ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

ここ半年はもはや死んでいるのと同じな時間だから、黙っていても死がちらつくようになっている。希死とは違う。

(2022/05/17更新)


 カレー沢薫(原案協力/ドネリー美咲)作漫画『ひとりでしにたい』が面白い。1人の親族の孤独死から、肉親の介護や葬儀、お金、家族間・職場・恋愛における人間関係などの話題に晒された30代女性の主人公が余生を考える。
 情報&啓発漫画としてタメになる意味もあるが、たとえば「子ども部屋おば(おじ)さん」など、所々私的境遇にも重なり刺さる。知った陰口をいざ実際に聞いてしまった時の感じ。作者のwikiから辿ったら、どうやらなんらかの賞(詳しくは第24回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞4作のうちの一つだった。大賞は3月のライオンだった。)も獲ったらしい。たまたま読んだが当たり?なのかも。
 言葉選びとセリフ回しが作品世界を自信をもって形作って小気味よく進む作品が、面白いと思ったら実際に表でも評価もされていたという有り難い経験。ん?とちょっとでも思われるのはキズ。

 以下具体的な感想を思うままに放る。

いまだにどこのご家庭でも援助して孫の面倒見てくれるジジババの存在前提の社会制度!!そんなの今どきチートアイテムだっての!!
(第3巻p.112より引用)

に対する、

30手前まで子供部屋おばさんやってた人がそれ言うのか…………とは今は言わないでおこう」(同上)

みたいな心理描写は、おでこにブーメランを食らう簡易的な挿絵も相まって、性格とか価値観に基づく個人的考えであって決して非合理とは言えず否定できない。ぐさと刺さる不都合がこちらにあっても許容される考えだ。ここに、他人との関わりにおいて、良性悪性あれど印象やイメージというレッテルからは逃れられないのだなと痛感する。自分の脳内が自由であるには、相手の脳内も同じだけ尊重しなければならないのが平等というものだから。尊重する基準とは、合理的であるかどうか。ただしその合理というのは根拠が不確かでその時々で自在に変化するから難しい、というのは以前思考した。
 女の子の絵が上手くキャラ含め主人公の鳴海はかわいいが、男性の絵のクオリティはそれに比較して低い(/く見えた)。主人公から見える世界の男の造形に忠実とみるのが平穏な眼差し方か。
 風呂に入らないとはたしかに向こうからすれば非社会的だなぁ、清潔・おしゃれ・会話などは社交に欠かせないのだなぁ、などとしみじみ。生きとし生ける皆さん抱きがちな感慨「生きるってツラい……(トホホ)」がまさに。
 あと笑ったのは、家族ってこう!何事もなかったかのように事後を曖昧にする!事が起こったのも知らないプレーヤーもいて!まさにこれがリアル!ってハッと思い出すメタ描写(第3巻p.174)。いい角度のあるあるで膝を打った。




脳内再生:Funny Bunny / the pillows。みんな言うから聞いたことあった有名なサビ。マヂラブann0録音で聴いてから拭えないポップなメロ。



今中学時代に戻っても同じ轍を踏みそうだことを想像できるから、学んでいない。変わろうとしない。自分の操作がおぼつかない。'私'がない。



 やはり無視できない。M-1決勝に出たコンビになったから過去のラジオ音源をdigれる心理現象が起こっている。わーきゃームーブ、これは否定できない。真空ジェシカのラジオ父ちゃん
 真空ジェシカという人選が私を説明するのに絶妙。まだ売れたとは言い切れないが、しかしファイナリストブランドを得た実力aka公共性は備えているコンビを、ライブのチケットを買うなど金を直接落とすことはせずに、メディアを介して追っかけるまでの非課金フォロワーという位置。お笑いファンをカテゴライズするならば、M-1決勝コンビを非課金で推す点はわーきゃーに当てはまるが、テレビ従属系の主婦・高齢者層の受動姿勢とは違う態度を自負している、マイルドヤンキーみたいな中間的立場にある。マイルドヤンキーが地方の需要を下支えする役割を担えるように、私も再生回数やSNSでの反応に一役買えるので、全く無意味な存在ではない。とはいえ無料の障壁はとても低いので、どちらかと言えば、いや明らかにわーきゃー寄りに位置している。


【西武】「越後の牛若丸」滝沢夏央伸び盛り!2安打2打点「本当に信じられない」連日お立ち台

(LINEニュース記事 日刊スポーツより引用)

「越後の牛若丸」という異名が採用されるところに加齢臭を感じた



今の私の、投資的意味のない全く無駄な時間は、誰に対しての無駄だろう。例えば植物学者が何年も一生懸命植物の観察に時間を費やしたとして、その意味は、その意味を理解できる相手にのみ意味があることになり、意味が理解できなければ、その時間はその人にはずっと眠っていたのと同じように理解されるだろう。つまり自分の時間を説明する弁舌に長けるか、その時間の意味を理解するものに対してしか、時間の意味が生まれない。自分で思うのみでは、それは自信とか信念とかで説明され、意味ではない。



むらむらするの「むらむら」って音、あなたの実情と合ってる?



夢:家族がいる車内だったことを忘れるほど必死に東野幸治をヨイショした。世代であることを、よくある褒め方だが熱を持ってかつ流暢に伝えられることを優先して訴え場を持たせようとした。



私にとってのロマンティックあげるよは、たとえば潮騒のメモリー。関連動画から想起。



なんか生きてしまっている時間




 ハエだかアブだかのドアップの絵のジャケ写に惹かれ、YouTubeでEve6のアルバム『Eve6』を聞く。ギターロックの音色は今や懐メロに近いポップ。だから脳内は自然と家族と車とグルメ旅を想像できる。宇都宮まで餃子を、とか。郊外の国道を走る幸福の絵が浮かぶ。なるほどこれは幸せだ、と。鼻の前に吊るされた選択肢に釣られただけなのみんなは?知っている記憶を反芻したい脳の自然。自らツボにハマっていると言える?人の幸せを値踏みしているのでは?
 答えは、選びたいものえーらべ。2022/05/07 どうしようもなく愚かなベッドの上の2:52記す。

 ところで日本のジャケ写は人間の写真かヘタウマと言われたげな手作り感満載のオリジナルな絵かしかなくてつまんない?



宮下暁作漫画『東独にいた』5巻まで。メタリックな表紙が一番良い。目が嬉しいというもの。絵があまり上手くない。空間の雰囲気描写の「ざわ」の入れ方とかあんまり。言葉選びと展開(ex.戦闘直前から戦闘に至る心理描写)に拙さを覚える。



発言に、語彙「ワクワクする」、更に言うと「ワクワクが止まらない」みたいな名詞化したそれが含まれているかが私的な信用の指標、その物事の理解の仕方を助けている。あとアホくさも苦手だ。ホリエモンの声で聞こえる。



現世で人に優しく接するために自分をコントロールする仕方の導出は、人生をもって向き合える難題



有名人の訃報のネットニュース。死因について、自殺や自死という単語を使って言及はしないのに、末尾に公共の相談窓口の連絡先を載せる文面が、逆説的にシビアさを強化している。漫画表現に使える。



 自死した人について、もちろん悼むのだが、またもちろん人それぞれなのだが、その行為の当人責任をどれほど考えていいのかについて。死んでいる時点でこれ以上負わせる責任はないのではないか?との考えも十分理解できるが、死人に口なし、近親者でもその真意がわからないことがままあるというのもまた事実。その場合、社会は泣き寝入りする他ない。
 自死が発生した社会に残された側で考えられるのは、今後早まった自死を防ぐために、なぜそれが起きたのか、起きずに済んだ度合いはいかほどかを検証・判定することくらいだ。起きずに済んだ度合いとはつまり、社会的に当人に働きかけられる援護の限界を計ることで、具体的には生活保護や就労支援、教育援助、相談窓口の設置などとひとしなみに考える作業になる。よってその援護には基準や条件、限度が設けられ、それすなわち社会が構成員にしてやれる優しさの限界を決めるということだ。そのセーフティネットから脱落した個人の自死は、後の検証材料にはなれど、基本的に'できることはやったが救えなかった、現時点では仕方のない自死'と判断するに足るとみなされる。死んでしまった人に対してあまりに冷たい。線引きはツラい。しかし個人主義時代の組織的支援とは、2022/05/12現在おそらくこんなものだろう。
 自死という出来事の責任を、当人と社会で何割ずつ負担するのが妥当なのか考えたくなったのは、個人的な体験に端を発している。それは、病死した彼女がかつて闘病中に記した手記に、自死した身近な未成年について、「まだ生きられるのになぜそんなことをするのか」と書かれていたのに相当の刺激を受けたからだ。自死とは残された側の失敗だとしか考える頭がなかったので虚をつかれた。ワイドショーやSNSの見過ぎか何かで、自死の責任の所在を考える場合において、本人の責任は皆無という前提は偏っていたとすら思えた。ここから始まった。



今寝て突然死んだら、スマホも外付けHDDも録音したラジオ音源のアーカイブも、ほぼ確実に誰も構わないんだから何も意味がなくなる。そう思ったら、今やっていることのほとんどが、別に私が求めてもいない意味のないことだと思えて、スマホ内のエロ動画を消去した。死を思うとはまずはこういう心境なのだろうと考えて差し支えないだろうか。だいたい小学校高学年〜中学生あたりのうちに経過するとか聞く、死の恐怖の第一歩を、最近、経験する。



 2022/05/10 22:52記す。数日ぶりに晴れていたが、雨戸を開けぬまま一日中『満州アヘンスクワッド』を読んで終わる。とても生活の質が低い。どんな未来が待っているのだろう、そう考えることから逃げている。言ってみたら、別にそこまで読みたくはないけどなんとなく読んでやろうでそうしているだけ、という後悔と負い目の気持ちが残っている。
 漫画の内容は、追いかけっこをしながら生き延びる人の話だった。読者の目を引き付ける追いかけっこする物語中に、中毒・残虐・絆・恋愛描写が溢れていて、それこそ漫画中毒患者向けだったと振り返る。



夢:病気がちの女の子に笑ってもらいたい。草鞋は桟敷席みたい。他色々あったが忘れてしまった。が、その全てが私たちの利便由来の行動で、私は女の子を本気で思っていないことを悪く思った。




 2022/05/09記す。番組表で「新番組」の記載とともにパーソナリティの名前がたまたま目につきノリで録音してから、3,4度もうやめようとしながらも惰性で今日まで全回聴き続けてしまっているラジオ、「ぜったくんのNiGHT SHiFTER」。ここ最近は楽しみになっている。そういうフェイズに入った。心模様に逆転が起こるこの意味で、継続は力なりは正しい。
 さて、2022/04/09放送分の今週の一曲は『じゃじゃ馬にさせないで』。アニメ『らんま1/2』のテーマソングで有名。私的にはアニメ自体は見たことはなかったのだが、一時期繋いでいた地元のケーブルテレビ放送に入っていた「キッズステーション」チャンネル内の番組紹介でよく流れていて刷り込まれていたから、サビのメロディは知っていた。
 彼は歌詞をべた褒めした。推しポイントの一つはサビ部分だった。以下抜粋。ちなみに番組中に言及はなかったが作詞はあの森雪之丞氏のお仕事だった。

奴八破奴八破一向聴
(ヤッパッパー ヤッパッパー イーシャンテン)

はしゃぐ恋は 池の鯉。

奴八破奴八破一向聴
(ヤッパッパー ヤッパッパー イーシャンテン)

胸の鯛は 抱かれタイ

奴八破奴八破二向聴
(ヤッパッパー ヤッパッパー リャンシャンテン)

踊る接吻は 海の鱚。

奴八破奴八破二向聴
(ヤッパッパー ヤッパッパー リャンシャンテン)

恋の鰺は 隠し味

(https://j-lyric.net/artist/a04bc64/l006a11.htmlより部分的に抜粋)

 やぱぱはいいとして、
はしゃぐ恋は池の鯉/胸の鯛は抱かれタイ/躍るキスは海の鱚/恋の鯵は隠し味
これをどう作るのかわからない。恋と魚を掛けているというのだが、意味を成していなくないか?文の意味がわからない。だから上手いこと言えているのかわからないし、多分上手くない。それはねづっちやCreepy NutsのR-指定の芸にみるような意味が通った掛け言葉ではない。だから再現できないと思われ、???が続くのだろう。
 なぜこうなるのか再現できないのは、端的に言えば、これが筒井康隆的な空想の文体で、学校で教えられないからだろう。「はしゃぐ恋は池の鯉」……は?である。だいいち「はしゃぐ恋」が出ない。私の頭の何まで否定されるらしいのが怖い。怖いものには距離を置いて、そのままにするに限る。
 勘所がわからないのが致命的。どこまで文章の体裁をラフにするべきかとか、そういう機械学習的にコミットする領域じゃないんだろうなと、作詞業。



ぜったくんのTwitterのフォロワーは8000ちょいだった。ビジュアルが良くポップス好きを公言するポップな芸風だと、まだ売れていないからちょうど良く尖ってておもろいのかも。これが売れ始めたら多分フェードアウトしそうだし、そもそも金にならないラジオとか忙しいから〜とか思いそうだし(それが自然)。他局のレギュラーを持ったら今より片手間にはなるだろうし。



タイトル案:凝らす
粋を凝らす、目を凝らす、凝固



贔屓の野球チームが負けた時の心境は今や、星座占いで最下位だった日のそれに似ている。



適当な高校の授業、体育の筆記テスト。係が教卓で解いたりしている。授業をほとんどまともに聞かないし出てもいないのでその日がテストだとは知らず、周りを見てテストが始まったと悟る。



仲間内での容姿への言及はタブーと並び、顔や髪を触られたくない、これも当てはまる。



芸人界、テレビ業界は、個人の思想によって選り好みされることが暗に許されているような?「いや人同士が作り上げるものなんだから好き嫌いで選ぶの当たり前でしょ」と言わんばかり?こいつはしっかりしている、こいつのギャルキャラは芸で根はネタを愛する我々を尊敬する真面目なやつだ、厚切りジェイソンは蔑ろにする、など。正否は問うてない。



2022/05/05脳内再生:あの日クールに履き込んだデニムのパンツはもう部屋には見当たらないな



情報マウンティングというのがどうも、カウンターカルチャーに思えてしょうがない。雑談中などに登場する、脈絡なく何かを教えてあげるという会話手法が、一部の聞き手の圧迫感から禁じられるのが腑に落ちない。教えられるのがそんなに嫌な機会だったことがない。口を開けば何かと脳内をひけらかす人というのが本当に存在するのか、社交しない人間には疑わしくもある。



2022/05/05 4:17、東雲時の風呂場、シャワーを浴びる前に思い立ち記す。
気づいたら桜は葉になり、二度とない2022年のGWが終わろうとしている。
あのとき動けなかったせいで、あのとき私を落としたあいつのせいで、あの頃の時代のせいでこうなったんだと言って死ぬのか?そいつらの一部には必ず、私のことなど歯牙にも掛けず、いやつゆ知らず、自己中心的に微笑みを浮かべながら、勝手に悔いなく死ぬやつがいるだろう。



肘がカサついてきた
エッセイのタイトルっぽい



(一部敬称略)



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