできなかった。創作者の全米は滂沱の涙らしい。
ピンと来なかった例を挙げれば、自分の著作が11巻だけ並びまくってるさまの意味が最初わかんなくて、2周目でおそらく重版した分だけ並べることで売れた嬉しさを視覚的に味わい且つ自らの創作欲を煽る行為として漫画家あるあるなんだろうと想像した(が果たして)。こういうラグーー共感・熱情ポイントに置いてけぼりにされた感を後追いで埋めていく作業が重なって、熱が冷めた。あ、あと私が殺したんじゃんって独り言つシーン、あそこで冷めた意識がある。んなこたねーよ、激情的すぎって。あそこは物語の構造上なくてはならないはずなので、私と作品には溝があるということだろう。思い入れられなかった。
エモポイントを精読して理解できるくらいなので、この物語内容やメッセージを読書中に同時並行で味わうことはできなかった。要するに私は本作品にそれほど感動できない性格、アンテナの所持者だったということになる。ただ襲われる場面はヒヤヒヤしたし、そこからファンタジーに飛ぶまではちゃんと胸が重苦しかった。読み返して、犯人の顔の一部がぼんやりして白いのがとても効果的なんだと思う。
なお他人の感想は意識的に見ていない。

差別を助長しかねないという判断で作品の一部が修正されたようだった。私は最初に修正後を読み、精読後に修正前を検索して確認した。私的には修正前と後で著しい改変がなされたわけではないとみるので、修正についてやたら【悲報】などと打つネット上の記述は、ただのおこぼれあずかり隊(=該ツイートをバズらせて承認欲求を満たしたり、広告を貼ったHPのアクセス数を稼いだりする人らa.k.a.守銭奴野次馬)だろうと。修正前後では、物語のリアリティが改変部分においては薄まった、あるいは作品をしがむポイントを一つ失ったと言えるだけで、物語全体を通して訴えるメッセージの強度にはそれほど影響を与えないだろう。500万PVの大盛況とはいえ、修正されたことで被る損害(例えば修正後作品をこれから楽しむ人に、当初作者の意図したメッセージが伝わらないまま広まる可能性)が、悲観するほどの程度に至るのか疑わしい。というのもなぜなら、物語の最初に少年ジャンプ+編集部の文言で、当初のものから修正が施された旨記載されているからして、修正された事実込みで楽しめる作品として丸く収まりそうだからだ。この作品にアクセスする読者なら、冒頭に神妙に白地黒細文字で「熟慮の末一部修正されました」(意訳)って書かれてたら、修正前みたさに検索かけるでしょ、と楽観して差し支えないと判断する。炎上や忖度(ワード古いか)といった文化が栄える時代を反映したって文脈が追加されたということで、結果修正前尊重派にとってはおいしいのでは(事実噛みつき代みつけておいしそうだし)。



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2021/08/05 13:46 LINEニューストップ、デイリースポーツ見出し
「リオ銀リレー侍 6大会連続の決勝進出」
"リオ銀リレー侍"のハイコンテキストなことよ



東京五輪版ALSOKのCM
「安全安心、感動ですね!」
の語彙



小学生の夏、夜9時前後の寝る前。2階の子供部屋が熱がこもってて暑いから先にクーラー付けてきてって言ったり、また自分で付けに行ったりした。電気代も供給元の発電事情も気にしていなかった。



濃い眉毛はなぞるように舐めたくなる



東京五輪ボクシング女子フェザー級で金メダルを獲得した入江聖奈選手「夢のようで、何度もほっぺをつねった」
現実かどうか確かめるのに頬をつねるって久しぶりに聞いた



自分の気持ちに正直に、
「途中で物事を辞めちゃったんですよ〜」
って言う人の方が、表に出て成功できる最近の風潮が、辞められない人間にとっては気に食わない。一長一短なだけでしょう。ただ単に途中で辞めちゃったんですよ〜な人が表に出るのに向いた性格とは言える。後ろ暗くなくばっさばっさできる人。



オードリーの漫才って実はそんなでもない?いや面白よ、面白いんだけど、意識して面白いと思うかどうかを考えながら見ると、それほどでもないかなって疑義がわいたっていう。脱構築期なんだ。



資本主義は誰にでも開かれている分、そこに突入することに大きな躊躇いがある。ヤンキーや暴走族の仲間に入れてもらおうとする前の気持ち。



QuizKnock YouTubeチャンネル
'カネ'への嫌悪感が、うすうす純粋な視聴を妨げているような。小学生の頃だったらきっと素直に面白がれていた。歳相応の意識の変化とも言えるが、これについては純粋に楽しめるに越したことはないと思う。罪。



テラスを良いと言う価値観を解せない。テラスがある店をおしゃれと言うのもわからない。あれはおしゃれなのか?おしゃれにとって異端であることは必要条件であるとして、テラスはもうみんな見慣れてないか?もう異端じゃなくね?
なお当方、コロナ禍に関係なく外食が好きではない。朝井リョウが、食事はエロい、人は排泄は隠れてするのになぜ摂り入れるのは公然とできるのかと話すのを聞いて以降、人前で食うことに少し躊躇いが生まれ始めたが、それよりまず第一に外食が苦手なのは人前で顔一面を晒さなけらばならないからである。外食行為の中にテラス席で飲食することも含まれるので、したがってテラス席にも苦手意識がある。



夢:有吉の壁の収録がビルの中である。ジャングルポケットマシンガンズと行きのエレベーターで一緒になる。場所に着くと皆慣れたようにネタの準備に散っていく。へー、こんな感じかー、と感慨に耽ったのも束の間、どこに居ればいいのか分からず、同じ場所を5〜6周くらいした。あいつ何やってんだよの目線が痛かった。本気なら、スタッフを見つけて話しかければ場所は見つかったはずだが、私はネタを考えてきてもいなかったのでテレビに映る自信がなかった。



人と人について話すのがきつい。「人と繋がる」にまつわる精神的風土や諸行為のこと。矢継ぎ早な人への興味!
例えば人と心を通わす目的を持つ、人と恋愛する、人と恋愛を話す、人と別の人について話すなど。これが正しく快適に通用するコミュニティがきつい。正確にはきつそうだ。一応食わず嫌いかもしれないと言って、明言は避けたい。できないことがわかったときは辛い。
『佐倉としたい大西』はお仕事だからかトークの終わり方がいつも明るいので辛うじて微笑ましく聴けるが、とはいえ苦しいときはあるので、話題それ自体が私的駄目に類するとみなしてよいだろう。根本的に厳しい。



YOASOBIの『夜に駆ける』、King Knu『飛行艇』が体操の会場にうっすらかかっているのをNHKの五輪中継で耳にする。ポップたるや!




そもそも天災の復興に金が回らずに日本でオリンピックを開催するのは反対だったし、さらにコロナ禍にもあって余計その思いが強まったが、始まったから自宅で観戦楽しんじゃお、とする態度は、思想が矛盾しているだろうか。それとも両立はするのだろうか。両立はするとして、ただ人間の愚かさを象徴するということなのだろうか。どこかで愚かだとは思いながら、涼しい部屋でスポーツ観戦に興じている私は、都合よくお気楽なゆえ、この葛藤に関しては現世向きな性格を発揮しているとは思う。
ABEMA PRIMEというネットニュース番組で宮台真司氏が、祭りで全てを忘れる国民性を日本人が劣等種族である所以だ(意訳)と饒舌に語ったが、首肯した。それを踏まえて私は、オリンピック・パラリンピックは涼しい部屋で楽しむが、本来は開催反対意見だったことや、閉会後に反対だった気持ちを忘れないようにしようと思った。



実況のないサーフィン競技の中継はASMR。ほぼ波の音だけが流れ続ける。



2021/07/27午後9時過ぎ、東京五輪卓球混合ダブルス決勝戦を観戦する。手に汗握り、また靴下を履いた足裏も湿っぽい感覚があった。スマホを持って緊張する私は、ふと、日本代表を応援する観客として試合にのめり込む、主観優位の観戦の仕方をしていることに気がついた。画面を静観できず、得点が決まった直後に選手同様顔を上げたり、目線を画面上に逸らしたりするのを自然に行っていた。まるで渋谷スクランブル交差点向きのいい観客である。これに気づいて、それを止めようとした。私は画面から目を逸らさずに、どんなラリーも傍観の目つきで見届けようと試みた。SNS隆興以降流行りの俯瞰する視点。しかし気がつくと画面から目を背けている。これいかに、と今度は、彼らの深さを意識することにした。彼らがプレーヤーとしてこの現場に至るまでの経過日数について、妄想による走馬灯のような断片的な映像と合わせて思いを馳せることで、たとえば水谷選手の太腿前の筋肉(大腿四頭筋というらしい)や、伊藤選手の打球反応に対する視線に、架空の奥行きを込めた。またその際同時に、彼らの足下に斃れた屍も思った。つまり表面的な見方を拒んだ。するとどうだろう、結構もつ。効果覿面とまではいかないが、得失点に先程よりは一喜一憂しづらくなった。3分もしないうちに忘れるので、深さ、深さと念じながら見た。そうしていると、失敗しても、負けてもいいじゃんかと言う人の真意が、たまたま網に入って、ぼんやり掴めたような気がした。



景色が流れる
隣りが温かい
11月



父「もう若者じゃないけどね」



(一部敬称略)



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