ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

今週思ったことなど

(2020/01/01更新)


寝起き、あー今日も俺だっていう



アニメ『あたしンち』を見る。クソつまらない。特に何も起こらないありふれた日常を映すのが新しい時代の作品だから、時間を経た今見るとそれがどうしようもなくスベっていた。仕方なく古かった。新あたしンちというのもあるらしいからそれも一回は見てみたい。



夢:監督のツテで習志野高校へ行く。噂に聞いた狭いグラウンドは確かに狭かった。球場のスタンドや客席はもちろんファールゾーンがほぼない、余白のないグラウンドだった。メインのグラウンドのセンターからライトにかけての隣りにサブグラウンドがあった。
例のごとく挨拶しながら畏まりながら中に入る。中は、年季の入った部分と1〜2年前に施工が入ったくらいの綺麗な部分が混在していた。合宿所の外観や廊下の床はこげ茶色の木材でできていて、キズも目立ち、アンティークを主張していた。一方バックネット裏(室内)やバックネット裏入り口の隣りにあった室内練習場は現代らしくがっちり整備されていて、ベタに私立の強豪校を思わせた。
中でもとりわけ驚いたのはトイレだ。扉を押し開いた先の景色が異様だったのに、扉から2,3歩かかって気づいた。/〜異様なことに気づくのに、扉から2,3歩かかった。/扉を押し開いて即目に入る光景が異様なことに気づくのに、扉から2,3歩歩いてしまった。向こうへ奥行きがある細長い空間のそこには陶器はなく、(向かって)左側の壁から等間隔に突き出た灰色のパルプが並んでいた。トイレの標識を見て入った空間だったし、何より突き出るパルプの位置からそれがどのように用いられるのかは容易に想像できた。ただ壮観にちょっとしたショックを受けていた。それも束の間、後ろから利用者が3人入って来た。彼らは談笑しながら私を追い抜くと、なんの躊躇いもなくパルプの間隔とぴったりに並び、速やかに下腹部をあてがった。下手くそが剪定した枝みたいな、中途半端な長さで壁から斜め上に生えたパルプにそもそも見慣れていないのと、それが見慣れた陶器の残像と比べて明らかに小さいのとから、3人がパルプに吸い寄せられたみたいに見えた。この辺でおっ、と我に返って踵を返した。
もちろん、歴史と最先端を同時に主張する欲張りなところはこの時点で把握済みだったから、驚くことはない一般的なトイレは他に設置されているだろうと思う。野暮なブランディングだな、と言葉にはしないでも無意識に感じた。
起きる



フィギュアスケート全日本選手権がフジテレビでやっていた。ちょうど一流どころの選手の滑走が見られた。
演技終了から得点発表までの間の宇野昌磨選手が、肩で息をしながら横にいるコーチと出来について話していた。それは、あの外見の優雅さに反して水面下の運動量がすごいでお馴染みの白鳥の話みたいだった。そこには、単に見目麗しい人が煌びやかな衣装で舞う文化として片付けられないシビアさを映していた。フィギュアスケートはスポーツだったと改めて認識する。



夕焼けを雲が遮っているけど遮りきれていないさまが、この世の終わりを知らせる絵みたいだった。この前読んだムンクの伝記マンガの一節を思い出した。あの有名な絵の、叫び出したくなった経緯の説明にあった風景を勝手に重ねた。太陽色に雲が燃え始めていて。オレンジと閃光。



2019/12/24、いつ止まるか不安なピンクの軽で買い出しに出た帰り、懐かしいグラウンド前の駐車場で、告知された余命を伝え聞いた。直視しないから感情は高ぶらない。その後が寂しいか?と聞かれるのが怖いほど、そこで波風は立たず、既にわかっていたこととして聞いた。
p.s.既にわかっていたこととして聞いたというのは、数日前に例によって脳内一人会話中に拵えていた言い訳ーー小6の頃のおそらく最初の告知、リフォーム前のリビングの隣、畳敷きの和室に敷いた布団に入った状態で、涙を流しながら紙に図示して説明してくれた主。その傍らに、同じく泣いてしまっているのを恥ずかしく感じながら横になり、さらには一緒に布団に入ってしまった記憶を思い出して、「そのときがこの件の一つのピーク、この件で最もショッキングな瞬間だったから、今その時が来たと言われてもそこまでの驚きはないし、何だかんだあれから大分長く生きてくれた。平行してこっちも大分年食ったことだから、大丈夫、受け止められるよ」との言い訳を、目頭のセーフティネットとばかりに格好つけて持ち出そうとしていたからだ。



2019/12/24の機に乗じて手紙を書く。幸いクリスマスに関しては素直に好きと言えるから矛盾を抱えず済んだが、イベントや行事に対して通り一遍の悪口はもう言えない。
相変わらず語彙が寂しい。ばかりばかり使っていた。ことも多かった。恥ずかしい。今、恥ずかしがることも恥ずかしい、とスカそうとした。だめだこりゃ。
手紙に、普段はとても口にできない心の内とやらを



場に則してよくできた人間を気取っただけの奴が、それらしい飾り付けが先立った言葉を、普段は口にできない心の内とやらに言い換えて、手紙をしたためるなどとほざくのは、確かに嫌だ。ただこのくだりは、特に今回の手紙に関してはなかったと断言できるから問題ない。が、手紙を書いてと頼まれなければ確実に書かなかっただろう文章なことに気づくと、我ながらのだらしなさにうんざりした。この機会を積極的な意味で利用した手紙だっただけに、悲しい。行動に表さなければ生まれない価値。こんな近くにある価値だったんだから、それはみんな手を動かそうとするはずだ。



機械的アルゴリズムの結果からなのか、この頃見るネットのスポーツニュース、とりわけ野球のニュースのトップに出てくる記事がやたらロッテ関連だ。
オフシーズンのネタが枯渇する中、そこそこ話題を提供してくれる球団。こうやって生き延びるしかないと捉えるか、これが先端、こっちの方が素晴らしいと捉えるか。



いないことに慣れてしまうだろうことを思うとさらに寂しい
2019/12/30追記:寂しいというより悲しい、自分にと自然に。



出没アド街ック天国をみんなで観る家族。
秘密のケンミンショーは正直、この機会だから付き合った嫌いがある(私が)。



明日が来るのを祈っている。欲を言うとできるだけ穏やかな、辛そうじゃない。都合がいい。私だけ罰して



都合がいいことにむくれる態度をとってしまう、それが近年稀に見る切実な出来事であっても
告知があったから優しくする、話しかける、言えなかったことを伝えるまたは聞くなど、野暮ではないか?情報との距離の取り方と呼んでいいのか、この手の事例は。どうなのか。
もしこの事例をそう呼べるんなら、私と周りの2人は情報との距離の取り方が下手くそといえるのか。だって告知を聞いたから普段はとらない行動をしているから。
でも情報を得て行動することは自然じゃないか?情報を元に行動することの何が悪いんだ?端的に言ってしまうと、余命を言われたからそばにいたいとするのは情報を上手く扱えていない(いなかった)証拠で、弱い、と考えるのは、それこそ画面越しに誰かが言ったハスに構えた正論に、むしろ踊らされているだけなんじゃないのか?



2019/12/27
あなたが泣くと私の喉上も熱くなる
泣かないで、と聞くだけでも、いやむしろそっちの方が目が潤んできやすい
感謝や謝罪が全くない人が一番嫌いなのは変わらないけど、
謝りすぎるのもいかがなものか
あなたに今言いたいのは、自分を責めないでほしい
謝らないでほしい、ここにきて
嘘でも笑い声が聞こえる方が、悔しいけど安心してしまう
重ねて、たまらないほど都合がいいが、
今は、あなたにはなるだけ、自由に振る舞ってほしい
何だかんだいって少なからず私も、
あなたらのもとで自由に振る舞ってきたから
そして何より、
今になってその負い目が疼いてきたから
そのお返しとでも言って、大立ち回りしてください
人間然とした傲慢かな
まだ検証できない
ただ、そう思ってしまう事実は間違いありません
どうしようもありません、許してください



まろかって今にもとろとろに溶けそうな響きの名前だな
声優のラジオみたい




2019/12/29午前1時過ぎ〜今2時半、
11時前に彼女が彼に添われて二階へ寝に行った。おやすみを言ってもらえた、また言えもした。その後の話。
例のごとくだらだらとリビングを占拠した。欲情してさつまいもを3本レンジで蒸してすぐ食べた。かねてから一人の自由をうまく使いこなせていない自覚がある。一人だと気持ちが開放的になるというのも恥ずかしいほど幼いが、開放的になった後の時間の使い方がさらに幼いのだ。「一人だからさつまいも3本も食べちゃお」みたいな思考に一人の時間が確保できるたびに囚われてしまうことと、それから卒業できないこと、そのレベルの行為に罪悪感を覚える器、そして罪悪感を覚えるというのにその行為をやめられない心の弱さ。それらを総じて幼いと言う。今日もまた幼かった。
NHKスペシャル『東京のブラックホールⅡ 破壊と創造の1964年』を途中からちゃんと見始める。途中からちゃんとというのは、実はオープニングからチャンネルザッピング中に引っかかっていたので何とはなしに見ていたんだが、NHKというのも相まって、題材からしてなんかフィクションに逃げているような気がして、没入できず、チャンネルを変えてしまったという経緯がある。ただ、山田孝之貸本屋で働くあたりから意図せず釘付けになってしまい、以降終わりまで見続けた。女子バレーが無理矢理出させられたとの件は初耳だった。
最後まで見終えた感想は、なかなか良かったというのが正直なところだ。内容はフィクションとノンフィクションが混じった、何というジャンルか、また比較する別作品の知識もないためよくわからないものだったが、見続けているうちにだんだんと作品の雰囲気、もっというと方向性とか色とかが私にも分かってきて、面白くなった。
終始現代の東京(五輪)、延いては日本を批判する(前向きな批評みたいな意味も入った)作品内容だったのが、前述の通り言い訳がましく見えて、つまり「現実では我々(NHK)は政府の言いなりっちゃ言いなりですからどうしようもないですけど、勿論裏でこういう視点は持っていますから、どうかここは穏便に、集金にはご理解とご協力を、そして今後ともご愛顧のほど〜」とでも言いたげな阿りの汚さを感じる余地があるようで、俺はカモられないぞとザッピングに精を出していたんだけど、丁度他に惹かれる番組もなく、んで結局これがしっくりきて見続けてしまった。
見終わったあと、やっぱ自分だな、逃げちゃ駄目だなと。流されてるなと。例えばお笑いに。一世代前の創価学会のイベントが盛況な映像が、今の私がお笑いを楽しむさまとダブった。不安から駆り立てられた行動という原理は全く同じだ。
またベタだけど、いつの時期・時代も同じように辛い現実とそれに翻弄される人々がいるんだなと。実体がないものに溢れ、人間の欲望に働きかけるっていう社会の性格は、1964年と2019年でそう変わらないなと。うまいことやり込められてしまった。
あとは山田孝之の演技。目の動かし方とかすげぇ自然だった。



2019/12/28、テレビ東京大正製薬Presents MelodiXスペシャル2019』がザッピングに引っかかった。いつか山ちゃんがラジオで言ってたやつだ、まだやってんだ、いやスペシャルって冠されてるから特番かな、と脳内。
ひな壇、VTRが度々差し込まれる構成とそのVTR内容、演奏前のMCとのお喋り、演奏中のカメラワーク、字幕、そして全体の流れからして、Mステっぽかった。キャスティングと放送局の違いだけで、綺麗にMステから大衆性を取った仕上がりになってい(る風に見え)て、ストレートなテレ東みが伝わった。決して下位互換とは言いたくないんだけど、それにしてもMステ臭が今思うと強くて、やっぱりなんか音楽番組としては雑だった気がする。まあすぐチャンネル変えちゃったから断言はできない、気がするにとどめるまで。「続いては平原綾香さんでーす」の呼び声でMCの隣りに来た彼女が次歌うんだな〜と思いきや、May J.しずちゃんとカラオケ行ったVTRフリをするために出てきただけで終わったのには、少し驚いた。結局その後でなんか歌ったのかもしれない。



「強くて」を過去形にすると、「強かって」でいい?
強かって、と聞くと関西弁ぽいけど、強かった(=強いの過去形:強い+た=「た」に接続する強いの連用形「強かっ」+た)に助詞てを付けた「強かって」って、直感的に過去形ぽく聞こえて、なかなか良くない?
あと関西弁の尊敬表現で、「〜しはる」ってアレ、かなり使い勝手良さそうですごい使いたいんだけど、関西人じゃないから使えないのが残念。「〜なさる」とか「〜していらっしゃる」とか、「お〜する」とかより口語のニュアンスで聞こえる敬語がないから羨ましいんだよな。



(敬称略)



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