(2022/04/19更新)
どちらが悪いのか。被害者面なのか、被害者なのか。
2022/04/18、ハライチ目当てでテレ朝系列のテレビ番組「あざとくて何が悪いの?」を観る。人間の恋愛の機微がテーマのバラエティ番組。出演者は田中みな実、弘中綾香、山里亮太の3人にゲストが加わる。以前は3人だけだったような。内容は大きく、恋愛に一家言ある女性2人が、題材に対して相応の説得力を込めてあーだこーだお喋りするというもの。一家言ある女性、と言うと言葉足らずなので言い換えると、題材に様々な角度の見方を流暢に提供する役回りをこなす女性2名とゲストの恋愛話。バラエティらしく時々逸脱するのを司会役の山ちゃんが程よくつっこんで進行する。
「彼が悪い」「それは違う」「かなり良い!」などなどネタに対してつぶさに反応して理由を話すのだが、本音らしい温度感の指摘が飛び交うさまは、恋愛門外漢には圧迫感がある。仕方がない排他。前提の共有を求められると感じる過敏な気質も一要因かもしれない。ただバラエティではあるので、その辺に曖昧な余分もあるから、なけなしの共感の瞬間に笑えるときもあるんだと思う。
ある場面で「ストーキングだよ、これ駄目」という意見が優位になるタイミングがあった。ストーキングに反応した。このとき、私のトラウマの原因は私に非があるのかもしれないのかと思い付いた。トラウマの詳細は面倒なので書かない。直後、瞬間的にこれは恥ずかしい隠したいと思って、次いで自分の幼さを再確認した。
この世の中では、13〜4年も前の出来事について、自分が悪い可能性の視点を欠かして放置を決め込むのは、多分相当想像力に乏しく、頭が悪いとされるはずだ。一般と比較して人間関係の経験(実地体験にとどまらず、人間を描写する映画や小説・テレビ番組・漫画・論説・論文・喋りなど、人間を対象としうるメタメッセージも含めた経験)がとても少ないことに由来する、人間への洞察力の低さが、自己認識にも影響しているのではないか。いや、人間関係の経験は足りていて、それに対する思考が足りないのかもしれない。人間関係に対する思考の経験。私個人としては、人間は極力コントロールしたくない、もっというと関わりたくないと思っている。つまるところ他人に関わらないことこそが、自由を限りなく保障するでしょ。
しかしトラウマの出来事の非が私にあるとして、私のトラウマは事実なので、その出来事の悪が私のものだったとしても、その後様々なかたちで尾を引いているとみられるトラウマの出来事を独立して私の不幸とみる正当性は変わらない。
また時間の経過で気持ちも変化している。気分によっては、むしろかのトラウマの出来事に巡り合ったおかげで、それ以上に強烈なトラウマとの接触を免れたとすら考えられもする。あの失敗以降、私は人との関わりを積極的に遠ざけ続けたので、人とのいざこざに頭を悩ます時間を無くすことに成功している。この考え方に、こいつはヤバい、危険だと思うだろうか。この行動様式とそれに伴う性格の獲得によって今後引き起こされるはずの、どうしても逃れられない人間社会における苦痛を心配しているのか。
2022/04/18 15:48現在、私はこう書く。あの出来事の非がどちらにあってもいい。確かなことは、あの出来事が起こったという事実だけで、それを生かすというのはあくまでそれを失敗とみなす人間の規範における正しさの提示という見方を免れず、出来事と別の方向に進むのも、失敗のまま放置するのも、同じ出来事に再び遭遇するのも、ただそうであるだけで、良し悪しの判定は絶対ではない。良し悪しの判定は、魚肉や欲望や私と同じ、イマココの主張・実際的な彩りなんだろうと。