直近2週間中の思い出
(2021/10/20更新)
フラワーアーティストにとっての花が花材と呼ばれていたことに若干の違和感を覚える。「私の設い(しつらい:どうやら界隈では自然に口にされる、草花を芸術的に仕立て上げ、人の手によって暮らしの中に取り込む一連=フラワーアーティストの仕事のことを指す)のために花材を取り寄せる」という。
これに私は、「わざわざ遠くから取り寄せんねんな、芸術性と営利活動のためなら」と正直思った。自然を用いる営みだからそのありようも自然主義的思想が貫かれるのかと思いきや、必ずしもそうではなかったことに面食らった。
材料を取り寄せるんではない、たとえば自ら育てる草花や旅先で偶然発見したそれなど合法的に摘める身近な自然縛りのフラワーアートがありえるとしたら、許容される対のコンセプトになるだろう。カウンターの余地がある。
夢:弟に、ベタだけどと前置きして進撃の巨人が好きだと明かした。
前日にまた読み返し始めたからだな。まだ最終巻を読めていないから通しで一気に読みたくて、最初から。知識人たる他者や、不特定多数の人間のお墨付きが、好きと言っても恥ずかしくないから大丈夫と認識させるのを自覚する。お墨付きがないと落ち着かない権威主義的性格はやめたい。なんの頼りもないのちに何かが成功する体験とは、
特にラジオについて書く際、「聞く」と「聴く」を意識的に使い分ける傾向にある。簡単に言って、「聞く」はライトな、「聴く」はヘビーな耳にする行為。「聞く」は'ながら聞き'・hearの意、対して「聴く」は傾聴のニュアンスを込めたlisten toの意で使う。
2021/10/10記す。久々(2ヶ月ほどぶり)にkwannをradikoタイムフリー機能で聞く。今週はそんなでもない回だった。爆発はなかった。
同じネタをこれでもかと擦るのはやっぱり深夜ラジオらしくて、2ヶ月のブランクくらいじゃ全くアウェイ感を覚えさせなかった。このいつもの調子・ホームグラウンド感こそ、この番組の重大な価値となっているのだと確信する。同時に演者も決して無理していないことも、番組の性質上(13年目?の自他ともに公に言って憚らない長寿番組として、本音に近い(あくまでショーだから'近い'と念押す)掛け合いを成り立たせるために)、大事な要素だ。
心変わらず、やはり今の私は聴かなくてもいいと思った。
誰か試したことある?中長距離走で、中途半端にジョギングするくらいならいっそ歩いてしまった方が、その後のダッシュの体力を溜められるのでは、との考え。アホかな。
早くある必要があるのか。早くあるのは手前の寿命があるからだろう。人々が享受する平和を侵して、それより圧倒的に数が少ない人間らの主張を通すという道理について、どう考えたらよいのだろうか。
民主主義であり且つ自由主義であることを標榜する社会ならば、その中に生きる人の主張が歪められる事例に納得するのは容易ではない。
ノーベル賞の偉大さを最近重く見られなくなってきている。「だから何?」語法が口をつきそうになる。理解が及ばない過去の功績を「今がこんなダメなんだから大したことではない」と一蹴せんばかりの、思索を知らない素人である。
これは過去にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作が、十分叩き代(しろ)がある人間としてメディアに取り上げられるのを見た経験をしたことも影響している。子供の頃からノーベル賞受賞= 諸手をあげて喜ぶニュースとして一方的に目にしてから、賞は高潔な人間にだけ贈られる絶対に正しい/正しく生きた人間の証明なんだろうと漠然と抱いて疑わなかった。このテレビ越しの縁遠い栄誉の認識を、同じくテレビ越しに思い切り上塗りされた記憶が最新だからなのかもしれない。単純である。
情報過多・富の偏在の煽りを素直に受けた、余裕がない現代人そのものの像になっているのか。
「試合の流れ」などで言われる「流れ」とは、形のない、得体の知れないものである。口伝えで聞く「流れ」は、皆が存在すると思うから存在するものであって、無いものと断じればたちまち私の中では消え失せるものではないのか。想像だが、例えばイチローなどはそういう風に考えそうだ。
私的に気兼ねなく読める文章なら、知らぬ間に結構さらっと100ページくらい繰れている。例えば芸人のエッセイ集。今、一本2ページ半くらいの軽いのがスーッと続くやつを読んでいる。特にそこから何かを学ぶ気はないからして、書物を読むときにしばしば囚われる義務感から開放的になれているんだと思う。これくらいの脱力感で他の文章も読んでいって、そのスピードで読み切った後に残るものを大切にすればいいんだろう。それが間違いなく私の人生における読書のあり方の一つの正解なのは、ずっとわかってはいるんだけど、ね。
些細なこと、あるいは完全に的外れの可能性も承知だが、HIPHOP音楽でShooting Starって曲名なのが特に批判なく通っているらしいところに、ジャンルのポピュラー化が進んでいると思った。EXILEにも同じ曲名があったのを知っている。「ほ〜う、その口がShooting Starねぇ」と。懐メロ入りを察せられた。
夜、部屋に熱がこもって暑いから、わざわざ雨戸を開けて網戸にした。まだ暗い、まだ暗いと途中微睡みが続いたものの、そのまま一夜が明けた。8時前の晴れた土曜日は、ああ言い直す、土曜日とは言ったが別に土曜日ではなくてもいい、窓の外はよく鳥々が鳴いている。環境音になっていてついつい存在をかき消してしまうが、意識を立てると明らかに鈴虫のような虫の音と一緒に囀っているのがわかる。会話か、よく鳴いている。これは自然災害か何かの兆候かしらん。とまれ、会話の音声が癒されるって恵み。
2021/10/08記す。保険金請求の段。今までと違い直接自分らの金にならないことがわかった請求の書類を、これまで通り代理して調える。まだ請求できる可能性を求めて履歴を確かめる電話をコールセンターに入れるのは吝かではなかったが、それなのに、文字に起こすまま「まあいっか」と思った。だるかった。数時間前の出来事で、今思い出して、これはと思い書き残す。所詮念入りの行動が金へのモチベーションから始まっていれば、金へのモチベーションがいつもより少し毀損されると、意図的に行動にムラを許すのだった。
金が理由になると、それにまつわるあらゆる物事や行為が白黒はっきりとするらしいのは、良し悪しかな。決して褒められない、その点で不完全な社会の中心的仕組みだ。
癇と癪、巷では癇使いが多いけど私は癪派。癇に障るより癪に障る。癪に障るを覚えたのが多分先だからだと思う。
資本主義と長寿性は、水と油、全く相容れない性格なのではないか。いや違うか、金のためなら人の寿命を縮めるのも厭わない考えに基づく営利活動が当然に許容されているというだけで、長寿でも短命でも金が生めれば嬉しいのか。
夢:「問題。アンモナイトはかつて、「何かに羽が生えた姿」と形容されていたことがあります。それは一体なんでしょう。」
との問いに、最初の回答「甲虫」と書いたところ、シンキングタイム中、回答を知っているだろう一人から「あーいい線はいってる」と漏れた。私は頭のどこかに、細丸い芋虫のような形の挿絵からだんだんと解明が進んだ記述の記憶があったので、甲虫を消して「◯◯」(忘れた)を最終回答にした。時間切れ直前に、「あー離れたぁ」と嘆息される。
正解のVTRを見る。ゆっくりと解説し、焦らして焦らして、最終的な答え、「塩茹でした枝豆のヘタでした!」
は?まず記憶違いや、惜しいニュアンスで反応された最初の回答ともまるで遠いこと、嘘をつかれた疑いなど色々に反射的に愕然として、柄にもなく顔をしかめて通常の1.5倍ほどの声量で聞き返してしまう。「枝豆のヘ」食い気味に諭す声色を置くようにして「塩茹でした〜」。切り返して「塩茹でした、枝豆のヘタ?」「塩茹でした枝豆のヘタ。」
まったく納得がいかなかった。とても歯切れが悪かった。が、それが答えと言われたからどうしようもなかった。
義理とは伝染を条件にしている。二人間の善意の投げ合いは仲良しという。そこから三人、五人、十人と輪が広がり、各人がなけなしでも向こう見ずな善意を媒介に関係し合うと、晴れて義理という現象になる。義理発生中の内側では、ある一人がたとえ悪意なくそのやり取りを中断することになったとしても、前提を崩した・ルールを破った・ゲームを変え(ようとし)たという点で、それは悪になる。
チープさがテーマの劇中劇のナレーションぽい語りを、ここで脳内再生してみる。「ここから私という人間は、なんとさらに5年もの歳月、家に引きこもることになるのです。」この恐怖!覿面!!か?
どんな言葉を使うかで差別化を図るのもよいが、感覚がどれだけ差別的なのかの方が、オーガニックに固有さを表明できる点で価値が高い。あるいは感覚にどれだけ忠実に言葉を選べるかという辛抱強い態度。もちろん最終的なアウトプットが言葉なら、語彙の下支えは当然重要なのだが。
また今度は、日常生活中における不在の実感が段々とたしかに輪郭を帯びてきて、とても寂しい。
想像力が本当に乏しくて自分に辟易と不安を覚える。
J-WAVE 「WOW MUSIC」のKREVAの話し声が心地いい。完全にモテるな〜。あと番組オープニングとエンディングのブレイクビーツ?も快い。これも彼のかな。
肩幅の広い担当葬儀屋が声量を上げて高らかに、
「ご出棺です!」
浜田の結果発表のあれみたいで、完全に祭りの演出だった。これを聞いたとき我に返った。「あ仕事だ。」
あとがき:そうだ、たまたまだったあの日の火葬場前の各ゾーンにも、うちの他に2人の遺影があった。多くのうちの1人であるのは揺るがぬ事実だ。ましてや葬儀屋、それを仕事にしているんだから、仕事の性格上態度をいくら上手く取り繕おうとも作業でなくなるはずはないのだ。
「家」における対立は、どうやら金が原因になることが多そうだ。そして「家」や「血縁」は、深刻になれるだけなれる深みがある。
夢:ネット上でアプローチした人間と実際に会い、事を済ます。こんな感じなんだ。
食事のために下に降りるのが遅れていたのは、食事をなるべく一人で食べたかったからというのが正直なところだった。気持ちを説明できればよかった。
具体的には、足を動かしたくても動かせない人の気持ちには、私はもっと理解を深め寄り添っていった方がよい。近い内同じ立場になるのに無自覚で無頓着だ。
2021/09/3023:58 歯磨きと洗顔後のベッドの上にて記す。最後の断末魔は唯一の弱音だった、いわばドラマチックなくらいに。裏を返せば、それほど日常的に気張っていた/いてくれていたことがわかる事実だ。初めて弱音に直面した事案だったということも、こうして耳に目に心に残る衝撃を強めた要因である。
自分で終わりを決めたともとることができる。もちろんその決定の直接の引き金となったのは私であり、私達であったとも言える。
補助者によるペットボトルの傾け具合とストローの角度のつけ方の塩梅次第で水がストローの先に接着しないで水が吸えなくなるのに苦しみながらも、なんとか息苦しさを紛らわすためだったか、あるいは副作用の熱りを冷ますためだったか、とにかく水を含もうとする中、弟が粗相をして左襟に水をこぼしたさまをみて私がヘラヘラしたこと。その後私の「物は試し」発言から独断で行ったYouTubeのハープ音源を耳元で再生したのを「止めてくれ」と言われたことを最初聞き取れず「(弟のわからないとの応答に対して)俺もわかんね笑」と反応したこと。これらが直前にあった出来事で、これが突然の「もうだめだ」に完全な影響を与えている可能性が十分にあることは忘れないようにするためにも記しておきたい。
人の決定に人が影響するのは、仕方ないともいえる。人とともに生活する以上分かつことのできない'人間関係'がある、特に介助補助によって生活を支える他者がいれば、大小さまざまな感情がその他者の振る舞いによって引き起こされるのは想像に難くないし、避けられない。私が最近反芻して後悔している、死ぬ決断に直接的に介入してしまった(かもしれない)失態、不義理をはたらいたとする自罰感情その意識が絶対的に正しいとは言い切れない。言い換えると、決定に対して私が影響した事実が絶対的に悪かったとも言いきれないところがあるだろう。
とはいえ、あの疲れや飽き、弟を庇う頭から起こったはずの振る舞いを避けるには、どういう布石を打っておいたらよかったのだろうとは考えたい。
契約するのには書面での取り決めなど時間をかけた段取りを要するのに、終わりは本当に一瞬。電話一本で済んでしまう。まさにそのまま命を象徴するみたいだった。
2021/09/30 11:21自室部屋の窓の外から、風の具合か、小学校の方から20mシャトルランの音が聞こえる。時間は音も立てずに、こうして今も過ぎている。
bilibili動画を開いて見ていた。
2021/09/29、携帯の解約と待ち時間に墓参り、書類作成と郵送までを行う。
明日死ぬかもしれないから、私も死後の意思はなるべく残しておこう。更新してもいいしな。
半夢:起きた瞬間10秒弱、寝ぼけて彼女が大丈夫かどうかをうかがって周りをみた。
過集中って何よ、って思う夜もある
それならそれでいいでしょ、平熱は人それぞれだからって
政局を「ポリティカルシーン」と呼ぶやつがまだいない。ラッパーがメディアでしきりに話す「ヒップホップシーン」、資本主義家が話す界隈の「ビジネスシーン」と同様に、なぜ政治はマスメディア雇用の記者のリポートや党関係者の言などからしかシーン、それも伝聞調のそれ(〜らしいよくらいの信憑レベルで受け取るしかない情報)しかうかがえないのか。プレイヤー自身から具体的な派閥や権力構図、流行などの様相を発信できないのか。
例えば官邸記者は、その利益欲しさにそれはしてほしくないかもしれない。あるいは黒いからか、でもそれは最早黒く見えないかもしれないぞ。世の中大分暗いから。また黒色はどの業界でも観測できることだろうし、話せることはあるだろう。それとも高齢者の目にはギョッとするからそのままなのか。無駄に閉ざされている。
事業家によくある語調の典型
「楽しいことをしかけていく」
楽しいのはおおむねお前とお前周りだけだろって。誰かが稼げば誰かが割りを食う、挙動が欲望とくに金銭欲に支配されることのない活動にもっとメリットが生じますように。
オーシャンビュー、青い空に際立つ緑の山の稜線を見飽きるまで
2021/09/28、16:47ベッドに腰掛け記す。今日は具体的には10時に電動リクライニングベッドの返却の応対をしたのみ。一日が長い。無駄にしている。約束した、これではいけない。
兄弟の番の日だった。深夜に桃を剥いたとき、疲れてむすっとした。普通のカットフルーツのように切ったらあまり食べ応えがなくて、そのまま齧り付きたいと。折角ラップも用意したのに、と少し苛ついたまま、果実丸ごと口元に持っていって、例のごとくがぶり、がぶりと、「絶対こぼれるな」とか言ってティッシュや汚れてもいいタオルを顎の下にセットしてから頬張る。一気に7,8口はいっただろうか、過去数日の様子では一番力強く口から物を摂っていた。下火の苛つきは継続しながら、はい、はい、と回転させながら一口ひと口持ってあげ、もういい?に頷いて後、「ありがとう」と言われた。容易に私の気色悪さを察せられたと思ったのは何回もあった。ありがとうはわざわざ言うものだから。
Amazonの文句も言っていた。注文したが、配達中のフェイズから一向に到着しないことに「Amazonダメだね、遅い」と荒らげていた。切羽詰まったら私もそうなるだろうと思った。
故人を悼む意識を生まれて初めて抱いたと言えるのではないか。3日経っても辛い。するとやはり、それほど乾燥した人間であることがわかる。私は人に思い入れしない。
本音の一筆書き(彼女にまつわるルポルタージュとは大風呂敷だった、記録とする)を読み返すと、その筆致やヴァイブスは日記のそれと瓜二つだった。所詮!素人!本を読まない!
私にとっては風呂に数日入らないのも髪を伸ばすのも一日会話をしないのも些細なことだったが、それによって心労をかけるのは本意ではなかった。
いや本当か、もたれかかっていただろう。訂正しよう、頼りきりでもたれかかったことを謝りたい。
2021/09/28 6:52ベッド上にて記す。
駄目だ。なぜか全然動いていないのに疲れている。風呂にも入ってない歯も磨いてない顔も洗っていない。同じ心配をされるではないか。日記を断片的に、いや自分の名前を中心に追っていると、どこにも心配ばかりさせてしまっていた。文面から明らかな意図的にコミュニケーションを拒んでいた2〜4年前を後悔している。今更都合がいい。身勝手だ。この後悔は、自分の保身の頭があって作動している感情でもあるのだから、余計に醜い。やはり他者同士、相手を大切にしているのであれば、なるだけ正直にコミュニケーションを取る方が正しいのだろうか。相手を大切に思うのならば、その相手が何を考えているのかに思いをよせるのが普通だ。私はそれができていなかったから、関係をそこまで大切に、重大に思っていなかったということになる。自覚がある。昨日や今日のような日がくると想像できていなかったのが失敗だ。想像できていたならば、極力内心を明らかにしたり知られたりしたくない私の本来的な動きではないからストレスがかかったとしても、恐らくはかつての自分と比べて、本音に近い気持ちを話し合おうと考えはしたはずだ。後悔の想像の欠如と、私の内心を隠したい性が原因の後悔である。
ただ本当に言えたか?彼女と2度と会えない今だから後悔を抱こうとしているだけではないか?その節はあるだろう。もし今日の記憶をもって1週間前に飛べたとして、本当に話すか?話して、いつもと違う私の挙動に、彼女が自らの終わりを察して早めに我慢と緊張糸が切れてしまう怖さもあるのに。やはりあらゆる他者とのコミュニケーションから意識的に距離を置く性格に、この後悔と葛藤をうむ根源的な難がある。コミュニケーションの労力とコミュニケーションをとった結果発生する心的負荷の可能性への嫌悪と、内心暴露を恐れる性格、これを部分的に矯正する必要がありそうだ。完全に綺麗さっぱり無くすのはアイデンティティの崩壊などにも繋がりそうで危険だが、一部の信頼したい・大切にしたい他者を選んで限定的にストッパーを解除しようと試みる勇気を持つのは大事かもしれない、いややってみた方がいい。でないと私のことだ、同じ失敗を繰り返すに決まっている。
日記は、言葉選びや語気やもちろん内容から、表の印象とは別の力強い心の持ち主としての彼女の一端を垣間見られ、それはそうかと合点がいった。
もう戻れない、取り返しのつかない失態を犯した。墓前で、そして生きている彼に返すしかないだろう。
設定案:エロマンガの登場人物にはなりたくないのに不本意にもそうなってしまっている主人公が、段々と「これもいいのでは……」などと心が揺れ動く、内面の葛藤を描いた生活漫画。ギャグを取り入れてもいいかも。メタ視点と相性がいい。
性風俗業界(コロナ禍における給付金を与えない発言がある程度許容されてしまう(良くも悪くも(コロナ給付金に関してはきわめて現実的な問題なので間違いなく悪い側面になるが))アンダーグラウンド)に光を当てられる可能性がある。
(↑性風俗業界に限らずアンダーグラウンド性の良い面とはなにかを、現状不勉強と無知ゆえ具体的には説明できないが、そういうものがありうるというのを信じたいから(だから人間、アンダーグラウンドと呼ばれる場所でも生き伸びられるんでしょ!と思いたいしそういうの見たことあるから)、'良くも'悪くもと書いた。)
この愚かさは創作のネタにならないか
何もしたくない、不安障害の認定を受けた、自称醜形恐怖症患者の7年間の空白
ずっと見ないふりをしてきた。無いことにしてきた。そのツケ。
過去にも遡る。どんな人間だったか。
話さない自分のことを全く。その心配をのみかけていたのが日記を読んでわかる。もっと早く読めばよかった。2021/09/27、安置される場に5人で面会後、葬儀を仕切る会社担当者とファミレスで対談、仏具用品店で仏壇他の当てをチェック明細を確認して帰宅。後、着せる服選びakaファッションショーの途中、服探し中に隣の部屋から拾った日記、特に2017〜2020年をザッピングして記す。存在は知っていたが生前は触れてはいけないものだと思っていた。家族でも誰でも極プライベートな領域は不文律で詮索してはならないと自己に課していた。それは逆に相手にも同じことはされたくないと思うからで、また実際に侵犯されたのがわかったら負い目なくブチ切れることができるためでもある。
これを逃したらもう2度と伝えられないような切羽詰まる状況に置かれないと身の上の予定を伝えられない奴
(一部敬称略)