ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。加筆修正ばかりします。

まんが『I・L』感想

(2018/12/27→2020/03/22更新)


以下ネタバレを大いに含みます。へたな文章と内容にご注意。


I・L (小学館叢書)

I・L (小学館叢書)


ビッグコミック1969年8月10日号〜1970年3月25日号にて各回読み切りで連載された、手塚治虫作『I・L』。間を空けつつやっと読了。示唆に富んでいてとても良い作品だと思った。ぜひ。


夢も空想も受け付けなくなった現実的な現実、伝説やお伽話や夢物語より3億円使った方が楽しくなる現実が嫌になったところで出会ったドラキュラに、現実の演出家としてIL(よみアイエル)を動かすことを許された映画監督の伊万里大作。物語の中では、ILは伊万里に動かされる立場だが、実質的な主人公はタイトル通りIL。

内容は、話ごとに物語が分けられているコンピレーションの様相だが、ILの成長(ex.完璧に誰かに変身できる私のなかの本当の私とは何か、恋とは何かについての探求)は話を追うごとに進んでいく。特に、第8話「マネキン」以降から徐々に感情を表すシーンが差し挟まれる。尚、はっきり前の話を踏まえた繋がりがあるところ(ex.第1話「箱の女」と最終第14話「ハイエナたち」)もあった。

テーマは様々。印象に残るのは、美しさ、愛や恋、欲望、安楽死、戦争と戦争犯罪etc.。(頭が追いつかなかったからか)一言に内容を形容できない不思議な話も多くあった。良かったのは、この中では比較的短めで且つシンプルな話だったと思われる第13話の「眼」と、第10話の「封蝋」、あというまでもなく最終話「ハイエナたち」。
「眼」。(話の概要は下に書いてしまったので割愛。)
最後のト書き(?)ナレーションの文章は、不束な私の身の上や、今考えてることに寄り添ってくれるようで、ああ、と感嘆してしまい。ーー真の美しさは主観的なものだ なぜなら いかなる人でもそれを美しいとみとめたときそれは真に美しいのだーーこうあってくれ、っていう、文言そのままに感情を煽られた。
そして「封蝋」。安楽死といえど、死に誘うという意味で毒、利用する人間はその毒を有効に使えるのか、と問う。患者の「死にたい」の声は本当に死にたいのか。死にたいと言われたから安楽死させるこの道理は正しいのか。そして患者も医者も(そして世論も)毒ありきで話が進んではいないか。など、安楽死にまつわる死と意思について投げかける話。私感ね。また、安楽死たる若者自殺を思ったりもした。一連の中高生の自殺が安楽死ぽい一面もあるのでは、と何となく。深い思慮はなく。暴言だろうか。
あとは、ラスト第14話。粗筋は以下。愛が大きくなった分その喪失も大きく、喪失から生まれる憎しみと現実がたたかい、結果、その現実に押し潰されてしまいそうなやり場のない感情が暴走をはたらかせ、やり過ごすことができなくなり、希望や他愛ないことを突き放し、今現在かけがえがないという意味で最も大切な何かを、またしても、自らの手で、投げ捨ててしまう。気づいたら遅い始末。
現実の演出家を務めていた伊万里は、自らが出来事にコミットすることで現実に飲み込まれてゆき、我を忘れて自暴自棄になる。ゼロサムゲームの虜になり務めを忘れ、自らが納得するまで、憂さが晴れるまで、腑に落ちるまで、憎しみから解放されるまで結果(実益)を求めるようになる。ファンタジーを除外して、告白までした隣人アイエルを突っぱねて、結果彼女にさえ辛い思いをさせてしまう。事が済んだときに初めて、演出者として失格かもしれんなと気づき、失わなくて済むものまで失ってしまう。野蛮な生き物である人間の唯一尊ぶべきであろう行為、愛すること、それさえもが、いやだからこそ、残酷な結末を迎える引き金となる事実。
集約されたシーンはp.324-325にかけて。
アイエルが「先生までヤケにならないで……現実の演出者なの忘れたの?」「あたしもういらないの?」
対する伊万里(吹き出しとコマ枠なしの発言で)そうだ この夢もない欲望と金だけの世の中には他愛ないドラキュラなんて必要じゃないんだ!!もうおまえなんか出る幕じゃないってことさ!
アイエル「さようなら先生……悲しいわ」



読み終わり、なるほどこのために芸術はあるのかなと、今は薄ぼんやりとではあるものの、確かななにかに近づいた心地。現実の演出者は芸術だ、現実を美しくも醜くもする。まさしく。

やっと気づいた。好きな他人に変身できるっていうファンタジーな設定の物語を通じて(=「もしこうだったら・もしこんなことが起こったら」を、極めて現実的な出来事と合わせて)ファンタジーが起こらない現実に埋もれる真実、とまではいかなくても、現実世界の常識の浅はかさや姑息さを浮き彫りにする。
具体的には、たとえば第14話の留学生が復讐のために病院を抜け出すシーン。伊万里が出先で説得して病室に帰らせると、(IL扮する)亡くなった最愛の恋人が。自分の変わってしまった姿を見ないでくれと泣きながらも、復讐の衝動は(一時的にではあるものの)宥められた。
恋人がいれば復讐心が一時おさまってしまうのだから、最愛の人を理不尽に失ったことからくるやり場のない怒りの感情の暴走がただならぬ復讐心を駆動させていた、ということがわかる。誰もが、当人でさえ分かっているはずなのに手を染めてしまう心情を物語でもってリアルに再現するから、人を潰すことで生まれる憎しみの連鎖が浮き彫りになる。
第13話の「眼」。顔が醜いと自負する女性が、目が見えた恋人に面会したときに起こるショックを事前に恐れて、ILに身代わりを依頼。いざ恋人にILを会わせたはいいものの、以前目が見えなかった分、声やスタイルは同一でも顔の手触りで顔面が本物と違うことを容易に見抜かれてしまう。最後、実際に2人が対面したとき、恋人は、化けていた偽物の面をずばり醜かったと言い切ってしまう。
このあたり。つまり、変身して身代わりになるなんてあるわけないのに、もし姿かたち同一の他人がいたら……の物語を見せられることで、化けた他人では役不足なことが自然に受け取れる。人間その人その人が時間をかけて培った「美しさ」が存在することを浮き彫りにしている。

こういうフィクションの存在理由の大本みたいなことに初めて気づいた。

感想文は練習します。いいお手本がありましたら教えてください。駄文失礼、重ねて。



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