ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

今週思ったこと

(2019/10/22更新)

◇かんたんな煮物の作り方
皮を剥いた里芋は、皿に乗せてラップをかけ、レンジで熱する。(でないと、具を合わせて煮る際にトロトロのぬめりが全体を支配し味が付かなくなるから)
厚揚げとちくわを適当な大きさに切る。厚揚げは、煮る前に表面の油を落とす下準備をする。ザルに出し、沸騰したお湯を上から全体にざーっととかけるだけ。
鍋に具が浸るくらいに水を張り(完成の水量の半分程)、先に厚揚げとちくわを入れて中火くらいにかける。味付けは、すき焼きの元を2周、麺つゆとくとく、みりんとくっ、以上。
ぐつぐつしてきたら、里芋投入。なるべく前述した由来の瀞みは入らないようにするのが吉。
味が染み込むように具をポジションチェンジしながら火にかけ、ときに蓋をして煮る。色を見て具に染み込んだぽそうなら汁を味見して、良さげなら完成。



豆乳鍋の作り方
鍋に半分くらい水を張って湯にする。その中に、適当な大きさに切った具(しめじ、豆腐、白菜、厚揚げ、大根、人参など)を入れ、火を通す。途中本だしの素と味噌少量を入れる。(多分本だしは水を沸騰させる段階で入れてもいいっぽい)
最後に豆乳を(水量)残り半分入れ、ぐつぐついったら完成。(豆乳はあまり火にかけすぎると分離するため最後)



遊戯王カードのキラキラ
新しいカードや強いカードのビジュアル、その色どり・色彩から暗に受けていた視覚的な刺激が恋しい。未だに色を見てハッとするときがある。パステルカラーは違う。初めて見る色、手の込んで作られた色、あるいはその取り合わせに反応する。作品の様式とか込められたメッセージとかそういう文脈的理解からの刺激ではなく、もっと直接的な、ただ色が綺麗、色彩美、見惚れる感覚。理性ではなく本能的な興奮。



パワーポイント2枚を作るのに一日かかる。
頭で作業内容を整理出来ず、余計なことに目が移って疲れる。座っていられず横になる。作業能力が落ちている、明らかに。明らかに。何でこんなにできなくなっているんだろう。思った以上に出来ない人間なことに予定が大幅に狂う予感がして来たる将来が思いやられる。生きるのに自信がない、不安だ。



広告代理店勤務、独立したのちラジオ出がち。



田中将大の緻密な投球は「アート」 快投に賛辞やまず「リベラに匹敵する成績」」
「アート」「美しい」と呼ばれるもののその内情、経緯はとても美しいなどとは言えない代物、たとえば泥臭い積み重ねの結晶なことはままあるだろう。



ついつい表面ばかりさらってしまうな
クラッチくじでキャッキャ頑張る芸能人たちを撮るバラエティ番組が悲しい
悲しくないんでしょう。正論は正論、いくらでも批判に対処するカードは尽きませんでしょう。ダサいんでしょう、その態度を表すのは。確かに表に出すのはダサい。ただこれ思ったことのメモですから、そこは正直に。
この一連の逡巡も、読み返してわかるように合わせてメモ。



以下アト6djプレイで気持ちよかった回のプレイリスト
薄っぺらバレるかもとかもう思いたくない、そういう人生から一歩進みたいねな
With You (feat. Joyce Wrice) / Devin Morrison
Falling (feat. Malika) / Snakehips
Old Age / Masego & SiR
Champagne / BJ the Chicago Kid
Mad at U / Leven Kali
Gonna Love Me / Teyana Taylor
Everything I Got / Brasstracks & Anthony Flammia
Lemons (Bonus Track) / Bun B & Statik Selektah
With Me / Slim Thug
Waterworld (feat. GoldLink & Jazz Cartier) / Falcons & B. Lewis
Addicted 2 (Keep Cool Remix) [feat. Bas] / VanJess
FRIDA / Jamila Woods
Whoa / Snoh Aalegra
Magic Number / B.o.B
Reachin’ 2 Much (feat. Lalah Hathaway) / Anderson .Paak
Day 1 ◑ / HONNE



電動車椅子サッカーは、ただでさえ危険な車椅子同士の接触が激しくならないように2on1というルールで、ボールをめぐって2対1の構図になりづらいような工夫がある。また各選手の車椅子の出力スピードに上限が設定されるなど各ゲームにレギュレーションが設けられている。
ブラインドサッカーは、目の見えない選手同士ゆえ、相手との接触を避けるために、ボールに向かう選手が掛け声(ボイ(voy)=スペイン語で「行く」の意)を発することが義務化されている。ボールは転がると音の出るサッカーボールを使用する。またゴールの位置を声で伝えるガイドや、晴眼者もしくは弱視者が担うゴールキーパーの存在、ピッチ外のコーチの指示など、あらゆる聴覚情報がプレイヤーの動きに活用される。もちろん観衆にはゲームの妨げになる発声は慎まれる。このように一般のサッカーでプレイヤーが頼りにする視覚が聴覚に置き換わる工夫がふんだんに盛り込まれていた。
対してデフサッカーは聴覚に制限がある人によるゲームなので、プレイヤーは身振り手振りで意思疎通を図っている。また足音や息遣いから相手の位置を感じられない分、ボールを受ける際は相手を数度にわたって視認する技術が必要になっている。
以上の3つのスポーツは同じサッカーでありながら、それぞれの競技でプレイヤーの障害がゲームのレギュレーションになっている。そのため必要な技術や用具、ルールが独自に発展し、それぞれの面白さを際立たせている。特にブラインドサッカーの観衆は、静寂が求められる空間だからこそ、ゴールしたときに一気に解放される盛り上がりにカタルシスを感じている様子で、それが興味深かった。



錦織圭ボッティー二氏とのコーチ関係解消「キャリアの貢献に感謝」
キャリアの貢献に感謝、かっけえ文言



夢:取手にて。日中の2〜3時の食卓にクライマックスシリーズがTVで流れている。オリックスが2回に6点リード。西野がよく打つ。頑張っている。「これ日本シリーズオリックス行くんじゃねえか」と言う。
飛ぶ
野球場。センターからレフトにかけて挟殺プレーの練習か何かをしている。挟殺プレーをしているのは確か。追いかけっこ。多分かつての仲間たち。



図書館入口前の広場の大きな金木犀の木がいい匂い
つぶらなオレンジの色どり
小学生の通学路は糊の匂いがする
これからやること(=これから新しく何かを始めること)、ならびにこれからやるということは、15コくらい下の学童が公園でサッカーもどきをするのとまったく同じことだor〜サッカー擬きをしているようなものだ。すなわち放課後3〜4時の公園で学童とたわむれる果敢さ、没頭、楽しみを思い出すことが必要。



アルブム



図書館の検索サーバーにおけるアルバム『Wednesday 21』の注記より
注記:アルゼンチン出身シンガー・ソングライター、フアナ・モリーナによる6thアルバム。自身のスタジオで全ての演奏を自ら手掛けたセルフ・プロデュース作。絶妙に配されたアコースティックとエレクトロニック・サウンドに甘美なヴォーカルが絡む。
「絶妙に配され」るのは音符とかだと思ってた。配される-サウンドはまずでてこない。
こういうのを読んで、言葉の使い道というか、組み合わせを拡げていくんだろうね



不安も生きてる証やな〜とか思考停止するのはやめといて



死を前にした気持ちは、本当のところ分からない。実感が持てない。だから死を前にした人、カウントダウンが始まった人に対して簡単におのれの死生観を語ることはできない。確固たるビジョンがないからそもそもわかったように語ろうとする気にもなれない。
残される人の気持ちは、数度体験しているから何となくはつかめる。
何となくとしたのは、死人は毎度新しいため。死にゆく人に対する思い入れがそれぞれ違うというのは、つまり残された人の気持ちもそれぞれで違うということ。だから数度の別れの体験が、新しい別れに際した残される人の気持ちを判別し、確定し、その結果落ち着かせる理由にはならない。したがってある死に対面するときの気持ちは、その人が死んでからでないとわからない可能性が残るため、例によって曖昧な表現に逃げた。



死人と死ぬ人の、耳に聞こえる印象の違い
前者の方が冷たい。客観する文章で用いられる熟語というイメージから。後者は口語臭がする分温度が上がる。「人」の読みの、音と訓の違いも影響しているだろう。あいだにぬが入るだけで読みが変わり、印象が変わる。



夢:ドラフト中継を楽しんでいる。直前に見た元ロッテの里崎智也YouTubeチャンネルが大きな影響を及ぼしている。中身はほとんど忘れた。唯一覚えている記憶をデジャブを期待していうと、ロッテは佐々木朗希君を外し、外れ1位1回目で投手を獲る。彼は西武か楽天か日ハムへ。あとジャイアンツは久々、抽選で1位を引き当てる。(佐々木君はここだったか?)記憶が曖昧である。ただ確実に起こったのは、ロッテが彼を外すというイベント。
なお結果は言わずもがなであります。



今回のゲストスピーカーは、筋ジストロフィーを患い電動車椅子サッカー選手として活動する吉沢祐輔氏。自身の遍歴や活動する日々の中で思うことなどを、障害者スポーツ当事者の目線で実演を交えながら講演するのを聴く。
活動・病気・お金のこと等さまざま話を聞いたが、総じて喜びよりも辛みが多く、現状の問題点の列挙が切実だった。
また同時に、氏のアスリートとして培っただろう人間的な強さを肌で感じた。発言に漲るいきいきする生に相対し、その外面から同情する心持ちで話を聞く準備をしていたことに気づき、それが恥ずかしく、また失礼にさえ思えた。

「病気の進行に合わせた変化に対応し、役割を絶やさない」
「居場所のために障害者自身が常に変化する」
氏の発言ではこれが印象に残る。
障害は、社会的な重大さの程度に差はあれど、広く言えば生きている人間誰しもが抱えるもの。そしてそれぞれの障害はそれぞれに切実だ。そういうことで、「障害の進行に合わせた変化に対応し役割を絶やさない」態度は私にも当てはまり、刺さった。ここに、できないことの中で何ができるのかを真剣に考える意義深さを教わる。また翻って、あることができない他人と関わり合うとき、必要に応じた工夫をめぐらすことが大事だと学ぶ。今後折に触れてこの機会を思い出したい。



noは、ひふ



青白いルサンチマンの炎(from タマフル)



1.逆台形モデルとは、あるスポーツをポピュラーにする視点に立って、考えうるあらゆる形でそのスポーツに関わる人を増やそうとする試みであり、スポーツをビジネスとして捉える際のモデルとして提唱されていることが分かった。それは、一般にスポーツ選手の育成強化の観点から用いられるピラミッド型のモデルに対する意図がある。現場的な競技力向上や勝利を目指す方針に基づくピラミッド型のモデルを、スポーツに関する他の要素、たとえば興行的な側面や文化的な側面、教育的な側面などにそのまま援用することはできないことを改めて示す点で有意義である。
2.今回の講義の本旨からは内容が逸れるために指摘が避けられた、「スポーツ間の競技人口の奪い合い」問題に少し関心を持った。
大人・子ども問わず、競技者一人は一つのスポーツに拘って活動しなければならないとの認識が無意識的にでもあるとするなら、その意識の縛りを解くことは、この問題を、少なくとも奪い合う様相から沈静に向かわせるのには役立つのではないか。
育成という考え方は、競技選手としての大成を念頭に、一意専心を推奨する。しかし本講義のテーマであるビジネスの観点から、またスポーツの文化的・教育的な側面からスポーツ人口の増加を期待する観点から言えば、一人が複数のスポーツを掛け持ち取り組むことは望ましいはずである。
現在アメリMLBで活躍するロサンゼルス・エンジェルス所属の大谷翔平選手は、アマチュアまでは比較的一般的な投手と野手の兼務を、NPBに入ってからも球団の理解や支援に助けられながら貫いた。その結果、海を渡ったアメリカでも類を見ない'二刀流'の選手モデルを体現し、実成績で評価を得ている。
彼がプロ選手として二者をこなしたお陰で、スポーツにおける両立はこれまでほど強く否定はされなくなるだろう。体系的な競技者育成は重要だが、一方で個人の選択の幅を広げスポーツ人口が増えるのは良いことだ。



1.今回は、トヨタ自動車(株)オリンピック・パラリンピック部から上田裕之氏をゲストスピーカーに迎え、来たる2020年東京オリンピックパラリンピック(以下、東京オリパラ)に対するトヨタの取り組みについてプレゼンテーションしてもらった。ever better Mobility for ALL/ever better Society/ever better TOYOTAを掲げ、より良い明日を望む企業・トヨタ。全体を通して、トヨタが東京オリパラの公式スポンサーとしていかに有力で貢献度が高く、またこれからも日本のスポーツ産業を発展させるにふさわしい担い手かを保証するプレゼン内容だった。改めてトヨタが日本を代表する私企業であること、その誉れ高いことを理解した。
2.講演の聴いた中で印象に残ったのは、質疑応答内での上田氏の言葉「オリンピックが他のスポーツ大会と異なるという意識はない」だ。曰く、「トヨタとしてスポーツ大会のスポンサーを務めることにコマーシャル的な意義を見出すフェーズはもう過ぎている。その先に何があるか、自動車を介していかに社会に貢献できるかが、アスリートやスポーツ大会を支援する上で重要になる」。私は今日まで、企業の協賛はあくまで投資的役割に資することが前提にあるものだと考えていたが、それは思い違いだった。もちろん、協賛企業に名を連ねれば相応の資本力を裏付ける証明に、またそこでの貢献は商品の宣伝、企業全体のポジティブイメージにも繋がるだろう。そこに将来的な利得になる期待はあろうが、それはあくまでも期待であり企図ではない。スポーツが人間社会に及ぼす好影響の可能性ー例えば個人の成長やチームワークの醸成、見る者に与える勇気や感動ーを軽んじず、広く社会全体の活性化に寄与せんとする姿勢は社会的貢献そのもの。トヨタのスポーツへの敬意を表す理念と、それを実現する企業としてのタフさに感銘を受けた。



1.今回は東洋大学水泳部コーチにして、競泳日本代表トビウオ・ジャパンヘッドコーチを務める平井伯昌氏をゲストスピーカーに迎え、主に現場におけるコーチングの経験に基づいた自身の思考についての話を聞く。
氏の持つトップアスリートを世界の頂点へ導くための術は、豊富な知恵×知識◯と経験の蓄積の上に成り立つ最善策ゆえに、プラグマティックで生々しく、先鋭的にも聞こえる言葉によって語られた。日本の競泳競技の最高峰で長くコーチを務める氏にしか話せないだろうその言葉には、どこを切り取っても、そのすべてにトップアスリートの強化を担う矜持、トップ・オブ・トップの'強さ'のようなもの(凡人には計りかねる、ただ力強いとしか言いようのないヴァイブスのようなもの)が宿るのをはっきりと確認できた。
2.平井氏の講演中とりわけ時間が割かれたのは、選手との信頼関係についてだ。印象に残ったのは、かつて氏が自問自答を繰り返した末に考えついたというコーチに必要な要件の1つ、「コーチは選手の意思決定の代理人」との箇条だ。選手の意思決定の代理人というどこか冷たい風にも聞こえる役割意識は、選手が望む目標を達成するために的確な道筋を示し導く立場を端的に言語化している。
講演全体を通じ、氏が頻りに強調していた主張の1つに「明確であることと適切であること」がある。
◯目標の数値化
◯自らのターゲットを明確にし、公言させることで覚悟を促す
◯各レースの適切な目標設定と正確なタイム予想
◯選手を惑わせない端的で適切な指示
◯性格や年代に応じた適切な言葉選び
以上は氏が挙げた、現場で実践する行動の例だ。これらに共通するのは、行為の明確であることおよび適切であること。世界で活躍し続ける選手の育成に長く深く携わる氏のキャリアを具体的に裏付ける要因の1つは、この態度にみられるだろう。意思決定の代理人という言葉選びにもまた、明確で適切な目的設定の意図が窺える。



MLBア・リーグ優勝決定戦の9回からたまたまTVをつけた。美味しいところしかなかった、それが味気なくもある。時間の長さの価値。



暗がりを前にしたときに暗がりから聞こえる擬音、スオ〜
カップ麺にお湯を注ぐ擬音、たしお〜(from 映像研には手を出すな!)



夢:初めての体験。どこかの体育施設に連れ1人と赴き、そこで行われていたトレーニング、特に腹筋トレーニングに参加する。パートナーの女性はアスリート、慣れている。隣りの連れも別の人と組む。
まず見本として女性の方からを始める。上体起こし。旧来のあの、仰向けで膝を立てパートナーに両足首を手で固定させ、上半身を持ち上げては寝持ち上げは寝を繰り返すやつ。さすが、スムース。見惚れているうち気づいたら交代、俺の番。同じように始める。1回、何かが違う、昔と。もう70回やってるかのような疲労。2回目、もうきつい、重い。が、外面を気にする性格、恥ずかしさから逃れる力で無理矢理上げる。3回目、まあきついが2回目と同様の経路で何とかカウント。4、いよいよ上がらない。周りはさっきからガンガン振れている。分かっている、上げなくてはならないが、上がらない。あぁ全然上がらないと口に出す。2秒間ほど間を置いて再度抗うが、無駄な足掻き、上がらない。口が言い訳する。上がらない。終わった後のインターバル中も口は止まらない、腹筋の代わりと言わんばかりに。起きる。仰向けで下になった尻が汗ばんでいた。
実はこの前にも何か動きのある夢を見た気がするが思い出せない。どこかから仲間数人と脱出するくらいのものだったような。



hisaqhi
qhiでクィってなんかいいでしょ




作家としての振る舞いの是非はさておき、大童スミト氏の解放感は羨ましい。そして映像研の世界が羨ましい、欲しい。小4までのあの無意識のうちに享受していた幸福、ゲームを媒介にした。少し時間を空けて、第三者的にはたから見る視点でその世界を覗くと、「なんだこれ」みたいな、少し前まで没頭していた自分が嘘みたいに距離を感じるこの感じも含めてワンダー。まるで夢、もしくはjust現世でしよ。
正直な感覚として帰りたい、戻りたい気持ち。郷愁とも結びついているのは否めないから、この感覚自体は危うい。この感覚を目指すと失敗する。純粋にみえるが実は21C的には不純。(マシンガンズを想起。)あくまで能力ありきというか、生活スタイルに憧れる志しと、これを書きたい訴えたいとの欲が下地にある志しの違い。結果と過程の密度(強度)の差。先人の視界がネットを媒介に(VR的に?)よく見えるゆえの地団駄。いわゆる悟り世代の由縁(か)。
p.s.
携わった時間が長いだけスポーツは好き。でもその業界はゲームと共にした幸福とは異なる質の理想が念頭にあるような気がする。あくまで私見それも妄想的。
p.s.2(プレステ2)
ティービーワンダーって盲目なんだね。(それが乗っかってるんだ付加価値として。)そしてご存命でした。
p.s.3
これがこれからの創作者像か。出し惜しまないスタイル。顔もネタも。作品が作者の実体験をふんだんに盛り込むゆえ容易に想像される一発屋の未来は無視、次の手段を探せばいいじゃんで生きられる将来。あくまでその表現方法をとった作者としての私が一発屋になるだけで、他の草鞋履いた私はブランニューですよの態度。事実、アニメーション→マンガなら描くの楽かなで売れた経緯有。



障害者がスポーツを行う意義や期待される効果について考えられることを、以下3つの側面から端的に述べる。
まず身体面では、健康増進に有用であることやリハビリテーション効果が挙げられるだろう。不勉強で、ここで身体上の効用が何であるかを具体的には示せないが、適度に身体を動かすことは健常者・障害者問わず体の健康に役立つだろう。
次に心理的な側面では、スポーツを通じて仲間意識やチームワークの醸成、他者を尊重する態度が養われることで、自らの障害、ひいては生命を肯定的に捉えることに繋がる。他者と自己を比較して障害を自覚するとき、時として自己否定に陥るかもしれない。その際、スポーツにおける達成が生活のなかの一つの目的となれば、直前否定した自己をその間忘れさせる効果が期待でき、あるいは自己の障害を積極的に認められる転換点が生まれる可能性もある。そういった前向きに人生を過ごすための機会になりうる点で意義がある。
最後に社会的な面からいうと、障害者スポーツは障害者の社会参画に寄与する。健常者用に作られるスポーツのルールやマナー、空間では、障害者のハンディキャップは直接障壁となって参加を妨げる。それは社会が障害者を身体的に束縛しているとも言える。それぞれに障害を抱えた人間がスポーツを行える場を整備することは、障害の有無を問わず全ての人間が共生する社会に向けた第一歩になる。またその実現は社会側の責務だろう。したがって障害者が不自由なくスポーツに取り組むことは、目指すべき社会の仕組み、つまり障害者は社会の一員であることを保障する。そこに一つの社会的意義がある。



(敬称略)



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