ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。加筆修正ばかりします。

今週思ったこと

(2019/10/08更新)

平日日中の地元のラジオ局の番組は、普段聴いているそれに比べて全然面白くもないのだが、たまに聞きたくなる。そこがワイドショーと違う。あれまだ続いてんだなぁ、と分かると安心する。伝統の存在意義はそういうところにあるんだろう。つまりそれ自体は価値のない、今を生きる社会にとっては無意味になった時代遅れの遺物なのだが、ある特定の人にとっての心の支え、寄る辺、または郷愁を掻き立てる在り処になる。そこに価値を見出せるということだろう。思い浮かんだのは、ヨーロッパ(フランスだったか)の世界遺産級の歴史的な大聖堂が火事で大半を焼失してしまった事故で、世界中の富豪から速やかにチャリティが集まったという最近のニュース。時間の長さの絶対的な説得力、その強さ。ミーハーには堪らない。



武内陶子さんのごごラジ!を初めて聴く。トーク中の彼女の声、ナレーションのような声色の強弱が心地良い。声質や話ぶりから推察できる人柄、愛嬌のよさは竹内香苗さんに近い印象を受ける。偶然にも名字の読みが同じ、且つ伊集院繋がり。いやこれは偶然ではなさそうだ、伊集院ハブ。無意識だったけど。
また恥ずかしいがテーマの選曲で流れてきた吉澤嘉代子の『恥ずかしい』と、小林旭の『旅空夜空〜言うもはずかし〜』もよかった。楽しい。DJイチハシという方の選曲だそう。番組は冒頭までしか聴いていないが、その内容は、テーマメールを読むなどFM然としたもので取り立てて感想はない。彼女のパーソナリティで押す番組。



日本ハム近藤健介選手、26歳なんだな。想像以上に若い。つまり活躍が早い。



以下は、NPBの球団に登用されるコーチのコーチング能力(ここでは特に、ヘッドコーチ・投手コーチなどの役職名を冠した現場指導者による技術やメンタル指導の能力を指す)におおむねプロフェッショナルを認められない、との見方が前提となる。
ドラフトという運でチーム先が決まって、誰に指導されるかも決められない。仮にその時点での行き先には納得いっても、情勢の変化で首がすぐすげかわるかもしれない。選手が指導を満足に仰げない可能性があるこの状況は、どうなんだろう、プロには当然の厳しさなのかな。成人は自立しなければならないという社会的な要請に、鼻から指導者を選べない縛りは不可欠なのかな。
野球選手は野球を見せることが仕事。野球を見せるとは 、レベルの高い野球をすること、そして結果を出す、つまりゲームに勝つこと・リーグで優勝すること・個人的な成績を上げること・歴史的な記録を残すことだ。また野球を通じて、観戦する人を没入させる、勇気や感動を覚えさせることなども社会的役割、仕事の一環だろう。
これらの仕事を成人として完璧にこなすのに、指導者を選んではいけないという条件はどうしても必要なのだろうか。そんなことはないと思う。プロだからこそ指導を受ける環境も万全に整備される必要がある。だから選手個人に任用される自由業のスタッフがいてもいいはずだ。こう想像すると、野球スタッフを雇用する事務所(芸能人を雇うプロダクション的な)がポコポコできそうだが、私は個人が個人と契約する方が上に挙げたような野球選手の仕事を原理的に追求するのには理想的な気がする。



2019/10/02、気温19〜18度くらいの秋の夜11時過ぎ、半袖短パンで歩く肌寒い路地。59円税抜きのコアラのマーチ2個とレシートに当たりが出て貰った景品suntory伊右衛門焙じ茶1本を、緑の肩掛けバッグに入れて。車やバイクや歩行者がほとんど通らず且つ暗い、背後への恐怖以外は理想的な道行き。夜空に星がちらほら、路傍のアパートからも人工灯がちらほら漏れて光る。マックの肉の匂いがかすかに漂っているような。
何か切ない。泣き出したいが涙が出ない。現実にさらされた無力感か虚しさかその類いの感情が、みぞおちの上、胸骨の真裏あたりでぶるぶる震えている。そんな感じ。なんの目当ても目的も目標もなく一日の仕事を終えた大人の家路だと思って歩いていたら、犯罪者に素直に同情できた。未成年とセックスしたり、駄菓子屋で万引きしたり、公然わいせつに走ったり。若林はこんな心境のことを言っていたのかな。それにしても小せえ、犯罪がつまり器が。
とりあえず金を稼いでいれば落ち着くのかなこんな気持ちは、きっと。だったらチープな不安だこと。



夢v.s.現実 目に見えるものv.s.目に見えないもの
アーティストたるもの英才教育で夢に浸かり続けていなければならないのか。
私の知る、社会から作品が評価され、人格が承認され、活動するたびに拍手が送られる多くのアーティストは、十中八九、幼少から現在の片鱗をうかがわせるエピソードトークを持ち合わせている。用意しているのか知らないがほぼ確実に聞こえてくる。業を負ってるかのように皆々がカッコよくおのれのルーツを語る。
あらゆる作品に接して、造詣を深め、感覚を研ぎ澄ます時間はいくら必要なのか。要するに、手前が満足にアーティストになるには、また自信を持ってアーティストと同等の立場で話せるのには、何時間アートに接しなければならないのだろうか。アーティストの必要条件とは、という言葉にしてはこれ以上ない愚問だが常に頭の片隅にはある、確かなものを探したくなる癖、理由欲しがりの表出。きっと死ぬまで隠しはきれない。



タイトル案:勝手に決めた
(from『勝手にきた』 / Chara)



宇多丸映画評 大→小
ざっくりの感想
テーマは何と見えるか
(所々のシーンで感じる別作品臭を指摘)
ストーリーは?(テーマに対してどういうストーリーだった?)
具体的にどういうシーンが良かった?悪かった?それはなぜ?
☆ポイント:テーマが際立つのに効果的な見せ方かどうか。迫ってくる(没入させてくれる)かどうか。



夢:学校の廊下でてめぇ舐めんじゃねぇぞと叫んでキレる。全くドスが効いていないのがバレるのが怖い。胸ぐらの一つも掴んでみせたがバレるのが怖い。けど、切っ先でちょろちょろ痛めつけられて罵られることに舐められたくない気持ちに火がついて、痛みに腹が立って、沸騰してしまった。



自虐するのは守るため
生真面目なのも守るため
味をしめているだけ



欲に溺れるのは醜い
目に見える分、特に他人のそれは格別
根はまるで優しくない
だから全ておのれのための敬語
↑rapならつまりを使うだろうな〜



印象派の次は何が来た?
さすればPSGの次に、何が来る?



何をどう見、どう感じ、どう表現するかを的確に選択したものがいい作品と呼ばれる。オリジナルなコンセプトをわかりやすく独自な表現で、といったところか。by『カスバの男』の大竹伸朗



「人間の考えうるすべての奇妙なものはメディナのどこかに日常として既に何百年も昔から存在する。」from『カスバの男』
「何百年も昔から」を強調する語の置き順。文章の良さは、読みやすさだけを基準にしない。or文章の良さの基準は読みやすさだけではない。



『カスバの男』p.85-87から想起
分析される時間が無駄なら、奴らは時間を惜しんで分析はしない。そしたら人間の勝ち。寿司は皆美味しいっていうから寿司を分析して寿司マシンを作るが、近い将来に寿司に代わる旨みが来ると分かれば、もしくは近く飽きが来ると分かれば、寿司マシンをわざわざ用意しない。サーキュレーションが高速な現代の性格と合致した、職人を認めたい人間側からのささやかな希望。or〜合致して見えた一寸の光。
では、寿司職人はどう生きる?文化財面して国や機関に飼われるか、高級になるか、地べたをかすめる覚悟を持ってからがら生き延びるか。或いは、わらじをあと2足は用意するかつまり別の職業と兼務するか。



本をじっと読んでいると、焦点が文字に合ってきて、文字がでかくなって、口に入らないくらいの大きさに認識されてきて、軽く酩酊した感覚に囚われる。ゲシュタルト崩壊の近縁。慣れているからもう気持ちいい。最初は怖かったはず。



怖いもの
モザイク・小さいものが集まって塊りになったさま
気持ち悪いもの
おのれ・大人数の同じ動き(厳密には完全にシンクロしている動きは平気。一寸のズレでもあると「うわっ沢山いる」ってゾッとする。)



高橋源一郎のすっぴんインタビュー(対是枝裕和氏)を初めて聴く
○インタビュワーなのに、アイドリングやバッファで挿し込む個人的な話がやや長い。話し下手ゆえに間を埋めようと苦心しているように聞こえるのが、おのれと重なり、だから話し下手ならラジオパーソナリティはやるなと言いたくなる。
○「私は作家ですから〜、作家なので〜」の自負をわざわざ口にするのが洒落臭い。
○小説は言葉の壁があるが映画は映像だから国境の壁がない、と映画監督の前で雑な映画の理解を披露する。
○鼻にかかった声と滑舌の悪さ。
○上からものを言ってるように聞こえる。さっきから「〜ように聞こえる」のは、多分上に挙げた彼へのフラストレーションの全てが伏線となって不快感が増幅しているからであり、甚だ主観的な感情に他ならない。
○なぜむかつくのかを文字に起こすために最後まで聴こうとしたことが功を奏した。後半以降は慣れた所為もあり、怒りがなかった。むしろ、今後監督が撮るテーマの具体的な構想(満洲映画協会の甘粕氏の話)やブログのエントリーの真意を聞き出す仕事から、高評価に転じた。気分屋は罪。



是枝さんはインタビュー時、ああ気がつかなかったととぼけていなしがち
無粋を意識してしまう身には気持ちが何となくわかる



アーティスト全般すぐ叫ぶよな、物壊すし



褒められると嬉しい調子乗り



夢:新井の一人暮らしの家にトミオカと行く、ワンルーム。ゲームが豊富に揃えてある夢のような空間だった。親機はあるのにコード類が見当たらのは、家ごと改装したからとかなんとか。ラジカセ大の大きさの細長い画面が棚の上に置いてあって、ファミリーコンピュータか何かのソフト、レトロゲームがポーズしてある。



NHKアナ「違法薬物所持の疑い」でガサ入れの朝
タイトルに興味をそそられ、読む。内容はドキュメンタリータッチで面白かったのだが、いかんせん記事タイトルに釣られたい経緯とモチーフが週刊誌的であることが相まって、後ろめたい。好奇心に負けた。ただ舞台から追放された人間を完全に抹殺しないよう手向ける仕事の存在は大事。絶歌は読まないが



都会的な田舎の美しさ
都会的な美しさと田舎的な美しさ、金、生き長らえること、心の余裕と快楽・娯楽、平和と競争のバランス、その割合によって心に与える影響の変化



嫌がらせをしてやろうとするゴキブリ色の欲がうごめく



歌手の藤原さくら氏の声がいい。ラジオが終わってしまったのが残念。



ラグビーイングランド代表の胸に咲く国花・テューダーローズが綺麗。ユニフォームもかっこいい。ユニフォーム姿はどのチームもかっこいい。前半終了後に駆け足で引き上げる慣習が清々しくて良い。



(001)憧 (百年文庫)

(001)憧 (百年文庫)

放埓に疲れるとはどういう感覚かを知りたく、コンピレーション『憧』を手に取りたく思う



ルーツで表現するわけではないあな



歌を歌って生活したい子は、ただの消費財・商品としての歌を歌う行為に疑念を抱かない純粋な子。なのにも関わらず(いやだからこそ)、その歌は別に誰が歌っても変わらない代わり映えしない作品だから、売れない、生活できない。
歌を歌って生活したい一心では歌を歌って生活できないこの矛盾は正当か。同じような歌だな〜とはどこかで感じていても特に当事者でもないから、まあ気持ちいいなで聞いちゃう立場から。



予定が入るのを拒みすぎて、一つ懸案事項が発生すると、解消されるまで常にそれが頭に上った状態になり、落ち着かない。ある人には決して気にするほどではない大きさのそれだが、当人にとっては看過できない心的負荷となってのしかかる。ある人には全く無駄な疲弊であり、当人も最中はその負担が辛いのだが、一方で一旦解放されると「この時間こそ我が身ならしめる機会だ」と了解を示す態度をとる。いかに。



2019/10/05、日付けを少し越えた深夜のNHKにて、おげんさんといっしょという番組の再放送を初めて観る。
途中途中に等間隔で入る、演者の多くの本職に当たる音楽演奏が、さすが良かった。三浦大知は踊りながらも歌が上手い(ダンスの良さはわからない)。藤井隆の『ナンダカンダ』は言うまでもなく、また演奏最中の即興的な笑いについつい釣られて笑ってしまった。なるほどこれが価値か、と思った。星野源の『アイデア』の詞は、恋ダンスの歌の詞に受ける印象と通ずるものがあってイズムを感じる。今一番自然に頷ける正論を言っている。
ことわりが途中で入ってきて初めて再放送であることを把握した。画面右上に終始出続ける「生放送」のテロップはせめて再放送用に消しておけよ、それくらいの労力は惜しまないでほしかった。忙しいのは察するしクレーマーみたいな物言いはすまないけど。



GLAYを久しぶりに聴く。『Winter,again』を詞に注意して聴くと、ん?と首を傾げる表現もありながら、語り口が独特で、歌詞ならではだった。一聴したところではどこに係るのかよくわからない文節が多くて、それが独白感を醸している。決して文章ではない言葉の使われ方とその伝わり方が新鮮だった。『Winter,again』は歌詞に注目して初めてよく聴けた。
聴きながら、以前のように音でWinter,againを聞く人生(に戻ること)を想像すると、楽ラクそうだった。一方でその聞き方からは分岐して、言葉に執着する人生を送り始めたらどうなるだろうかと思うと、不安だった。『Winter,again』は音で聞くと好きじゃないから聞かなくなる。それが楽な気持ちの原因の一つに違いない。経験済みの安心感も大きい。



選ぶのがつらくて、でも選ばなければ生きられない
そのとき言い訳の材料にする筆頭が時間の長さだった
結果への拘りは選ぶのに悩んだ時間の長さに支えられ、つらさを誤魔化す
省みるときには、かつて並べた選択肢の良し悪しを判定するんではなく、踏ん切りがつかず過ごした湯水の時間を思って、怖くて、現状肯定に走る
初めから取るに足らない人間一人だもの、選択の正誤判断なんてマークシートの塗り間違いみたいなもんで、本当にどうでもいいことなんでしょう
でもどうせどうでもいいんだからと反省しなければ、風の向くまま気の向くまま、罪人はいずれまた罪を犯す
だからどうせ死ぬどうでもいい命は、どうでもいいおのれの選択のどうでもいい正誤判定をどうでもいいと思いながら反省した方がいいんです、よね
時間の長さに恐れることなきよう反省



夢:ジェーンスーが性同一性障害の象徴として出てきた。ポートレイトの絵が憤怒しているようでおどろおどろしい象徴は、スー・ジェーンと姓名(?)逆になっていた。



(敬称略)



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