ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

15年以上放置した重し

富の動きを支配する大企業の幹部らは、大企業の価値を捨てる斬新さを尊ぶ心の持ち主でもある。Appleの幹部は、今や誰もがその価値や意義を認める自社製品やそれに似た競合製品を実践的に捨てる行為を、純粋な歴史的偉業として歓迎する広い視野をもった感性をもつ。彼らがもしこの予想に頷く場合、この捨てる者の存在が真の意味で彼らの競合となり、頷かない場合、彼らは宗教家に近づく。



案:界隈に対する異端を標榜するその攻撃的な試みが、攻撃的なんだなと部外者にも伝わりやすくなるようにするにはどういう手立てが必要になるだろう?



夢:コミックスの『ウォッチメン』の広告——色鮮やかで且つ既読者が内容を反芻できるメッセージ性を伴うそれが、見開き2ページに載っている。その手のイラストやデザインやイメージを収集した雑誌の中に、数少ない記憶に残るマンガ『ウォッチメン』のイメージを見つけたので、彼に見せた。これはヤバかったと説明した。



私的異性の萌えポイント:やや控えめに「うん、うん、」と頷くときの声。小説家の早見和真氏と対談する三浦瑠麗氏のそれが絶妙だった。技術の気配がした。



2022/02/12 16時頃、某動画投稿サイトに落ちていた、およそ35年前のおそらくバラエティ番組「上海紅鯨団が行く」を視聴する。今現在の当然ももちろんじきに同じように見えるようになるのだから、足元がぐらつくのは必定だった。一方で未来にいる優越感から、映像中に愛くるしさや正義感も見出せて、生きているなぁと。




武田砂鉄と桐野夏生両氏がTBSラジオの番組「アシタノカレッジ」で語り合う公式音源がYouTubeにあったので聞いた。以下思ったこと。

 作家が裸で荒野に立つ孤立した仕事人であるのが「そういうもの」であるのと同様に、資本主義社会が富の偏在を生むルールを前提にしているのも「そういうもの」なのではないか
 何が許せて何が許せないかの線引きの基準と仕方は個人の自由だが、結局ここで生きるのに「そういうもの」と了解するフェイズを経なければならないのは、我々に課せられた業のようなものではないか
 あえて飄々としたキャラを演じて、軽やかに自己責任論を批判してみせたのかもしれないが、いずれにせよ彼女は、自己責任で荒野に一人立ち続けてきたのであり、その自負とだからこその尊厳がある、との認識をもつ人間の声に聞こえた



社会を批判する直接的な言説や間接的に意味を込めたフィクションなどが、世の中に常に供給されて、そのほとんどは具体的な結実の日を見ないから、時の実権の感覚あるいは認識が麻痺して、結果その批判が具体的な意味を帯びず終いになるのではないか。ほとんどの批判はそれ自体、ユートピアへの招待状あるいは麻薬なのか。また、そうあることを批判者あるいは批判行為を見る第三者は認めているのか。批判はどうあるのが正しいのだろうか。原理主義的行為を伴う批判の愚かさは、どのように否定するのが正しいのだろうか。



人の席を侵さず、手取り7-800万得るには、どんな方法がある?
条件は以下。
新たな仕事、
鳥の声を聞く休暇、
2〜3食ご飯を食べる、
6〜8時間は寝る、
本を読める身体的精神的余裕とその場所がある、
静かな1人の部屋がある、
適当かつ十分な情報を得て人と対等に話すことができる、
暴動や犯罪や嫌がらせ他、あらゆる身体的精神的苦痛を受けずに生き延びられる




加州と表記されるとカナダと間違いやすいよ



「〜のだけれど」のリズムの悪さは私的重大な懸念材料



 最近ウクライナとロシアの情勢が緊迫しているニュースが報じられている。米国は軍隊を該当地域に派遣し、日本は米国の口利きで欧州へ天然ガスの融通を始めるそうだ。
 ところで北大西洋条約機構ことNATOを、私はネイトーと読んでいた。正式にはナトーかなと思っているが黙読だからと甘んじている。このほど、こう読むのに私的に実際的な理由が見つかったので記す。それは、NATOの「A」をエイと読むことで、アと読むより1文字分の余剰を設けられ、そのバッファ分で遅読な頭による読解を助けているから、というものだ。以上。
p.s. Wikipediaでズルしたところ、ネイトーでも良かったようだ。寄る辺ない自己都合を貫く機会を逃したようで、調べたことにどこか損した気分。
Wikipedia 北大西洋条約機構ページ>
https://bit.ly/34RnHWw



2022/02/11、12:18記す。自室にて、相変わらずベッドに腰掛ける体勢に甘んじている。網戸の外は晴れて、昨日の夜降った雪を溶かしている。水が流れる音はさながらASMR。インターネット上から生まれた価値を舐めてはいけない。この音の心地良さにアンテナが立つのは、日常的にASMRという価値にアクセスできていたため、とも言えるだろうからだ。体感、隣りの隣りの家の前あたりからサラサラザリザリとコンクリートを掻く音がするのは雪かきだろう。鳥の鳴き声。平和を味わう。



2022/02/09、キャベツ太郎90gを数年ぶりに食う。味に関して、昔はもっと濃くて辛かった。加齢と、舌に刺激物を置く継続的な経験によって、味覚が鈍っているのだろう。



歯を磨くのが寒いし面倒なので食事が億劫



激務を必要とする仕事は、一部の例外を除いて機械化されるのに相応しいのだから徐々にそうなるのだろう



1日が、日々が、矢のように過ぎていく。ぎりぎりまで息を止めようとすると、死を思える。



黒の文字色で書かれた文章に、黒塗りされた丸や星や三角など無差別な形が巣食っている絵が、生理的に気持ち悪い。この反応はなんだろう。文章がまるでウイルスに侵されて機能を失いつつあるさま。



2022/02/09、改めて記す。弟は時間が合えばキューピー3分クッキングを観ている。オープニングの音楽が自室にいても聞こえるのでわかる。料理、少なくとも食事に向上心があるんだな。



会話中に、単語「教育実習」が出てこない。愕然とする前に恐怖。他人との日常会話の機会をかれこれ10年近く絶っている。とんでもなかった。どうりで返事に機械的な文言が先んじるわけだ。若年性アルツハイマーではない、か?



「あんたのこと初めて診るから書けないよそんなの」
「だから何を書けばいいの」
「主治医に書いてもらった方がいいよ、それとも会うの怖い?じゃあ書いてもらってよ」
無理を押して主治医とは別の、同院内の医者にかかったところ、カルテに忠実に変わり映えのない診察だった。またある機関に提出用の診断書を書いて欲しい旨を伝えたところ、正当な異議をもって軽ギレされた。面倒だし、特にその行動は意味ないからもうやめてくれとのメッセージも、そこに合わせて受け取るほかなかった。



夢:いつも散歩する道に、同じサイズの虎、白熊、猿、リスが現れ、虎だけ好戦的で他3匹とバトっている。ヤバいので逃げながら虎の動向を注視していると、睨まれ、1、2歩こちらに動いてきたようでヤバい!白熊とやり始めた直後、急に熊の頭が着ぐるみのように取れて路上に転がり、猿とリスが現れた。逃げる。数十メートル先ですれ違う市民ランナーの群れに、虎がいるから気をつけてと一応注意する。急なことで皆一様に頭上に?が浮かんでいたが、私の後続も真剣に同じく注意喚起するので信憑性が増した。
飛ぶ
伊藤沙莉氏が路上で男性用避妊具各種を売っている。



森山未來が番組のMCをこなしているのに驚く偏見



セールスの電話に出たらすぐ切られる。嫌な思いがする。年齢を大体で言ってしまったことに1日後に気づく。向こうは仕事、切ることに慣れている。必要な情報だけ盗ったらあとは何でもいい。時間がないから会話はできない。しない方がいいのか。



「宇宙のサイクルで生きる! ネオJOMONチャンネル」というYouTubeチャンネルで、占星術系(?)のスピリチュアルな話の冒頭を聞いた。大の大人がいたって自然に真面目に語るから、先入観も事前情報も取り払って聞こうとすると、授業で知らない知識に触れるのと同じようで飲まれる。啓発の意味を込めてチャンネル登録した。
チャンネルの概要を見たら、本当かどうかわからないが、どうやら動画の主はラッパーのCOMA-CHIだった。スピリチュアルへ傾倒するさまをネタにするのは未だアンタッチャブルで、ブルーオーシャンだと思う。強いて言えば有吉に詰められて面白くなった手相芸人の島田秀平くらいか。



Twitterには、「現実」とよばれる、自室の窓枠から羽ばたこうとするアラサーを脅す文句に溢れている。溢れているという事実があるだけで、それはアラサーに向けられた文句ではない。
アラサーにはそれに目を瞑るなり距離を置くなり、言い返す自信の持つための実力をつける時間を過ごすなりして、振る舞いを自らに肯定的にチューニングしてから、再び窓枠に臨む、という通過儀礼が課された。いかにも現実だった。



自由を前提にする市場で、暗に不自由が認められるとき、自由市場に人の手が介入すべきなのではないか?
営利活動を通じて豊かを目指すことを担う企業の組織と運営の自由の正当性によって、その企業に従属する人々に自由な選択をとらせない構造をもって、不自由が成り立つ。どの企業にもルールが設けられており、それぞれに合理を追求して市場と密にコミットするのだが、どの企業もルールに明らかな差異が生まれづらいため、結局のところ一人ひとりの個人はその自由の一部を企業に明け渡して、人生を続ける必要が生じている。

慣習や人間関係は、地球市場を共有しているので、雰囲気や空気が共有され、個人の自由を侵す。



 「子作り」「子供が欲しい」にやっぱりどうも真面目な違和感がある。その表現はもとより、最近は行動自体にも懐疑的になりつつある。いわば反出生主義の思想寄りで、悲しくはある。「自分の生への小さな不満の蓄積が直線的に思考に繋がっている、人生の壮大さに無頓着な'たわけた'考え方だ」との指摘には同意する。悲しいのは、そういうところもある。 
 表現の恣意ぶり、生まれくる子どもへの不躾さみたいな感覚からくる、上記表現に対してムカつく気持ちは変わらない。昨今の情勢に背中を押されて、表現への違和感は少なくとも正当な人権意識の表れだと思っている。言葉を替えれば解決する。根が保守なんですよねぇ……。2022/02/06記す。



0時過ぎ、ソウルミュージックのコンピレーションを流しながらAVを探してたら、chillが過ぎるのが怖くなって音楽を消した。気持ち良すぎる音楽がそれに見合わない身の上を意識させて、末恐ろしくなって。



不安だった里山を描いた幼稚園児の絵
 
今あるのが手から離れる
線路は続くと思って乗った列車が徐々に遅くなり止まって、行き止まりをアナウンスされた怒り、苦痛、虚無
もう金は稼いではいけないと言われると、1000マン稼いでみたい淡い夢が台無しになって怒、苦、涙、のち受容
 
金を稼ぐことにより解消する将来の不安、優越感、勝利感、褒められ
 
これを慰めながら、競争原理を変容させるには?
 
資本主義のいいところ
○多くの国が採用し、何百年人間が利用した歴史があるから、他の制度と比べ成熟しているといえる安心感
○所与のものとして受け入れろ感が半端ない。生まれた時から大人やテレビや学校でも、皆が従い肯定するから、「私も乗らなきゃいけないな、私にもできるだろう何とかなる」と思わせてくれる
○金があればなんでも許されそう
○全能感
 
良くないところ
○競争ゲームの拒否感を拭えない。戦い嫌いなんだけど......。
○争いの強要。金を生まないのを許さない。
○マッチョ感。腕組み。
○利己的
GAFA(M)は我々を下賤に見ている。便利にしてやったじゃんと言う。身近に来ながら、メンタルヘルスやキャリア形成に関して何も寄り添わない。それが自由だと。奴隷扱いを理想とする収奪行為を認める。
○見ていて、欲望の膨張には際限がなさそうなのが怖い
○この仕組みでなんでも解決できると思っているのだろうが、疑わしい。未来を考えられない仕組み。
 
○金で買えるものが多いこと
 
→両方取り
 
方向性
競争をグラデーションで抑える方向
既存のルールを許容する振りをして誘導
目先のメリット、人参の提示=形上のカモフラージュ。既存の肯定。(これに乗ればこういう将来設計が可能だよ)
 
 
 
実はどうでもいいんじゃないの?このままのルールで恩恵を受けられなかったのは、自分の非もあることを認めて(例えば、人生で恐らくまたとない、最も安心して自由を謳歌できた場、大学で孤立を望み、社交を恐れる性格を省みようともせず、ただ目的もなく単位を取って卒業したこと)、ルールの完全性にケチつけるほど虐げられた/進行形で虐げられている経験がある訳じゃないから、別に時間と労力と(意見に対する猛烈な反対によって受ける)心の傷を負ってまで表明する主張ではないんじゃないの?
あるいはルールの恩恵を受けられる(年収1000万円で花を見ていられる生活が死ぬまで続く)なら、取り立ててケチもつけないくらいには、ルールに飼われた意志で反発ポーズをとってるだけじゃ?
 
→言われてみれば別に文句はないのかもしれないけど、だからこそ問題なのでは?
つまり金で放蕩漬けにして口を噤ませられる、有力者の独断を成立させるために金が機能する側面もある資本主義思想なのだとしたら、それは生理的欲望、また生理的欲望の膨張によって思考するのを抑圧する悪、腫瘍部を含んではいないか?



「読書は苦手だけど積ん読は得意!◯◯です!」



Aマッソのラジオ「MBSヤングタウン」の切り抜き動画(音源)が、YouTubeにたくさん上げられていて検索結果を汚す。邪魔臭い。しかも軒並み再生回数が100〜1000回くらいと振るっていないもんだから、ファンとしては余計にもやつく。



Aマッソを好きだった私が今思うこと | ikinobi
Aマッソの戦い方
引きこもりの仕事の仕方



自己都合で過去が是にも否にもなる自己の心許なさ
いじめられてた、いじめとはちがった



コピーライトの影響で、読点の打ちどころ次第で萎えも唆られもする



観る専の将棋ファンを「観る将」と新しく



上昇も下降も望まぬ欲望
どちらかといえば下降を拒む欲の方が強い
晴れた日に近所の公園にピクニックに行けたらいい精神



中3と思しき女子2人組が、周囲の受験結果について盛り上がっているのが、自室から入ってくる抑揚のついた声でわかる。若い。15歳か、まだ離れていない。将来この年齢差の人間とは平気で渡り歩かなければならない。



ベタに認知の箍を外されるようで、哲学畑は世俗にまみれた目に優しい



引きこもりとは、何も生産したく無いわけではなく、もっと言えばこれは矛盾かもしれないが、時として外に出たくもあるのである。




帰ってきたロシュフコーというYouTubeチャンネルの、「ヘーゲル精神現象学」#1 序文と緒論 【哲学】」という動画の始め、本編前の説明文が、老舗RPGのゲームで流れる字幕のそれを完全に踏襲しているのだが、その文章が流れてくるのが1行ずつではなく、一挙に2〜4行出てくる。それで文章を読むのが追いつかないのを自覚して気づく。こうやって一気に2〜4行を目に入れて読み下すのが、速読の方法論なのかもなと。



心なしかAマッソ村上に似ている、笑顔の真空ジェシカガク(TBS「ラビット」出演時を切り取った写真を見て)



それっぽいことを思いついたぞ。
専門とは不自由を手に入れることだ。あらゆる可能性から専門に特化した。
引きこもりも同じだ。引きこもりは不自由を獲得している。あなたも一度手に取ってみるといい。



 2022/02/01、16時過ぎに記す。主人になれる自信がない。主人とは、俯瞰する人のことだ。対象の客観視を貫徹できる人だ。私の目は、ふとするとプレイヤーが乗り移る。カメラアイを意識するのも長く続かず、肉眼に返ろうとするから休む。これは知識の問題なのだろうか。知識が足りないから、認識の枠組みをこしらえるのに手間取って文章に置いていかれただけなのだろうか。直感では多分そうではなく、もっと根本的な、思考する目を動かす筋肉の質から違うのだと思う。「コノテーション」や「コンビニ語」などの語句に、肩をたたかれた気分がした。特に自分の発言には、円滑なコミュニケーションのためになるべく説明を尽くして明示する正義を掲げていたから。矢野利裕氏のnoteを数本読みながらつかまえた自己認識である。
 主人になることについて具体的に意識したことがなかったが、しかし集団内での自分の立ち居振る舞いを自己認識することで自分を意識していた過去においては、「多分それなりの役割を担える器ではあるかな」くらいに想像していた。だから、根拠のなかった自信に近い想像を根拠に、自分の今の、寄る辺なくなって浮遊する体たらくさにギャップダウンを感じて凹んでいる。繰り返しになるが、これに根拠はないのだが、凹んでいる。凹んでいるばかりだから、主人にはなれないのだろうと漠然と不安に取り込まれる。このような思考。



高校までは普遍的な、より絶対的な知識を知ることに時間が割かれる。それは長年揺るがなかった実績があって、強力な正しさ。
一方大学は今を扱う。現代に新しく浮上した正しさを、火の中や水の中、山の斜面に転がっているのを信念を持って見つけようと試みている。それは高校までの強力な正しさより何十何百分の一くらいの大きさで、しかも明日には正しくなくなるかもしれない、ささやかな正しさだったりする。今と向き合い、そこここに隠れた正しさを拾い上げるその営みに、大きな価値を見出している。人も社会もその正しさをわかっている。



やめられない
同じ平面に並ぶ、かつての快楽が頭をもたげて拘束する。離さない。
風呂のシャワーをやめられない。podcastはお笑いアトロク。英語は聞こえてこなくて、意味のない雑音になっている。→ストレス→あーききてー→聞いちゃえ!ドボン。



怠惰について、資本主義においてどう扱えばよろしいか。
生産性や投資の意味がないとされる、人間の怠惰という欲望について。
①置き換える。怠惰を無理やり抑えて生産性や投資の鋳型に当て込むのではなく、その人に特有の、怠惰とは違う楽な社会性(概ねそれは無意識且つ社会の茂みに隠れている)によって、あたかも生産性や投資の文脈に乗るような営為に移し替える。
②全肯定する。ただそこに居ることが尊いという意識に準じて、資本主義とは相容れないことを認め、放置する。


怠惰心を慰めながら、社会に開く



案:職業引きこもりが世界規模で徒党を組んで、平和や正義を訴える。
→加盟制。

世界職業引きこもり宣言(草案箇条①)
私は不自由で社会に一見疎まれているが、生存することそのものを尊んでいる。そして皆に感謝している。下水道を整えて、食料を供給して、インターネットを繋いでくれる皆に感謝している。
私は今すぐ死んでもいいのかもしれないが、多分経済人にとっては居てくれた方が都合がいいのではないだろうか。ここに、1人を生かすだけの消費行為が生まれるからだ。だからとりあえず生かしてくれ。
私は不自由だが、それは自ら勇敢に獲得した職能だ。金は無く、移動は制限されるが、しかし平穏が流れている。狭い部屋に1人でいるが、幸いそこまで不自由には感じず、ここはおそらく社会の中でも指折りの気兼ねなく夢想を許される空間だと踏んでいる。
皆もそれぞれが支え合って生きているのだろう。私引きこもりも同じ考えだ。ありがとう。だから、その輪の中に私も入れてはくれないか。



(一部敬称略)



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