アイデンティティ拡散という言葉を知った
(2022/03/19更新)
時間の力で、その価値観がたとえ偏っていても、当人にとって強固になっていく現実がある。
例えば性自認について、LGBTQやノンバイナリー、アロマンティック、アセクシュアルなど、さまざまなジェンダー(=社会学的性・自認する性)に無知だった時期が長い私は、女性性か男性性かの2択、かつ「生物学的性=ジェンダー」の多数有利の規範に晒された上で、自由に/自然に自分を規定し、今がある。
ジェンダーの多様性が隆興する現代では明らかに偏った、即刻矯正されるのが正しい社会なのに、それが叶わなかった過去に生きて長いから、貧しい規範に晒されながら規定したジェンダーを、現状そのまま保持している。
このとき、私のジェンダーは、本当は(昔)違かった/(今)違うのに、疑いなくあるいは疑えず変更していないというパターンを否定できない。
正確には、今の豊富な選択肢からなら違う選択をしたのに、今より不自由な選択肢しかなかったから選べなかった、つまり(昔)本当は違かったジェンダーを選び取った結果、それが板について慣れ親しんだ(=適応'してしまった')現在
また、
(今)自覚している肩書きと本心が違うジェンダーを、今更変える勇気がない/気が起きない(今の人間関係への告知などにかかるコスパが悪い)orこれが自分ではないのではないかと強く疑うほど、肩書きのジェンダーと自分とのシンクロ率に不満はない現在
などという、経過した時間の強度に抗えない現実が存在しうる。
フィクションならここでパラレルワールドの用意が始まるが、現実そうはいかない。時代に左右される自分は数奇な人生の主人公で、仕方ないほど賢く、優しい。不自由に伴った犠牲の上で、どうか健やかに過ごしてほしい。
サンデル氏の近著のタイトル和訳「実力も運のうち」も、どうも個人の倫理観とかアイデンティティの形成に役立つ教えや啓蒙のニュアンスの域を出ないような気がして、この言葉が流布する理由であるところの、「資本主義が要請する欲望の駆動力」に対する抑止効果はどれほどのものだろう、と口淋しい。big bro.への諂いを込めた願掛け。ただ、肝心なのは現在のところ本書を読んでいないこと!
うその笑顔のミュージシャンと、本音で険しげな面持ちのミュージシャン
夢:用事があるようで車で実家に行くのに、乗ってくどうするの話に。彼女「78円のところすいませんが80円でってクレジットカードで払って。マイナポイント……。」マイナポイントの仕組みや損得の相場はよく分からないけど、車をいちいち停めて出たくないから同乗者を作りたい彼の意向だろ、と思う。
科学はどういう差別なら肯定できるか
教科書読みに慣れた目と頭だと、例えばTwitterの見知らぬアカウントから吐露された心理描写を読み、それを正当な心的反応として自らの心理にトレースしてしまうという経験が起こりうる。
描写された心理は、日本人でバズるほどにはあるあるなのだが、私には分からない。その分からない感覚は、「まだ経験したことがないから分からない」かつ「実際に経験したとしてその心理に至るかどうかは分からない」という2つの分からないを兼ねている。
にも関わらず、教科書読みの目と頭はイノセントで、批判能力に乏しいから、それを自分の未知なる経験として知恵・知識にストックする。
すると、似たような境遇におかれたとき(そしてそれは概ね心理的に辛いとき)、自らの心理を、以前見たツイートに思い出したように当てはめて把握し、解決しようとする思考を辿る。
この一連の思考回路は、かつて分からなかったはずの原初の心理をさておいて、我先に社会性を求めた点で、自己を無視した危うい迂回を招く。ツイートを見なければ避けられた事象を、見てしまったことで積極的に受け入れる事態が起こりうるからだ。
かつて見た匿名の心理描写は、共感による救いの機会を提供するというメリットaka営利企業の大義に隠れて、イノセンスを食い物にした。多数決の負の側面。
世界の知識の獲得とは別に、自らの固有の感覚への意識も忘れないようにしたい。
夢:学校。教室から抜け出した間に武道館に行ってた。教室に戻ると4人なぜか廊下側の席の男子が残っていた。集合する武道館の場所がバレないように、予め箝口令が敷かれていたそう。
大好き、と脳内発言再び
防衛行為か
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqp/1/1/1_88/_pdf/-char/ja
インテリ系美人OL
Twitterにて引用リツイートして以下のようにのたまう
(背景を説明する。お笑い番組内にて、「子育てどれくらいやればいいの?」って聞いた40代芸人に対して、その芸人より芸歴と子育て歴が先輩の、昔からの親交が深い芸人が曰く「帰って気づいたことは全部やんだよ、帰宅時どこかで『MC様がお帰りだ』とか思ってねえか?」(引用先が3/13時点でツイ消しされていたので意訳)と。その発言に対しある匿名アカウントが「かっこいいしその通りすぎる」「ズバリ本質ついてるな〜」とツリーで(=連続で投稿して)ツイート。加えて「そんなこと言う彼、芸人界でと比較的人を思いやれる性格に見えていただけに、なんだか余計に残念」(これも同様に意訳)とも呟いており、これが1000いいねは優に超える程度にバズっていたと記憶している。たまたまタイムラインに流れてきたこれに対するツイートが以下の通り。)
天邪鬼で、バランスをとりたくなる。
「かっこいいしその通りすぎる」「ズバリ本質ついてるな〜」との言葉選びそのままに共鳴しているのだとしたら、ややバズってもいるからして少々マッチョだ。「うるせえないいからやんだよ当たり前だろ準公人のくせに男尊女卑のクズが」が、体調によっては透けて見える。
何が悪い?子育てを蔑ろにさせうる環境を作る社会が悪い。保護者の望む育成方針を叶えられない社会の制度上の欠陥があるのに直せない状況が悪い。自分で子育てをしたいだけの保護者が、それに主体的に取り組めない肉体的・精神的疲労してしまう、尻に火をつけ続ける世界が悪い。
仕事v.s.子育ては現状間違いなくバトルしなければならないが、その均衡点があまりに仕事に寄りすぎている。
海水浴に持たせてくれたアルミホイルに包んだでかいおにぎり。鮭、昆布、塩握り。calbeeさやえんどうが好きだった。
プラ板の色味とそれ自体の懐かしさ。
現代では、規律を遵守する精神性が槍玉に挙げられてばかりいる。
これほどあからさまに「失敗を恐れず」「勇気を持って」「いろいろな事に挑戦していって下さい」「小さな失敗も 大きな失敗も あなたの将来にとっては大きな宝物になり、生きていく力になると思うから」「何がしたいのか 何がやりたいのかしっかり考え」「輝かしい未来に 幸わせがいっぱい訪れますように 心から願っています」などと言われると、それはそれで強度を感じて感動する。
引きこもりが平和を語る。引きこもるから平和になれる。
定年制度で年齢によって厳格に入場規制を設けるのも、言うなれば強権的な、個別最適を放棄する意味で非合理的な差別ともとれた。
生まれたからには生き延びることが何としても正しい価値観が、日本中を覆っているからこそ生じる諸問題——少子高齢化やシルバー民主主義や戦後以降の日本的経営の存続などにみられる圧倒的な現状肯定と先送りの志向——とも理解できて、その意味でこの国は、他に類をみない平和主義国家なんだ。
2022/03/09記す。イヤリングとピアスの違いを知らなかった。こういうささいな無知は日常でしばしば起こって、その度にググる。社会経験の乏しさへの対症療法。中島敦の『山月記』と、井伏鱒二の山椒魚を引き合いに出して学生時代を回想するブログを読んだ。後悔はしたくない、なるべく。
強い人のイヤリングが機体の振動を受け入れて揺れているのが分かり、落ち着ける
これは場面緘黙症というのか。Wikipediaで当該項目を調べたが、それっぽい感じがしてきた。
今日も起こった。家族会議で自分の心のうちや意向について真剣な間を空けて聞かれると、言うなれば極度に恥ずかしい気持ちになって口を開けない状態になる。会話調ではなく、発言者のターンを厳格に分けてキャッチボールを強いられるような発言の場。身内であるから、裁判のような舞台とは違い発言を待たれるのだが、間が3分5分空くのもままあり、痺れを切らして相手方がもう一球投げてくる。そんなことが続く。
言おうと思っていても話し出せない。またそもそも自分の内面について、自分の口から家族を始め他人に話したくない。これは長年の習性、あるいは根本には発言を否定や拒否されたり、驚きや奇怪ととられるのを恐れているからかもしれない。自分のことなのだが、判然としない。というのも発言する恐怖にしても、あまりに口が重すぎるようだからだ。自分を値踏みされる恐怖心なんか、ネット上でいくらでも事例を見てきてある程度はメタ認知もできているはずなのにも関わらず、あまりに喋れていない気がするのだ。
それは記憶では11,2歳くらいからあって、14歳の時分に確実に一回あった。その時点で口をつぐむ機会を経験していたから、「またか嫌だな」と感じた。ので、既に機会は始まっていたと思う。結局最後は相手から水を引いてもらって、はいかいいえで答えるのが大抵のオチ。
Wikipediaの「治療」項目で思い出したが、そういえば心を許して話す他人が、この世に一人もいなかった。また社交不安障害その他の疾患との付随、先天的後天的な内向的性格に現れがちと考察されている。これが正しければまあ外れてはいない。
最近自分に関して気づくことが増えている。ひとえにインターネット経由の知恵のおかげだが、例えば病気に関して、ある病気の罹患を断定したとして、それが必ずしも幸福な生活に結びつくとは限らない。病気だとして、良くも悪くも「だからどうした?」と言えてしまえば終いなところがある。
ともあれ、観察とは私的にとても難しい営みだ。快適な社会生活になくてはならない「認識」や「ある時点から時間軸上に被さる常」から離れて、現象を独立単体として捉える必要があるからだ。日常生活の目とは別に、観察眼モードを意識的に切り替え用意するのが常套なんだろうか。
相席食堂にて、たしか江戸川区にあった錦鯉渡辺の実家が、結構立派な一軒家だったのに驚いた。養成所入学年に交通事故で母を亡くし、父と自分2人で暮らしているそうだったが、それにしてもVTR中の室内は綺麗で大きく見えた。指摘はされていなかった。
同居の場合、自分一人用の部屋、自分の机、欲張れば書斎のような空間は欲しい。
また1日が終わる2022/03/07。0:39。日付は既に8日。遅刻癖持ちは死を思えだ。
※以下ややネタバレかも?注意
息巻く職業経営者(=経営コンサルタントのような経営を生業とする人)の声が、まるで敵の襲来時、咄嗟にすぐミカサを探そうとした新生エルディア帝国の長フロックみたい。おのれの実力に比して偉い地位なのが不釣り合いで、発言が空虚に聞こえるのにものともしないギャップがダサい。
腹が痛くなって、最近痛みが足らないのではないかと思った。腹の痛みの苦しさが、今までにない苦悶する痛みに感じられた。長らく痛みを味わっていないがゆえ、敏感な反応になって表れているようだ。多少の痛みは迎え入れなければ先に進めないのか。
(一部敬称略)