ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

直近3週間中にメモろうとしてそうした、つまらない箇条書き

(2021/09/01更新)


前にも書いたかもしれない。
見知らぬ土地の、偶々そこに生えていた木や、満潮時は波に晒されるだろう岩場の一角を見て、「彼らはいつここに来て、日頃どんな心境で、今一番言いたいことは何だろうか」などと考えるときがある。そうして気分によっては例えば、「俺も訳もなくここに居続けられたらどんなだろうな」と膨らむ。自由を持て余した自覚をした時を思って。



車いすバスケットボールは、上半身を集中的に酷使する点でバスケットボールよりも体感の疲労度合いが大きい=キツいのでは



ある人の日常の習慣を、時間と内容両方を完全にトレースして数日〜体験すれば、その人の体の具合や思考、価値観に至るまでを、体感をもって想定できるのでは。それをランダムな複数人で同時に試せば、その想定は科学的根拠を持ち得るのでは。



押尾学 押尾コータロー 押井守
が同じ「押」の引き出しに入るから被る。学は俳優でドラッグ、コータローは確かソロミュージシャン、守は作家。



ポチポチという擬音を好きな人の感性とはシンクロしづらい可能性があるのは前もってわかる。ポチポチという擬音を好かないから。



全体はでかい、平和な、蟻の巣のような機能的居住空間萌えがあった。それは細分の集合体で、生産から処分までを内部で完結でき、且つ自衛機能や娯楽性、空間の余裕も備えた快適安全な私的ユートピア
漫画『約束のネバーランド』の、話の間に挟まれる設定解説含めた居住空間スケッチや、作中に出てくるアジトを見て思い出す。畑があり武器庫があり子供部屋があり書斎があり寝室がありフリースペースがありリビングダイニングキッチン風呂トイレ洗面所があり。また緊急避難用経路も十分な用意がある。何よりも、最下層に畑があるのが最高。
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NPB日本プロ野球楽天生命パーク宮城でのイーグルスの攻撃中に球場に流れ続ける応援歌の打ち込み音源の全てが、まるでパチンコ屋みたいで好かない。ファンが声を出せないコロナ禍に適応する応援のかたちなのだが、私的には本当にパチンコ屋を彷彿とせずにはいられない。射幸心を煽るような無機質なそれが実況解説越しにも大音量で聞こえてくる。一度パチンコ屋だと思ったら抜け出せず、耐え難い。親会社楽天らしい。
ここから、安定してビジネスとして成り立つ日本のプロスポーツ、わけても日本のプロ野球の応援ってそういえば射幸心を煽っていると気づく。「皆が一様に同じ発声や挙動をする応援が気持ち悪い」と言う人がいたが、嫌悪感はこういう点とも繋がるのかな。



イルミネーションの施された夜景に置く価値の大きさが、巷と自分とではっきりと異なることを自覚する。イルミネーションは明るいなと思う程度で、分かってはいるがどうしても「電気もったいね〜」とか野暮ったるい頭になってしまう。感心できない。



「騒動謝罪後初の公の場に登場」
ネット記事 アイキャッチ用タイトル(2021/08/28記す)



AVの背景に流れるテレビやラジオや音楽が気になる。それらによって大体いつ頃撮影されたのかがわかるのが良い。



浅野いにおひかりのまち』を今読み終える。漫画家の作品を読むのは初。ソラニンは名前は知っていたが。
第一印象は不思議だ。それはDLしたデータがページを前後して表示した(ex.p.10→12→11→13→15→14みたいな順)のを途中で気がついたことから、そういう作品なのかと勘違いしたまま読み下した経緯もある。そういうわけでこれから改めて2度目を読むのだが、なんか「何これ」が続きそうな予感がする。
2005年初出の作品だけあり2021年とは時間に隔たりがあるが、すでに生まれて自我もあった年なので、全体に醸すヴァイブスに全く取り入れないわけではなかった。それだけに(=ミクロのセリフレベル・マクロの物語の展開やプロローグからエピローグまでの一連の流れの両面で、理解できるところと理解が追いつかず消化不良なところとがあるから)なんだか不思議だと感じた。



私的あるある:50回連続するスクワットを数えるとき、大体数え損ねるor数え忘れるor見失うのは0〜20回の間で。経験則から。



体育会系運動部…純粋な運動部。大会に前向き。活動それ自体にのめり込む。

青春系運動部…大学のサークル一般のようなエンジョイ系。部活を通じた人間関係の充実など、運動それ自体が相対化されたコミュニティ。

体育会系文化部…体育会系運動部の文化部版。コミュニティ内の価値の置き方(ex.活動それ自体に重きが置かれ、大会の結果を重視)やヴァイブスは全く同じ。

青春系文化部…青春系運動部の文化部版。

ーー以上に共通するのは少なからず「仲間は大事」ーー

GEEK系文化部…投資やプログラミング、eスポーツなど精密機器を囲む活動が念頭にある。 あるいは自然科学分野の研究や芸術。SNSで承認欲求を満たすために脳内をひけらかしもしない探求型が究極。場合によって体育会に近い風土も観測できる。上に比べると個別色が強い。

独立系…1〜2人による活動。非複数・少数という点のみにおいて特徴がある。ゆえに活動内容や風土は構成員による。



運転免許の更新にかかる視力検査を警察署にて行う。
特に意識はしていなかったが、そのときは急いて答える頭になっていた。片目の検査は何とかパスし、両目でさらに小さい目標を見る。4つ目のランベルト環で2度目のミスを犯したっぽく、職員曰く「下、ですか……」と。
「あーーっと……ひ、だりですね。」
「はい、以上になりますありがとうございましたそれでは講習の日時は11月の〜。」
駐輪場に戻り自転車にまたがるまでの間に思い返して、外に出た実感がした。予期せぬ出来事、それも私に働きかけられるそれは、日頃滅多に遭遇しない生活にあって、より'暮らしている実感'を呼び起こした。



肉派か魚派かで言えば、魚だった



金にうるさく、さらに独占欲もある性格、のくせして現行資本主義が嫌いなポーズをとる、私はアリなのか?



タイトル案:キレる醜人ー自称醜形恐怖症患者による記述ー



夢:zipファイルをダウンロードしまくっている履歴を父弟に何らかの方法で見られ、怪しまれる。



自覚のある課題を放置し続ける人間の、主に頭の中のハイライトを記している



引きこもるとはなんと行儀の悪いこと!



死前の子供返り



バラエティ番組のコメントで一段落(いちだんらく)って言った沢口靖子に好感度が上がる。簡単。私も末。



大童澄瞳のYouTubeチャンネルを登録していると、週5くらいで昼〜夜の4〜5時間の作業の生配信が登録チャンネル欄に出るから、見るたび「今仕事中なんよな〜」って



漠然にあまえているのかな。普通科志望のままと言われたらその通りだ。



黄昏時、雨戸を締めるためにその日初めて外の空気を吸うと、開放感の新鮮さに触発されてこれからの人生について漠然と思う。怠けて体力づくりが足りていないなとか。



喫緊の人生のテーマ
自己肯定と対人関係の構築(ルッキズムへの対処を足掛かりに)



タイ人関係(クルンテープの方)



自身のYouTubeチャンネルに「thanks FujiRock!P」とタイトルをつけて自らの写真を載せるP氏。そのサムネイル写真に彼の意外に背が低いのを見て、自分の思考や人間性他自分全体に対して悲しいかな、「うーわセンスで生きてんじゃんやば」「こんな見た目をひっくり返す人気怖きも」「本当かよ胡散臭え」「スカしてカッコつけてんじゃねえよ」と前触れなく、自分自身でも全く知らない、当て付けるような写真の彼へのヘイト感情が漏れ出た。インターネットの悪魔に取り憑かれた2021/08/22、迷ったが記すことにする。



どうやらロールケーキが好きみたいだ



Twitterも1時間を超えてくると疲れてくる体になった。良い反応だと思っている。



ケア労働、社会的入院という言葉をTwitterのタイムラインで知る。Twitterには最近、ログインしないと返信ツイートを眺められない仕様に変化したのが原因でログインした。情報収集には一定の価値があるのが即わかって、また例によってたられば氏のツイートをいくらが読んだりした。



「話合い」とあって何か違和感があったが、話し合いだった



佐野元春松山千春さだまさしが被っている



小説があまり最後まで読めない



苦手なこと:粘着力の衰えたコロコロをスムース且つ綺麗に剥がすこと



職業差別、というか賃金差別的意識が私の中に根ざしている。結局俗。人が嫌いなのに人と比べてばかりいて、人と比べる指標をとても尊んでいる。



※以下少々のネタバレあり。
寄生獣』完全版を読了する。絵が上手い。絵が上手いほどSFが、写実から遠い絵ほど現実をシビアに切り取る作風が向くのかな、と。
テーマは正直私的には新しくなかった。そこは既に結構考えていた。1990年〜1995年の作品なので無理もないか。あるいは読みが甘いのかもしれない。
話と話と間に読者の疑問に作者が答える投書コーナーが大々的に広げられていて、そこで作者の言葉で作品の意図やメッセージについて結構明確な主張がなされていた。これはあまり好かなかった。というのも読書中にこれをされると、学校教育中に培った正解探しの読解法が頭を擡げて、読み方が狭まる意識があるためだ。またはもしかすると2021年現在にあって、メタに飽き飽きしている、あるいは読み方は読み手に一任されるべきという考えが最近の創作主に主流で、私もその思想に同意しており、これにそぐわないから嫌というのもあるかもしれない。
以前に人間と自然については小さい頭では考えたことがあった。トランプ前米大統領の「熱帯雨林を切り倒すことの何が悪い」「地球温暖化は嘘だ」的な言説から抽出できる、「人間も自然の一部なのだから人間の営みがどうであろうとそれは自然の摂理として肯定される」という態度は、理屈は通るものの賛成はしがたい。作中にも言及があるこれは確かにそうとも言えるのだが、少なくとも間違いなく愚かではある、なぜなら木を切ることが悩ましいから。だから賛同はできない。こういう立場をとっている。欲望に忠実であれと言うが、欲望ありきでそれらしい理由をディベート大会よろしく周到に用意したらしいのがどうも醜い。
とはいえ主人公が引き返してとどめを刺すくだりは肯定的に読めた。どっちつかずだが、揺らいで殺しているうちは殺さずに済む解答を模索するエネルギーを残しているとも言えるのと、2021年現在をも反映したシーンなのがメッセージ性が健在する証で、自己批判の材料になるから。作者は今のSDGsムーブメントには(嘘くさいからとして)否定的なのだろうか。
とまれ作品のテーマは幸か不幸か今にも通じて普遍的、また作品内容も一方を称賛他方を貶めるのではなく開かれている。立場を象徴する人物が多数登場するし、葛藤ほか心理描写も再三描かれている点に明らかだ。作者の意見がどうであれ、そこが名作と呼ばれる所以なことに異論はない。



2021/08/19現在の印象では、これまでの人間社会において、絶対に叩かれないとわかってからでないとセクシャリティを公表できなかった。保守的な理由でだ。今のところ自らのセクシャリティに葛藤する当事者ではないから断定はできないが、メリットよりもデメリットが明らかに目立ったんだろう。わざわざ公表する理由がなかった。とすると私のここ数年の時間も、特段の理由が生じない限りはまだ公表できなさそうだ。
保守的な社会は私的には好きだ。守ることが理由で動く方に、攻めることが理由で動くよりも親近感が湧くし、セーフティで、信用がおける。ただ私自身、社会に現れる攻める人に対して、過剰に嫌悪を示している節がある。異端に「何こいつキモ」と言い切るのが早いのも偏った態度かもしれない。この件を踏まえるとそうも考えられる。幅広いセクシャリティは、物心がついた年代からすでに公表されてもよかっただろうからだ。保守に対する親しみと安心感が、その保守の輪に考慮されていなかった人を排除する働きをするのは望むところではない。過激な人は好かないが、行動はこれから改められる。



伸びた前髪の長さを調べると下唇を越えた。それは束にはなっているが長さはまちまちで、半年前に行った1000円カットを思い出せる。言うまでもなく毛先に向かうにつれて進路を逸れるものがいて、また突端の数本も無闇に裂けているので、甲虫の脚、あるいは神経細胞の模式図を想起できた。突端に達したものも結局は各自の進みたい方向に進んでいる様が見て取れて、いや、さすがにここにメッセージを見出すのには無理があった。



副詞は修飾する言葉、つまり動詞の直前に置くことがどうやらベターらしい?いやそんなこともない?私は現状離しがち。



YouTubeの、プロサッカー選手のプレーまとめのBGMに顕著な傾向があるんだけど、これはサッカーとこの手の音楽から受け取れるバイブスとが親和的って理解でいいのかな。資本家が好む朝みたいな音楽。TOKYOFM朝6時からの帯番組でかかりそうなやつ。(なお資本家はラジオを聞かない。)



話題の人気作と聞いて読んだ漫画でもそれほど感動できないのは、人から聞いて品質がある程度保証されたものだけを摘み食いしているからなのかもしれないと、『うらみちお兄さん』を読んで思う。玉石混交中に玉を見つけてこそ、際立ちもひとしお、感動する。感動は、経験中のギャップに催す快感だった。



優秀であることとかっこいいことが別個に分類されがちな感性を持った。宇宙飛行士や科学者は、かっこいいというより優秀だ。対してアドゥ・アケチはかっこいい。少なくとも優秀かどうかは分からないし、他の形容詞を持ち出せる経験や語彙がないから、かっこいいとしか言えないのでかっこいいと思うんだろう。

優秀の定義には、「他のものよりいちだんとまさっている・もの(さま)」(スーパー大辞林)とある。宇宙飛行士や科学者の肩書きは、多くの人材候補から選抜された末に手に入る名乗りだと知っているので、優秀だ。ここに、彼らの業務ーー夢に見た、ロマンにあふれるお仕事に焦点を当てるのではなく、なるまでの過程に目がいくという性格がわかる。
なお優秀であればそれはかっこいいとは言わずに優秀と言うが、同じ人に優秀とは別にかっこいい側面があれば、それは優秀でありかっこいいと言う。
次いでにやってしまうと、ヒップホップ的かっこよさよりビジュアル系ロックバンド的かっこよさの方が馴染みやすい。前者は、頭で理解して良さに気づくばかりで直感でかっこいいとはならない。後者は違い、頭を介さずかっけえに辿り着ける。ラッパーは自分のバースを蹴りながらボディーランゲージあるいはリズムを取る一環で手や腕を積極的に動かすが、あの特徴的な動きに笑っちゃうときがある。それ自体がへんてこな動きに見えて。馬鹿にしているわけではない。その様式が見慣れず、(まだ)のめり込めない。



インターネット上のコメント欄に、比較的長文の当たり障りのないコメントを書き始めたら十中八九老化



怒られたくない・間違えたくない'病'と呼んでも差し支えないくらい、折に触れてこの気持ちが惹起されるのがわかる。
読了後の作品の解説や考察を読みに行って、そこで新たな見方や見落とした文脈なんかに気づいてしまうと、それをカバーしきれなかったことが、誰に見られるわけでも競うわけでもないのに恥ずかしい。感想文はすぐ加筆・修正したくなる。ファイアパンチでも同じ。重大な見落としや無意識のスルーに、考察ブログで気づいた。こんなんも読めなかったのって見損なって、自信がなくなる。
こうして創作物に触れるのに億劫になっている。正しく読むのには集中する体力が要るから、と。



※以下ネタバレ含む。
2021/08/16藤本タツキファイアパンチ』を読み終える。
読み取れたことのうち印象に残る点を箇条書きで記す。あくまで私感。的外ればかりかもしれないのが怖いが、見たいように見ろでいいのかな。
○人は自分の信じたいように人を信じ、また自分のことは自分では知れず、人に見られ触れられて初めて自分自身が何たるかを知れる。
バイアスも含んだ他人からの視線をもって、自分自身を理解しなければならない。
○辛い(「想像を絶する苦痛」にさらされた)身の上を紛らわすように、自分に嘘をつき続けて何かに取り憑かれなければならない人=本作主人公が限界を迎える。何かの役に尽くした後の人間は、外的要因から((殺されるなり忘れるなりして)どうしても都合がつかなくなってしまって)、最終的にいつか必ずなりたい自分になるしかなくなる。なりたい自分は、ここではこれまでの記憶をほぼ喪失し刷新された、イノセントな(無垢でうぶな罪の無い)姿として描かれる。なおイノセンスにはその周りで支える保護者が不可欠とされ、そのさい保護者は当人のやる気に関わらず支えなければならない。つまりイノセンスから役割のバトンを受け取らなければならない。役割当番制の図。
また生死についての道徳的な見解として、何かに尽くして自分を捧げる人は、なりたい自分になった後に死んでほしい。それまでは別人になってでも生きて、とのメッセージあり。
○イノセントな存在に対する嘘は、客観の検証がないから、当人の本当になる。信じると楽になれることもある、例えばすぐ眠れたり。信じる怖さ。
○愛ーー絶対的な偏愛は、憎悪と表裏をなす。
○映画館は役割当番中と役割当番解放後の境目にある、此岸と彼岸を隔てる三途の川みたいな機能を担う。「死んだら映画館に行く、映画館は楽しい所」とのトガタのセリフとも辻褄は合う。嘘の自分→死ぬ→(何にも囚われない勝手な(楽しい)映画を鑑賞)→なりたい自分に生まれ変わる。辛い嘘(背負わされたかたちの役割)より楽しい嘘(映画)ってことかな?
○憎しみの連鎖止まらない。痛みは永遠に忘れない。

最終第8巻を読み終わって、最後抽象的で消化不良だったから7→5→8と読み返す。読後感は進撃み〜、と。本作と進撃(は読み終わったら)の評論とか読んでみて、両者の違いも発見したい。どんなメッセージが読み取れるのか、切れ者の批評にアクセスして膝を打って、読み返したい。

p.s.
考察ブログを読む。見落としや無意識の無視の存在に落胆。情けない。(ex.ラストサンとネネト描写の理解、旧人類と祝福にまつわる設定の把握、トガタラスト描写の理解等々)



人が生きているだけで誰かにとって都合の良い時代が来たら、引きこもりでも自由は制限されるけど生かしてはくれるんだろう。



鼻頭の角栓の処理の、是非を含めた正解を探しにBingったところ、角栓を抜き取るYouTubeを発見する。年齢制限がかかったそれは、カメラドアップで角栓をピンセットでひたすら抜き取っていた。理解が追いつかない。チャンネル内動画は、見ると6000〜1万視聴されている。肌荒れコンプレックス持ちにはますます理解に苦しんだが、ある動画の主の返信コメント「美肌を目指す人は絶対にやらない方がいいです」に、なるほどフェティッシュかと合点、世界を知る。



人間がコンピュータにも限界を覚える風潮になる日が、生きているうちにくると思っている。だからといって何をしているわけでもないが。



逸脱することに慣れたい
いや変化だ、ある固定的な本質があってそれから外れることを逸脱と呼ぶが、そうではない方が現世では都合が良さそうだ。つまり絶対的な存在としての本質などはなく、形を持たず常に流動的であることが正しいとすれば、逸脱という言葉に固執する必要もなくより平和的に自己を維持できる。



ふつおた (お二人はどう思いますか)】
アートって言葉が、巷では漠然とした意味で使われている印象で、耳目に触れるとなんだか都合良いなぁという気持ちになったりする。アートチャージ、アートなおでかけ、◯◯ってあれアートだよね〜、他。

アート呼ばわりされる対象は今後各々変態したもん勝ちかな。

界隈の人はどういう認識なんだろう、例えば現代アートと呼ばれるものの従事者。なんとも思わないのは、①漠然と「芸術まわり」と指図されるアートって言葉で呼ばれることで恩恵を受けている人か、
あるいは②アートの語源や理念に基づいた多義性・不定性に心酔して、いちいち批判するには及ばないとの判断からか、
はたまた③アートとは総称であって、それ自体曖昧なのは正しい。アートと括られる内で様々分派/枝分かれした先でそれぞれに名前はついているから、このままで良し、アートチャージでも何でも言えばいい、との立場か。
お二人はアート、どう思いますか。ぶん投げ御免。



いつもと同じ絵文字やスタンプで会話をしていても、会話主の気持ちに明確な変化が起こっていることもあるのを知る。時代の効率や合理に則るほど見失いがちになる事実だと思う。当然と言えば当然の人間の有り様を、またしても己の非社交的な人生を悔やむ理由にして再認識する。
またこのような思考が、そもそも自らのキャラ=無口で卑屈な自己肯定感に乏しい人嫌いな非社交的性格の固定化、私的伝統的なアイデンティティの強化に向かわせるのを歓迎している嫌いがある。これでいいやって、慣れ親しんだ手近な檻の中に安住するってよくあるさま。



鳴き声案:みほーん



zip版をchromeにコピーし、圧縮コマンドで圧縮する→pc iTunes経由でchrome内のzip版をpc本体にd&dで移し、解凍する→pcソフトを起動、iPhone本体を参照し→スマホリーディングアプリ(side books)を選択→先ほど解凍したファイルをd&dでアプリに移す。→アプリの方で読み込みが完了すれば無事に本体アプリ内で利用できる。(了)



設定案:自分の見た目に激しいコンプレックスを抱く主人公はルッキズムに悩んでいる性自認は男性で異性愛者の童貞。弘中綾香氏や宇垣美里氏といった力強い見目麗しい女性が画面に映るのを上手く見られない事に気づき、原因は女性の底知れぬ怖さにあると仮定する。イケメンとされる同性には嫌悪が湧かないのは、人生中イケメンが醜い人間ではないことを経験しているから。相手方が必要とあらば絶対に交際しない約束を書面でかわした上で、女性と友達になりたいと欲する。そんな中でたまたまfc2動画で友だち関係になった女性と、メッセージ上のやり取りで親密度を深めていくことになる。



猫耳には興奮しない



絵本案:世界の理不尽(大小問わず)を、誰々の場合と表してチュートリアルで時制に沿って淡々と紹介するだけの絵本。どこに保護する線引きをしようか、と暗に問いかける。
例)出生が紛争地、親が既にいない、



まめに気づくのが恥ずかしい、恥ずかしくて結果自分の中でそれを揉み消して気づいていないことにする、みたいな動きをよくする。そういう非社交的思考由来のストッパーを日常であまりかけずに済む相手が、例えば私の友達と呼べる人なのかもしれない。
ただそのまめなるものが、果たして本当にまめであるのかの了解を得たことはないので、とんだ思い上がりをしている可能性も否めないのか。だとしたらそれはそれで恥ずかしい。いずれにせよ恥ずかしいのなら、いっそセレナーデ、まめに気づいてみるのがいいのかな。



いつもより語気を荒げてしまう機会を省みる際、以下のような因果関係の成立可能性を思う。誰かから明確に頼まれた経緯があるわけではないのに、「やってあげている」気持ちで物事にあたってしまうことで、ふとした、またごくささいな否定に対する、過剰な「(わざわざ)やってあげているのに」反応が生じている、という説だ。

このイラつきを避けるためにはどうしよう。私がイラつかないようにするといった方向の、自分の器を大きくする案もあろうが、問題解決の即効性にはまちがいなく欠けるし、また実際に寛容になれるのかどうかという対処方法の実現度合いにも疑いが残る。やはりやってあげている気持ちを解消しなければならないのだろうか。
だとしたらまず一度、やってあげていると感じている行動について、その行動に関わる全ての人と会話をして、「やってあげている」が本当なのかを確かめた方がいいかもしれない。同時に、自分の心にも改めてそれはやってあげているのかどうかを聞いてみる。そうしてから具体的な行動の頻度の調整などについて議論すればいい。
次にありえる解決策は、やってあげる思考からのそもそもの脱却だろうか。つまりやってあげようと考えて起こす行動をやめて、自分が進んでやりたいと考える行動を優先する行動様式に移行するというものだ。これは上のイラつきの原因を根本的に消す策だが、一方注意点も既に容易に想像できる。それは、これを実行してたとえ成功したとしても、要するにやってあげる行動を全て自分のための行動に置き換えられたとしても、そっちはそっちでまた全く別のイラつく事案が起こるだろうし、もしかすると移行後の方がたくさん事案が起こる可能性もあるということだ。本格的に実行する方向で進めるのなら、その可能性の精査や自分の性格を調べることなども含め、あらためて段階を踏んで検討する必要があるだろう。



タイトル案:少女の通称
タイトル案:承認欲求のさがし



自分の将来のことなのに、いやだからこそ調べ物をしたり具体像を描こうとする気が起きない気がする。何せやる気が起きない。身近な大切な人、例えば彼女に言われたことならもう少し腰は軽いはずだが、何せ自分のこととなると動けない。自分の内側からの声はどうも小さい。頭でまず考えはできる、どんなんなら出来るかな、何したい/したかったかな、何得意やったかな、など行動の起こりを脳内で探すまではやるんだけど、それら挙げられた候補の現実味を精査するために、前例はあるかとか、どこ行って何すればいいかとか、いくら稼げそうかとか、そういう脳内候補を補完する情報を調べる段階に進めない。何でだろう、ただ怠惰なのかな。



承認欲求という言葉を聞いて、承認欲求が走り出す
足の裏が攣るとはどういう状態を指すのかを知ってから、足の裏が攣ると痛くなったのと同じ



何度も同じようなことを書いている自覚はある。引きこもりの脳内などたかが知れているということか。ただ、正直に書いてはいる。



被害者面をして行動しないのを嘆いているとも聞こえる投稿であったことを、数日後内容を読み返して感ずる。自分の都合に合った言葉を見つけ続けるだけの人生はまっぴらだ、といったツイートが身につまされる人間になってしまった。こうした思考を済ませることで否定を躱そうする魂胆もあるのが、いかにも小市民らしい。



自ら「食べたいものがあったら買い物行ってこようか」と聞いておきながら、返事の内容によって行くのを渋るというのを素でやってしまっている。



自宅住所の情報を織り込んで最適化されたのが明らかな動画広告にはぎょっとする。私的にはマイナスプロモーションになっている。個人情報の漏洩は、時代が下っても基本皆が嫌うものだと思う。
気持ちでは確かに嫌だなと感じているが、ただ宣伝側が意図する潜在意識に刷り込む効果は果たしているに違いない。
(これが実利に繋がるとして安くない金をはたいているはずだから道理ははっきりあるんだろうが、教えてほしい。私の意識ではそうして知った広告の品はどうにか買いたくないのだが。)



夢:庭の金木犀やカボスの木が、強風で根こそぎ倒れていた。隣の家の木(これは何の木かわからない)までもが、フェンスを潰してうちに倒れ込んでいた。父は既に、土をこんもりと盛って、さも当然かのように新しいカボスの木を植えていた。一時に比べたら収まったもののまだ風は強いのに。



(一部敬称略)



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