今週思ったことなど
◇マカロニサラダの作り方
マカロニを沸騰した塩入りの水で所定の時間茹でる。
→茹で上がる間に、以下の作業を。
•人参適量をいちょう切り(半円の半分,1/4,クォーター)にし、2〜3分茹でる(もしマカロニが茹で上がる前ならそのまま一緒にぶっ込んで茹でてよい)。
•胡瓜適量を薄い輪切りにし、塩もみしてざるに出して置く=水を切る。
•4袋連になったハムの1袋分4枚を適当な大きさに切る。
(•玉ねぎを薄くスライスして入れても美味しいかも。)
→茹でたマカロニと人参はざるに上げ、粗熱を冷ます。
→少しあったかい位で、手でぎゅ〜っと水を絞った先ほどの胡瓜とハムをマカロニ人参と合流させ、混ぜる。
→さらに熱が冷めたら、マヨネーズをお好み量加えて和える。
→黒胡椒をガリガリして、和えるもしくは上からかけた状態で完成。ラップをかけて冷蔵庫で冷やしても美味しい筈。ゆで卵を混ぜて豪華にしてもよろしいが、カロリーはさらに上がる。
仏壇前のチーンをサンプリング
線香のにおいがする
グループLINEで放たれる唐突な下ネタが露骨で見るに堪えない
会話調を推したSNS、携帯端末間のブロークンなやりとりに上手くついていけていないことを今更自覚する。
ここで忘れてはいけないのは、LINEの良さを享受できないのは、私の場合、そもそも人との密なコミュニケーションを避ける性格だという事実が前提にある可能性が高いことだ。自分の感覚としては完全に上の通りで、事実先行というか、つまり会話したい相手がいないからLINEが苦手みたいなところがある。相手がたとえばカワウソとか、晴れた朝によく鳴いてる鳥とかなら会話してみたいかもしれない。向こうが友だちになってくれればの話だけど。
スタイルウォーズ
人のために歌う歌、いきものがかり。手法や内容の革新的変化や工夫は意図的になされない。度々のNHKのお仕事も吝かではない。
自分のために歌う歌、ロックバンド。つまらないから変化する。手法やギミックに拘る。それが楽しいし金になるから、という循環。
「eスポーツを活性化させるための方策に関する検討会」を傍聴する。大人の会議だった、入り口で名刺の提示を求められるくらいには。会を運営する大人、関係者席の大人、マイクリレーする委員の大人たちは慣れていた。だからこの会議は、一般的な大人の会議として理解して良いだろうと思う。大人の会議のバイブスを知れたのは収穫だった。男が多かった。
開始から1時間過ぎに集中力が切れる。終了の号令を聞くなりすぐ立ち上がり帰路についた。2時間座り続けた尻が痛かった。軟弱。
会の中身はというと、「eスポーツを金にするのにどうしていきましょうか」を関係各位が話し合い、擦り合わせを行うものだった。方向性や目標設定といった言葉が似合う会合で、それを分かって行ったはずなのに、並べられた観客席の前から8列目に座る傍観者の立場も助けて、途中で飽きてしまった。先が思いやられる。
印象に残っているのは、ときど氏の、「最近プロとしてメディアに露出するようになって、その際に意識するべき憧れられる立場としての振る舞い方や、身につけているべき一般教養の必要性を特に感じる。これまで表に出なかったゲーマーはそういったことを知らないから学ぶ場があってほしい」との提言。現場に立つ選手ならではの意見で、黎明期の選手のブランディング案として説得力を感じた。でも正直今思えば、それは内容に感銘を受けたからというよりも、集中が途切れた中でときどと名乗る声を知覚して、「お、ときど!名前知ってる!」っていう反応を起こしたことが、靄がかってうすのろな意識に鋭敏だったために頭に焼きついたという道理のが正しい。反応した経験が印象に残った(だけ)ともいえる。
帰り道では、もういい加減という感じだがやはり、将来を案じた。その価値を信じられ心酔できる対象じゃないと、野球や大学生活と同じ過ちを犯すと思ったら、eスポーツの言葉を知っているくらいでは業界にはとてもそぐわないだろうと思う。嬉々として新しい業界に救ってもらおうと勇んだ認識の甘さが恐ろしくなる。ただ、じゃあ何なら心酔できるんだと言われれば、何も無いのだ。「誰かの為に」だとか「今は、引退までは我慢」だとかそれらしいことを言って現を抜かして、自分を知らないまま来てしまったから、何に関わりたいかも自分のことなのに答えられないのだ。虚無に走っては日を暮らせてしまっている。決めて、やらなければならない。ならば何でも良いはずだ。欲が無いとは裏を返せば何にでも欲情するということだ。そうhideも歌っていた。そのはずなのだが、Googleマップを左手にビル群をさまよっていると、魔が差して、欲深い猿の結晶が乱立した街で欲深い猿どもとすれ違う欲深い猿を真似したかわいい猿の存在に嫌気がさして、足が重くなり、またそのいかにも表面的な感情の起伏にため息も恥ずかしく、喉元から胸にかけてじわ〜っと重苦しくなるのだ。足を止めてしまってからは、その経験した記憶を反芻してしまう。今日も今日とて誰も知らない言い訳並べを言い訳にやり過ごしている。もうもはや軽犯罪。
よくわからないが、置き忘れられた傘を盗んでしまった。机に取っ手が引っかかってあった。私の中ではそれは拾ったんではなく、はっきりと盗んだ。色合いや柄から女性のものだろうと後から気づいて、なぜ盗ったのか余計にわからなくなる。ポイ捨ては絶対にしないし、この前なんかは早朝歩道に落ちていた、期限が切れたコンビニおにぎりの頂点を摘んで拾って、人目も憚らず手をかじかませながら駅前のゴミ箱まで運んだというのに。
これは結構同意を得られそう、他人の鼻歌が嫌い
夢:弟がトラックの運ちゃんになるそうだ。来週からめんどくせぇと漏らした。こうまでして世知辛い世の中か。それでもえらい。弟は俺よりも。
期限ギリギリになると覚え始める、ゾ〜ッ、がくるまで始められない。それはサボり癖。
ホフマンってクラシック音楽家の曲が今どきらしくて親近感が湧く。『Notturno op.88 No.3』と『狩にて』という曲を聞いた。ゲーム音楽にありそう。
人が死んだニュースの下に笑顔のスポーツ選手がいる
数字がぱらぱらぱらと繰って上がり下がりする動画萌え。その際は最低でも小数第1位までは表示するべき。池田亮司の作品みたいな。
芸人に対して人(特に公人)はなぜ優しい口調になるのか。子供の目線まで腰を落として会話するときのように。
→お笑いが、わかりやすく答えがない仕事だから。合理が命題の社会に対して、お笑いは不合理なのを、芸人を見て笑うテレビやラジオが流しているから。要するに理不尽に奮闘する芸人に気持ちが寄るから。
例えばバカやブサイクが価値になるのは、社会人にとって明らかに不合理。真逆の世界。そのカルチャーショックの経験が同情や共感を生じさせる。
芸人の世界では、そういう優しさや優しさを喚起する見せ方は見当違い/不服とするスタンスが主流だが、現状金が集まるのは人が集まるところだから、生きるために優しい金の力に屈している。芸人はその板挟み、バランスに日夜腐心している。
広告ビジネスの跋扈
なぜ金は人が集まる場所でないと集まらないのか。変えたい。人が集まらない場所にでも金を集めたい。
本来金は、物の価値の高さに正比例して支払われる。だのに、今のビジネスは人間の人数の多さに比例して大きくなる。今の億万長者はフォロワーが多いだけ。身体(欲望)を操作する巧さの競い合いは、物の価値ではない。物とビジネスは違う。ビジネスはより大きく、より広めてみせるスタイルだが、物はそれ自体をきわめることを求める。
物の価値とはたとえば新規性・独自性・希少性。評価が価値要素としてそこに加わると、それはたちまちビジネスの価値になる。
人の動きの流れを変える:ミーハーはなぜミーハーか。ミーハーにどうすれば独自の主張をさせられるか。
その他案:①余暇・自由時間を増やす…×。この自然に任せたら広告ビジネスが主流のままだろう。
②(段階的or兼業的)個人事業を推奨する…◯。会社は人が多いから三本の矢噺のようにその分大きな商品を作れるが、個人を侵す。会社は数千人を養うために金を安定的にぎょうさん稼がねばならない。一方で個人事業主は1〜4人を養えばいいから、会社ほど安定を要しないというか常に全体(社会通念=金稼ぎ)を気にしないでいい楽さがある。
ただ仕組みがそうさせない。課題は多い。昼働いて夜寝る動きを皆がするから、必然その人たち向けに社会ができる。朝はニュース、昼ワイドショー、夜はバラエティ。YouTuberは午後8時に予約投稿する。深夜はお店が閉まる。annは深夜1時から。土日祝日のアウトレット。正月夏休みクリスマス。健康な食材は高く、機械で作られた安い食い物は砂糖塩脂肪が多い。社会通念に呼応して商品に値段がつく。だから一度会社から一定の恩恵(給料)を受けたら、それを捨てることはできない。自殺的。
それでぼくも
金を集めて 金を集めて 金を集めて
蒼空を翔けたいんです 蒼空を
「日本人よ!内向きになるな」世界の難民を救った緒方さんのラストメッセージ
「ルールを壊せ!」壁を打破する実行力
未来を生きる若者たちへ…世界を動かす言葉の力
(「クローズアップ現代+『緒方貞子さんのメッセージ 言葉に動かされた人々の物語』」 より)
↑全否定したい、そろそろ。
昔のたとえつっこみが安心する
最先端・未来予測を競い合う社会についていけず悲しい人が、「いや古いわ!」言いながら、分かることに安心する
恋に落ちるて詩的
全裸になりたい、でも太陽光も欲しい時がある
全裸が気持ちいい時がある
2019/12/12
スピードスケート競技の小平奈緒選手はスポーツ選手でも有数のかっこよさ
決め手になるは押す力
スマホ中毒で時々思い出すけど、画面越しによくよく対面する彼や彼女って、そういえば私のこと全く知らないんだよね。
こちらの勝手な接触から思いを寄せるまで至っているだけであって、誰も知らないんだよね、私のこと。こちらの泣き笑いなんて、スマホ越しである以上、知るよしもないし関係ないんだよな、彼らには実際。あくまで商売で泣かせ、笑わせるんだったな、彼らは。私の部屋の悲喜交々なぞ、言ってしまえばそれ自体は取るに足らない営みなんだな、と。
パソコンのキーボードは、いい加減カタカタ音が鳴るボタン式の仕様から、指の感触でボタンを感じられるだけで叩く音は出ない仕様に移行するべき。できるッショ?
すべてがFになる - Wikipedia
これを言うにはちょっと古い作品かもしれんけど、小説の登場人物に軒並みクセが強い名前がそろうと読む気が失せる。よく「人物名に拘りがないのが逆に悩ましい」みたいなことを作家が言うのを聞くから、その文字数が多いだけの個性的な名前が自然に動くようになるまで、自分の覚えられなさからくる苛立ちと葛藤しながら読み進める作業が無駄な骨折りに感じられて、ページを繰る手を阻む。読書、特に小説読みを妨げる主要因の一つ。
海外作品にそれは全くない、なぜならそもそも隔たっているから。言葉も文化も思考も違うのを暗黙に分かった上で手に取るから。でも母国語の作品の場合は、敢えてそうする必要がないだろうになぜ、っていうイライラが差し込む余地がある。長く時間を過ごした分色んな情報に接触して、侵し侵されながらそれでも健気に生きるうちに自然に養った、自分に快適な環境に移居する欲。快適さを求める欲が育ったゆえに、異質や不快との距離が広がった。私が許せる海外は海を渡らないと行けないけど、ここでいう異質や不快はあくまで地続き上にあって、「向こうの土地は私の土地でもあり、でも(真に)私の土地ではない、ただこれから私のものになりうる土地」という認識の上で距離がある。だから母国内の隔たりは海外との隔たりと違う。そこには、地図で見る距離の隔たり以上に大きな質の違い、いわば心理的な距離の隔たりがある。心理的な距離の隔たりが私をイライラさせている。
図鑑って独特の二字熟語を連続して多用するよね、専門用語的に。
たとえば葛藤(つづらふじ)。
つづらふじ【葛藤】
ツヅラフジ科のつる性落葉木本。暖地の山中に自生。茎は緑色で無毛。葉は互生し、長柄があり、卵円形で時に掌状に浅裂する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を円錐花序に付け、黒熟する核果を結ぶ。つるでかごなどを編み、根・茎は利尿薬やリウマチの薬とする。オオツヅラフジ。
(大辞林第3版の解説より)
暖地の山中に自生〜緑色で無毛〜互生し、長柄があり、卵円形で時に掌状に浅裂……と韻踏むみたいに多投する熟語が、一見専門用語ぽいけど個別に見れば別にそうじゃないっていうのがウケる。擬態してぼやかす感じが面白い。
(敬称略)