ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

腹切りものが待っていると思うと

(2022/03/26更新)


日に数度、腹筋を伸ばしたくなり、状態を逸らしたり両腕を上げて伸びをしたりする。生活中どうしても体に溜まるgloomyを散らす、生理的な行為の意識。言い換えれば、自己流の超簡易的ヨガみたいなもの。



(2022/3/18、全日本柔道連盟が2022年度より、小学生の柔道全国大会を無くす方針を明らかにしたというニュースが流れる。以下は、Twitterにて「勝利したい子どもを切り捨てる愚策だ」と反応するコメントに対する私見。)

 受験勉強や社会全体とスポーツとで勝利主義の認否が違うのは、大人の世界への距離の長さに理由があるように思います。端的に言えば、受験勉強や社会全体における勝負は「秩序」で、スポーツの勝負は「文化」だからです。その点では前の方のレスの方向性に賛同しています。

 受験勉強の勝利とは偏差値の高い学校に行くこと、社会全体の勝利とは金をたくさん稼ぐことだと仮定します。
 一般に偏差値の高い学校に行くと、多様な視点を得る環境に身を置けたり、同年代中でもより高度な学習機会を得るチャンスを手にできます。それは成熟した人間=大人の形成に資する舞台です。そういう環境や機会は、学力が高いとみなされる人間の存在で成り立つ。だから学校が求める学力保持者を選抜する勝負は正当化されます。
 また金をたくさん稼ぐと、ルール上色んなものと交換できるなど社会で優遇されます。問題はありますが、現状最も妥当で有効と判断され、採用されているルール。この現状最も自由で平和で平等とされる勝負の原理によって、何かにつけ空恐ろしい人間をコントロールしています。したがって大人の世界のルールに勝負があるのは仕方ないとされます。

 しかし成長途上の子供に対し、無批判にこの勝負の原理を当てはめると、子供自身に将来的な不利益を生む(バーンアウト、根拠の危うい高慢さ、主体的な思考機会を削ぐなど)懸念があるそうです。
 だとすればできる限り避けたい。前の二者の勝負は、大人の世界に近い、また大人の世界だから仕方ないけど、一方スポーツはそれらより距離をとれる、人間の成長段階で利用できる文化的側面がある。だから子供のスポーツの勝負は、大人のルールをそのまま当てはめないでおこう。こういう理屈ではないでしょうか。

 勝負を突き詰めすぎることによる悪影響は、確かにどのファクターをとっても確認されるでしょう。ただスポーツの全国大会をなくすだけで、小学生の勝負する環境が撤廃されるとは言えないので、この方策は子供の勝負心を切り捨てるわけではないと思います。



反撃行為は同じ土俵に立つことを前提とするので、冷たくしないでほしい



エンタメにおける「いい話」発言とは具体的にどんな話、くだりを指すか



「それはあなたにとってはそう思っているということね。」
祖母→父→子
祖母の金は子である父の金、父の金は子の私のため
という認識で言っていたなら、上の発言の真意が反語の意味だと理解できる。父から見て「私を不安にさせるお前がそれを拒んでも、不安の元凶であるお前がこの不安を解消してくれないと、いくら拒んでも祖母には使われない。」
手元の金よりもこの不安=子どもの自立と幸福期待問題を解消したいという欲求。
多少は投資的意味、最終的な見返りの大きさを期待しているのもあるかもしれない。



夢:赤点ばっかのテストを好きな人から返される。私的にはよく話した。プライバシー意識から点数をそーっと開いて見せて、2人だけの了解。「これくらい……」「えー、これ何で?」
飛ぶ
アフターテレビジョンスタディーズが教材の授業が面白いことを説明する。いつになくよく話すからみんなも納得したようだが、私は話しながら、どこがどう面白いのかは忘れていて、問われたら上手く説明できないから困っていた。



また飲まれている。生きる自信がない。何の手習も受けていないたちは、どうやって社会の接点を探せばいいのか。やる気が起きない。また2022/03/17が終わってしまう、19:42。うなだれる。



人を見なさ過ぎて、皆一様に綺麗な顔に見える。判別がつかない。つけようと努力もしない。



メルカリ運営に警告されただけでしゅんとなる心は、社会だとキツいだろうとは分かったから忘れよう



あっちゃんの顔芸



2022/03/16
歩いて日本マテリアル査定。検討してもよろしいでしょうかと断り、予約したより高価な方へ。時間が1時間以上空いていたが、早めに行くのに越したことはない。早足で汗をかくのは嫌だったから、map頼りに再び歩き出す。なお移動は全てGoogleMapや乗り換え案内に頼り切っている。電池消費節約のため、道なりを確認したら不安になるまで位置情報はオフに戻し、機内モードにする。ちなみに位置情報+4G電波を繋いでmap案内を駆使する際、位置情報そのままに電波を切って機内モードにしても、そのまま現在の位置情報と検索した経路案内を継続できるので、機内モードにはよくした。

→歩いて徳力本店まで。この間時間が余っていたので、目的地付近でたまたま見つけた郵便局へ。通知が来ていた定額貯金の引き出し手続きを、千代田鍛冶町郵便局貯金窓口にて行う。

→本店到着。が、時間が14時の予約まで30分以上あったので、同じ通りの向こうで既にショッキングピンクに色づく桜?並木を見に行こうと通り過ぎる。彩色に誘われた猿。→桜だった。すでに風に花びらが散るくだりまで始まっていた。綺麗だ。そして飽くなき欲望だ。一枚写真を撮った。路駐するSAGAWAの車と運転手が写り込んだ。道すがら学校らしき空間を見つけた。

→桜の終わりまで歩いたら、右手にベンチが並んだ空間。ビル群にそぐわない緑。鳥居。1時半すぎの昼時だったので飯を食う人もいたが、一番手前の2×2の4人座席で熱心にPCに打ち込むおじさん2人が対角に座っていた。そこで興味本位で、後ろを通り過ぎどんな作業をしているのかのぞいた。もちろん明瞭には見えなかったが、ロゴからPC版のGメールを開いていたのがわかった。直後に電話でもしもしお疲れ様です○○ですいまお時間よろしいでしょうか〜と始まった。お疲れ様だ。彼の望み通りの計画上に、3/16 13時30過ぎにCOREDO室町前の屋外ベンチで仕事作業をすることが、たしかに乗っていてほしい。
COREDO室町だ。COREDO室町といえば、うちならさつま揚げかと中に入り入り口案内を見るが見当たらず。彼女が好きなとうもろこし揚げ。商品の中でもそこまで値が張ってなかった記憶なので買って行こうと決める。ここで父からLINE。
「会社の人に聞いた所、二子玉の高島屋の中のお店が、買取り金額が一番高かったそうですが、遠いので調べてみて下さい。」原文まま。
ほう直前、しかしこれが社会か。社会人はこなすに違いないインシデントか。と、既読に返信は後にし、検索する。その店はどうやら「高価買取専門店MARUKA」で、HPで確認できる限りの買取相場が、今から行く徳力のおよそ+300円のK24 1gあたり7900円とあり目を見張る。メッセージを確認したのが45分ほどだったので、検索を急がねばない。買取対象に貴金属は入るか、表示相場は今日更新されフェイクではないか、買取価格の算出は重さ×HP記載の単位相場の単純なもので、手数料は取らないか、店舗買取可能か、そもそも店舗はどこか、遠ければ運賃はいくらか、営業時間に間に合うか、あたりを確認せねばならないが、時間がない。HP記載の情報で事足りる、確認不要そうな確定情報を列挙すると、東京には二子玉川という所と銀座に本店があるのがわかり、ここからだと銀座が徒歩25分程と圏内にあった。また営業時間は2店舗共20時までで、ブランド品や宝石類にならんで貴金属の取り扱いもしているようだった。ここまでは不足ない。しかし時間が10分前と迫る。電話を入れなければと、忍びなくドタキャンを入れる。時価の商品なのでこの手のキャンセルは慣れたものだろうと自己都合で納得し、問い合わせ番号にかける。ここでまたもインシデント。屋外の雑音に比して、電話口の音がMaxまで上げても全然聞こえない。やばい、先方が出たが聞こえない。何をやっても上がらないからどうしようもなく、すみません只今屋外におりましてちょっと聞こえづらいのですが……。応答も全く聞こえない。大変申し訳ございません、ちょっとお待ちいただいてもよろしいでしょうか、すみません。とりあえず1人の空間を探し求め、目についた2重入り口の自動ドアに挟まれた空間。そこでスピーカーに変え、大変お待たせしております、もう一度伺ってもよろしいでしょうか。と会話を始め、なんとか予約をキャンセルする。もちろん構いませんよと揚々とした口調で慣れたようではあったが、クソ客認定されたろう、無理もない。とにかく次は突如降ってきた新規売却先の詳細を詰める。同じ場所に留まり、HPをもう一度吟味し情報を確認、電話で算定方法を聞く。結果は望み通り重量×当日記載の単位価格で計算されるようだったが、一点、100の位未満は切り捨てる、それが手数料代わりだと付け加えられた。なるほどしかしそれでも余りあるジャンプアップなので了承する。予約は特に必要なく、当日店舗に行っても構わない、と。電話を切り、次なる目的地を検索、銀座本店はここからおよそ徒歩30分弱。楽だよかった。COREDO室町ビル内に戻り、エレベーター前の店舗案内前の端っこの空間で父に返答。

p.s.入り口で確認できた表示で、ビル上階には有名企業(名前忘れる)が数社入っているらしく、またしても興味本位で16Fあたり行ってみようかななどと考える。どんな雰囲気なのか知りたい気はある。が結局やめた。

→室町2と表記があったので1と3があるのを理解して、検索する。どうやら閉店しているようだった。残念。餃子が美味しそうだから店前まで行き、持ち帰り用の冷凍餃子18個1200円くらいだったか、悩んだがやめた。何しに行ってんだって思われる可能性を消した。

→Mapで検索し、徒歩で向かう。日本橋あたりだったろう、三越やら日銀分館やらが、いつ見ても権威を主張するごとくそそり立っていた。外観は教科書で見る洋風建築物の意匠で飾り占められ、本当に偉そうにブランド力を醸しているようにばかり見えてしまう。多分今ここを行き交う人はもはや見慣れた光景で、それは埋没しているのだろう。その点では建物の大きさや外観がどうであろうと、別に気の弱い個人がどう思うかなど瑣末なことに過ぎない。




 鰻屋の前に路駐していたとき、知らない人が私らの座っていた後部座席の窓をノックした。知らない人にはついて行かないことを教えられて久しい私は弟に「開けないで!」と強く言った。怖かった。
 インシデントが起こると怖い。未だに記憶に残っていて急に開いた。結局、ノックしたのは両親の知り合いだかお店の店主だかで、変な人ではなかったのだが。



急な脳内再生
3/16駅までの自転車にて
絢香 君にしかない〜その翼広げて〜

3/17寝起き
ルキンフォー
so you dohave to worry worry守おてあげたい〜

3/18
ハルジオンBUMPOFCHICKEN



わたしがやらなければ私は何も始めない




 文系は人の性のためにある?理系は経済合理性に寄り添いやすい。プーチンウクライナに侵攻するわけないじゃん、経済合理性が何もないから!→侵攻した。なぜか?多分したかったからだ。
 理由なくやりたい!を説明する人や、励ます人や、実際にやる人などの役割を担えるのが文系の強み。




 午後から銀座を歩いて、刺激的だった。とても長く感じた。まだ0:24だもん。生産性という観点からは全く貢献しない怠惰なタイムスケジュールを今日とて貪ったが、歯磨き中に一日を振り返り、躁状態=根拠のない前向きを自覚する。人が生きていた。楽しそうに歩いていた。私もマスクを着けて歩いた。あまりジロジロ見られる機会はなかった。話す相手は、概ね態度が優しかった。貴重な顧客という立場だったからという理由も大いにあろうが、それでも不憫に、あるいは蔑んで扱われるよりは快活に歩けた。郵便局の貯金窓口係の女性はとても印象が良かった。色々な不祥事や国営の名残りを拭えない、現場からしたら仕方のない停滞を社会的に叩かれたせいか、接客が体力と精神的健康がMAXの状態で実現する丁寧だったような。優しかった。
 私の至らない社交能力(会話の語彙、いでたち、服装など)を接客仕事に殉じて目を瞑ってくれた結果に感謝する。経緯に関係なく、あのとき私に丁寧に接してくれたことが感謝の理由の全て。私にとってだけはその死、仕事と割り切ったであろう丁寧な応対に救われる。

 生きていた。またとない命に恵まれた今日の時間を生きていた。



さて、15年来の繰り越したツケが1階で待っている2022/03/16 22:31



2022/03/16東京玉川高島屋連絡通路を歩く
病院駐車場から入院病棟までの連絡通路を思い出す。
連絡通路、それは左右ガラス張りで、両脇は彩りが添えられるものだ。デパートは花が植えられていた。病院の方は、着物の布で鯉や筍やすみれなど、その道では老舗で著名な女性アーティストの作品が額に入って掛けられてもいたのを覚えている。
20:55帰宅



銀座本店で査定を受けた。
エレベーターのドアが開いて6階に着くと、暗かった。右手に進もうとしたとき男の主が現れた。「買取の方でしょうか」「はいそうです」「そうですか、ではこちらへ」
やはり薄暗く、ディフューザーの仕業か、'洗練の香り'が何気なさを装っていい感じを演出していた。行灯が活躍する温泉までの通路みたいな小道を直角に曲がる。
「こちらにはお初めてでしょうか?」
「はいそうですね」
お初めてという言葉遣いが気になった。パーカーにジーパン姿で分かったろうに。マーケティングか。
査定中は
「これはどなたの品なんでしょうか」
「父から譲り受けたものになります」
「大きいですねこれ。なんて書いてあるんでしょう。
「いや、分からないですね、すみません。」
「ああそうなんですね。」
私の間の抜けた返事に戸惑うような声色だった。思い返せばここでも下を見られたか。

「こちらはお父様の苗字でしょうか?」
「いや、違うと思います。」
「そうなんですか。」

査定が終わり、どうされますかに、もうちょっと検討させていただいてもよろしいですか、すみません
と返した。
「そうですか、わかりました。」
「はい、すみませんありがとうございました。」
え、売らないの?
入り口前を5回も6回も往復する意気地のなさの延長にある突発的な反応であることを悟る。

帰り道はエレベーター前まで同伴される。
「印鑑で使われているかもしれないので、ご確認してみてもいいと思いますよ。」
「そうですか、わかりました一度確認してみます。」
お見送りの一礼をされたので、一礼し返しながらああそうだと急いで閉じるボタンを押し、ドアが閉まりながらもう一回頭を下げて、この手の挨拶の形式を無様にもこしらえた。恥ずかしさを感じる以前の真っ新な体験で、具体的な文句も言われなかったので、直後に不器用は自覚したものの街に出たらもう何とも思わなかった。

何処か騙されているとは違う、本当にいいのか逡巡して売りに出せず出てきてしまった。NYの通りを思い出す、現代における整然の粋を極めたショーケースを横目にPanasonicの摩天楼あたりまでを徘徊しながら、頼まれたときの発言を思い返す。「換金してほしいんだって。山口の家に取られちゃうといけないからって。」直前に入った電話では「あなたのでいいんだからね。すぐにやらんでもいいんだよ。学費の足しにしてよ、頑張ってるから。」といつもの調子で話していた。やはり駄目だろう、そもそも換金してほしいから渡した経緯が本音だと推定すれば、些細な恩返しと思って彼女のおつかいに行くのが正しい判断だろう。待合スペースで最後の確認をしようかと考えたが、いいんだよいいんだよの押し問答が始まっては不毛だからと止めた。これで本当に良かったのか、彼女の真意に報いることができたのかが、今は気がかりで吊り革に掴まっている。



 『夢幻彷徨』。一番仲が良くそのままでいられた母、対してなぜか最後まで他人の感を拭えなかった父、と書かれていた。再婚などの話も断片的にメモられていたから、そりゃ考えることもあっただろう。偉人ほど家族を無下にし破壊するものだ、遠くの人は救えても身近な人に目を向けない、事実最後まで身近の悲しみに気づいてくれなかった、などとも。
 しかしただ憎むだけではなくて、なぜこうなってしまったのか、あるいは弟が亡くなり母が亡くなった時に感じた彼の精神的苦痛には思いを馳せていた。もっと私が素直に話していれば、こうはならなかったのではないかとも書かれていた記憶がある。これが原因だったか、作品を見た感想からだったからか、とにかく、死にゆく人より残される者の方が辛いことを悟ってもいた。
 他に印象的だったのは、眼についての表現、これは絵の文にみられた。空に目がある。月の隣に謎の惑星が。その並びが目、とか書いていた覚えが。絵は、例えば爬虫類のようなごつごつした粒々様の皮膚から隻眼。鏡に映る目。夢のびじゅあらいずだったのかな。
 あるいは泥蛙?だったかが縦に3匹並んでなにかをたずねると一番下から何かを答えたり、分からなかったり、答える以前に眠くなった挙動をとっていたりして、泥の中に消えていった。泥の権化と化した姿形が、先ほどの愛らしさから真逆の醜い粘着質でできた物体に変容したと断言されていた。当人には不謹慎かつ不躾に思われるかもしれないが、素直に内容や描写が新しく面白かった。だから印象に残った。これも夢日記か?
 あとデスマスク。死に顔をこう呼ぶことを知る。自らのデスマスクを描くのはレンブラントだったかな、彼女が経験した画家のスタンスに傾倒した表れだったとの評だった。このあたりの解説文はまだ読んではいた。しかしこのくらいから、私的に的外れな評をしていた文章が一度目についたこともあり、別に読んでもなぁと、それよりも題名と絵を見て何を感じるかを優先したくなった。
 それと死に際した、確かおそらく母の断末魔の記述。私の経験とも重なるところがあった。大号泣し、落ち着き、ふと握った手はまだ温かかった、あの頃抱いてくれた、握ってくれた温かい手のままだった、との記述に同感する。
 総じて、死にみられるような闇や辛苦のイメージが強く心に残る。しかし人間は辛い記憶ばかり留めがちというバイアスを持つとも聞いたことがある。最終的に彼女は30年と少しで生涯を終えたが、彼女の母が亡くなったのは15歳あたりで、それから作風が一変したと近親者の学者たる評者が語るから、ごくごく単純に計算すれば半分幸せ半分悲しみ苦しみと二分化できる。それでいえば半々である。ただもちろん、それ以前から自身も病気がちであったり早くに弟を亡くしていたりと、比較的明らかに若くして悲哀と辛苦に囲まれた生だったとも言える。
幸せとは何か、それはたくさんある方がよいのか、どう感じるのか、また求めるべきか。あるいは彼女がどう生きるのが正しかったのか。そういうことは多分誰にも断言できないので、彼女にとって彼女であったことの是非など問えないし、無い。これは生命倫理並みの強度をもったサンクチュアリだろう。ただ、第三者的視点にまとめられた彼女の画文集は、市場を通して世に広まり、それを手に取った私は、彼女の人生はおおむね悲しみに満ちているな、辛かったなと思う。これもどこかで聞いた、悲しいことばかりの人生と。彼女の文章にも、幸福は頂点を知らずまた限りがあるのかもと言っていた。断言できないから、人生における幸せは数多くありえるのと同じ確率で限りがあるのかもしれない。あるいは逆に苦しみは果てしない説と同じ確率で



1978〜2009と
1994〜2025が
同じ長さ



コーヒーの香りは好き。
働いてもねえ奴が悠長にコーヒーなんか飲んでんじゃねーよ、でもコーヒーの香りは好き。この二重基準は、内容をそのまま対同居人と自分の関係にも適用できる。偉そうに食ってんじゃねーよと言いながら、自分もジャーから好きに米をよそう。



「読めた」と「読むことができた」は意味上同じだとみなしているんだけど、カジュアルとフォーマルの違いが明らかな、言葉遣いの差がある。



2022/03/15記す。金買取業務も担うテナントジュエリー販売店の主人である女性は、何だかふてぶてしかった。
下シャカシャカジャージ・右小指側面が穴の空いたランニングシューズ・Vネックの長袖シャツ一枚にださいキャップという格好で舐められたのか、疲労が溜まっていたのか、それとも体調がすぐれなかったのかわからないが、攻撃的な目つきをしていたので、帰り道、短絡的に資本主義を貶した。しかし話に応答してくれてはいたので決して接客態度が悪い!!とまでは言えない。「お客は神様」からのバックラッシュを受ける時代感も何となく知っていたので、あーあ社会だなぁって気分にした。



運命の出会いを期待する幼気な気持ちと、もう二度と来ないかもしれないからという理由で入った図書館分室を兼ねた公民館にて、2011年出版された須藤康花氏の作品集『夢幻彷徨』を、館内で接触したものの中で最も集中して読めた。彼女のキャリアの肝心の絵に関しては、見識と経験がなくて、高尚に美術館に足を伸ばした素人が展覧の後半に陥りがちな、「ほーう」という感じまでしか思い至れなかったが、文章については純粋な筆致で、確かに最近までそこにいたことを思わせた。表示が確かなら2009年の死に近い日に綴られたであろう文章(詩)は、筆致から想起する純粋さに親近感を持った私からしたら、将来の感情を先に体験したまさに軌跡のようで、2022/03/15の我が身を振り返る道具になった。

人に何も為せなかった/ごめんなさい
春のやわらかな風
強風の記録とその日の心情
風の向こうの向こうへの想像
現実の痛みと解放されたい願いの記録

外の景色に経験した記憶を重ねつつ思いをはせるさまが短い散文詩で残されていた。来る日の私の気持ちも、これに近いものになるのではないだろうか。

夢幻彷徨』は故須藤康花氏のアルバムで、不条理がテーマだった。数えていないが、言葉としても頻出していたように思う。



 公民館は、開け放された空間から聞こえる小学生の英語学習サークルが目立っていた。おそらく他にも色々な市民アクティビティが開かれていたはず。子供を待つ母親と思しき保護者群が取り留めのない話をしていた声も耳に入った。相手方に気を使い同情する言葉の発声が耳に残っている。書いていて、'とりあえず'が暗黙の了解な、構築された人間関係のあるある(というか必要条件?)を久々に思い出す。
 図書館ゾーンでは、気になったタイトルの小説2、3冊を出版年を確認して終わりの数行をパラパラ読んだ。柚木麻子のMargaret、いや今調べたら違った、『BUTTER』は、装丁の色が鮮やかな黄色で目を奪った。マーマレードジャムを想起した。あとは大したことなくて忘れた。
 学童向けの棚の「〜は名探偵シリーズ」が懐かしくて、1話だけどういうふうに作られていたのかにも気を配って読んだ。問題編と解答編に二分されていて絵が多いミステリー。よく考える前に解答編をみて外した。クソ大人。
 『かいけつゾロリ』は生理的にあまり好みではなかった記憶が蘇った。多分キャラとデザイン両方のビジュアル面と、物語の面白がり所が受け付けられなかった。今もその感覚は残っているから気持ちがわかる。絵を見て思い出した。
 「まだ知らない本」とたしか銘打たれていた棚には絵本が並んでいて、そこからヒキガエルがゆくだったかな、韓国の高名な作家のそれを読んだ。セウォル号事件を機に、自分の物語ではなく、私たちの物語を作りたいとの動機から作られたそうな(巻末に書いてあった)、2019年(朧げ)初版の絵本。題名「〜がゆく」は、日村がゆく・龍馬がゆくで馴染みがあるテンプレートで、マーケティングのベルトコンベアに乗せられて手にとってしまった可能性がある。あと同じく絵本で落花生、◯◯(忘れた)、ピーナッツって本。すずなりにできた落花生は、ぐぐんと引っこ抜いて逆さまにして乾かすことを知る。すずなりって表現がなんか懐かし良い。鈴カステラ。はかわいいけどあんまり味が好きじゃない。
 小説家名別に並ぶ棚の始めに、朝井リョウの本が結構連続していた。あ行なら先に並ぶから良いと名付けた思惑通りのありようだった。少し悔しい。こんな辺鄙で薄暗い公共図書館の片隅にも行き届く器用さとその人気。なぜ?不条理。ないものねだりの嫉妬に近い、幼い気持ち。悔しがるのは、どこか若く幼い側面が強い感情だと思う。何者、何様あたりの端的な題名が目立っていた。

 「暗いでしょ」と午後6時過ぎ本を読む私に電気をつけてくれた職員のおじいさん。他人のそれだけの挙動で優しいと感じまた行きたくなる。社交に乏しいのか、長らく放置されたぶん鋭敏な感受性の現れと説明できるのか。あるいはこの出来事は表裏をなすのか。



私は金にまつわる、私にとって難易度の低い外からの要請には進んで取り組んでいる。金が好きなのかも。



お菓子の常用摂取と精神的不健康(非社会性、縛られた心、他人からの心配、アイデンティティ拡散、矛盾を徘徊する継続的な日々などに関する)の関係は科学的検証がなされてもいいのかも。
東鳩カルビーやロッテや森永にはすまないが、ここからもし立ち直る日(上記事象が明確に日常から鳴りを潜める日)が継続して果たされるとしたら、彼らに背信するのは必定。



歳をとるとミスを老齢のせいにされる傾向が強い。そうでない可能性を認知で排除するかのよう。



引きこもりでも、希望を持って生をまっとうしたい気持ちを持っています。が、

引きこもって楽になる人の存在は社会的に認められるべきだが、一方で皆が一斉に楽して引きこもりになると、既存の産業構造が変化に追いつけず、少なくとも一時的には楽したい引きこもりを社会包摂の対象から遠ざけてしまう、だから新自由主義的な金銭的インセンティブは完全に否定できない……という机上のジレンマ。
これを論っていますが、実際皆が一斉に引きこもりたいことはないだろうと推測します。なせまならそれは世の中に外向的な人と内向的な人がいるのと、また金を稼ぎたい人と金稼ぎよりかは好きなことをやりたい人がいるからです。

引きこもる自由と引きこもりの状態を、社会的に承認する。意図せぬ引きこもり状態の人を社会で保護し、引きこもる自由を謳歌する人はそのままで。

いやジレンマなのか?引きこもる自由を保障すれば皆引きこもりになりたいのか?いや違う、引きこもりになる人、なってしまった人は別だ。なってしまった人は保護しよう。でもなる人は自由に稼いでもらおう。これでいいのではないか。
引きこもりが皆一様に悪と決めつける社会的認識が悪なのだ。現代社会において社会的認識の重要性は、SNSの登場によって明らかだ。



【テンプレ】
以下は、在住都道府県教育委員会の教職担当者に履修計画の相談を依頼するさいに送るメールの文例です。ご自由にお使いください。

教職課程を履修するさい、勘違いや認識不足によって、計画した年数で目的の免許の交付を受けられないミスが起こりえます。
それを防ぐ方法の一つに、教員免許状の交付を受ける在住都道府県の教育委員会に連絡して、履修計画のすり合わせを行うというものがあります。学校の教職カリキュラムと履修計画を、各教育委員会が定める交付条件と照らし合わせて計画上のミスを防ぎます。

ーーーーー
◯◯◯都道府県教育委員会 教職員課免許係/班 ご担当者様

はじめまして。私は教員免許状の取得に向け、来年度より大学にて教職課程プログラムを受講する予定の◯◯◯都道府県在住の者です。将来的に貴会から免許状の取得を計画しております。

この度は、計画的な履修によって確実に免許状を取得するために万全を期して、事前に必要単位や履修に関するご相談をしたくご連絡いたしました。

つきましては、現下コロナ禍にもありますゆえ、参照に必要な書類等は事前に電子データ化するなどしてお送りした上で、可能であれば、メールあるいは電話等のやりとりによってご相談の機会を得られればと考えております。

お忙しいところ誠に恐れ入りますが、ご検討いただけると幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。


所属
名前:
e-mail:
電話:
ーーー



3時間かけてTwitterにコメントする



夢:言っているそばから彼が車にはねられる。男性運転手を詰める。マスクをちゃんと着けない、余計なところで笑顔になる、就寝ヘラヘラしている。「右腕が動かなくなったらどうすんだ?」「事故に気をつけるように啓発活動の役を務める」なんでそんな見通せるのにヘラヘラしてんの?



負けてもいいが許されるスポーツのあり方とは。
「死んでも勝つ!」が美しい世界、それはそれで良いのか?しかし「死んでも勝つ!」に同情できる人にしか開かれないのでは?それだから国主導で運営費を拠出するスポーツ祭典であるオリンピックが否定されるのでは?

 知識がなくて、あるいは競技に精一杯に生きてきて、世界における自分の従事するスポーツの存在意義を、それぞれに理解し主張する人が、快活な人でもあまりしないような気がする。
「少しでも元気を与えられたら」「基金を設立して役立てていただきます」「所詮は興行、エンターテイナーで広告塔に過ぎない」
 彼らの社会的意義が、社会が進展するスピードに遅れをとっている。五輪の存在意義が問われるのに、当事者たるアスリートが明確に答えを言えないのは、自らの人生の短くない時間を費やしたスポーツという営みの取るに足らなさを事実上、認めていることになる。多分本人達も言語化できない、またまだ科学的手順で証明されてもいない人類にとっての価値が、スポーツにはあるような気がする。
スポーツを通じたアスリートの境遇その物語が、人生の縮図を思わせることもある。成果主義的なゲームに翻弄されるさまは、まさに不条理な人生の過ごし方を知れる。手を叩いて、時に涙を流して応援する人がいるのは、きっと自分の何かと重ねることができたからでもあるのだろう。
しかしこの手の切り口は既に明らかだ。もっと鮮烈で印象の強い魅力がまだ隠されている。それを関係者が明らかにする努めは、今や人間社会から求められている。



案:端的な魅力語(幼稚ともとれる魅力の言語化)の利用。何回か回って新鮮に聞こえる。
ex.野球解説者が「かっこいいですね〜」から始める打席解説


案:実物商品の説明はQRコードなり電子化して、側は広告なりアートなりのプラットフォームに。
ex.新品歯ブラシの外装の裏にあるブラシの効能とかもはや見ない。あの容器はお店で引っ掛けるためにあるようなもの。



案:都道府県の特産としてのサービス
静岡限定で出張買取しています!みたいな、特産品は現物だけにとどまらなくてもいい?



案:音源の自動ASMR化ソフト



案:保険料としての日常の記録
食事写真、
心理日記
など
NFTで交換価値
レアであるほど価値上がる
運動記録で国から得る恩恵にメリット



案:非政治的な舞台で、キャッキャできる高齢者の活躍の場の構築。たとえば文化の主導的立場とか。高齢のミュージシャンは諸手で大尊敬される。YMOメンバーしかり、ポールしかり。
シルバー民主主義の解決策の一つ。政治経済のプレーヤーに厳格な年齢制限を設けて引導を渡すのは、人によっては「皇国日本のために美しく死んでくれ」と同義に聞こえるかもしれない。その人へのせめてもの償い。出征前最後のお祝いに似た残酷さはある。



案:
会ったこともない人、一方的に知る人との文通仲介サービス。交換ノートの需要。



案:非政治的舞台・究極の余暇としてのスポーツの無力さ(オリンピック中に戦争する。そんなどころではない」に対してなんとも言い返せないし言い返さない。)はこのままでいいのか?プレーヤーは競技者だから何も知らないていいの?バカ扱いされていいの?競技者は競技だけにアイデンティティがあるのが正しいなんて危ういよ。→飛躍。新たなスポーツ像の創出




案:学術的研究の進捗アーカイブ作り用のプラットフォーム提供
日記形式(オンラインor紙)
フォーマット形式(5W1H?日付時間場所、題目、進捗、目的達成度数値、所感雑感(なぜ今日これをしたのか、なぜこうなったのか。課題や妨害因子、悩みなど。))
いつ、だれが、どこで、何について、なぜ、どのように
ボイスログ形式
録画形式



案:会社やNPO他法人組織や事業の歴史を綴るためのアーカイブ、あるいは子ども用
失敗と成功の仔細な描写は歴史に残り、もしかしたら存命中に金銭的価値に変わるかもよ。根詰めるほど、枝葉末節に独自化し血がめぐり、大きな歴史の山の一片を担いうる。



存命する個人の、統一的な歴史は、どういう肩書きと性格の人が、いつどの段階で行うなら許可下りる?
案:みんなで自伝を書こうor自叙伝書いてあげる=NHKキラーコンテンツファミリーヒストリー」の需要は既にTBSラジオ「東京ポッド許可局」のマキタスポーツ氏が言及済。
そして自作自叙伝を売ろう!



数の不利に立つ日本の若者世代が日本で生き残るには、数で優位な4〜50代を説得するか騙す他ない?
経済の観点から見れば、人口ピラミッドの分厚い層にリーチする方が確実に利益を見込めるし、少ないリソースで大きな利益がこの社会の合理とされているから、分厚い層を薄い層より蔑ろにする理由がない。
日本は模倣文化なので、欧米で数の劣位に置かれる価値のフックアップ方法が成立するまでは、シルバー民主主義による人口の少ない層への無言の圧政は続くだろう。

ただしこれは4〜50代と10〜20代の価値観が共有できない前提。
もし未知なる両者で共有できる価値が見当たるなら、それは今からでも存続しうる。

医療介護に対する費用は、絶対に相容れない。世代間で医療介護費の必要性は断絶する。
ただし、文化とか芸術は共有の可能性はある。
現状の経済の仕組みをそのままにした上で、共有しないと成立しないという条件が、数の劣位に立つ価値がおかれた不遇。

数の劣位が生き残るには、
◯数の優位が優先される経済の仕組みを変更し、自立分散型エネルギー源の例にみられる、規模の経済に優先されるような、新たな経済の成立のさせ方を作る。
→現状変更・創造案
◯数で優位な方に阿る。共有部分を探すなり、説得するなり騙すなり。
→懐柔案
◯数の劣位が、数で勝てるような場所に逃げる。世界規模で見て、劣位が優位になるように移動して、数で優位に立つ。
→日本脱出or独立国家案



共有できることが価値?
地球
インターネットするデジタルデバイス
は、みんなが持つから価値になる。それは規模の経済と変わらなくない?みんなが持たないと価値が生まれない、つまり多くがコミットメントを持つのが、より価値があるとみなされる。
→つまり価値と金は別ということか。俺は自室から聞こえる鳥の鳴き声が好きで、去年彼女と見た桜の思い出に価値がある。それは共有してもそれ自体価値にならないだろう、しかし確かに私には価値があると言える。金にならなくても価値って言っていい価値。
いや本当はそんな固有な価値でさえ金を産めてしまうのか。例えば思い出を記録する写真や動画を撮る技術とそれを保存する技術は金になる。金になっていない、皆が持っている・知っている価値、隠れたまだ見ぬ価値がビジネスの対象ということか。ただしここで注意したい。価値の定義が一歩飛躍している。隠れた未知なる価値は、私の去年の桜の記憶を抽象化したデータであり、去年の桜の記憶ではない。金になる価値は抽象化されデータの一つになった価値と呼べ、その抽象化された価値のソースであるところの個人の記憶は、原初の価値であると言える。
でも金は産まなくても、思い出には価値がある(=原初的価値とでも言おう)。



何が問題?競争をやめる自由が許されない。共有する地球、大地から逃れられないように。
競争



株式会社を株主のものからステークホルダー全体のものと扱う認識に変える——というが、株主が自己の利益しか求めないの前提なんだな。そもそもかつてから株式会社が環境に配慮しようとするのは推奨されて、問題は環境配慮と利益追求が相反する点にある。
人間の自由な欲望、つまり独占して周囲を顧みずただここにいる私が良ければ全て良い考えを認めるのが資本主義だったか。





案:なんとなくやる、なんとなく続けてる、を警告し、ヤク抜きを助けるサービス
ex.スマホゲームテレビ他、無料サービス




案:ナショナルジオグラフィックのような自然や動物を写す高解像な写真の被写体を人間に。許可を得てモザイクなし、あるいは行き交う人々を現象として見、個人が特定されない写真。



国家版不動産屋
世界EU化=個人の自由の優先
雰囲気、文化、罰則、魅力、物価、仕事、自然、自治体・病院・学校の支援を項目に



話すことができない、肉眼で確かめられない、距離が離れた間柄であるほど、見た目や声が重要。遠隔で伝えられる情報から印象を決めるしかないから。


金を払うと、人は競争から(一時的に)解放される。ex.学校



案:毎日国会中継の切り取り
サムネはあえてバズる動画に見習って、エンタメを装う。
→毎日同じテーマが並ぶから、国会クソじゃんと燃える。市民意識が多少高まる?でも多分知るほどこのままでは(日本に)居られなくなる。辛さが増すから目を瞑る反応が見られるかも。天変地異に期待して寝て待つのも平和主義の一。我慢大事、親とじいちゃんばあちゃんは敬う、非核三原則。仲間大事、日々成長、自己責任、自由であることが一番、人より多く金稼ぐのが何より正しい。



戦争し始めて、資源のコストが以前より無駄にかかり始めたら、全世界で一旦ビジネス中止して、家に篭ろう期間にすればよくね?
世界市民がエネルギー消費の削減に努めて、結果に応じて金銭的メリットをあげる(金がもらえる、税控除、減税、その他ほしい物リスト叶えてあげる)。



(一部敬称略)



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