ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

なんて愚かなんだろうと

 未だ売れていない世界線星野源、もしくは芸術稼業を廃業した後の彼が、果たしてディスタンクシオンを読んだかという疑問。もし故津野米咲氏が生前にもっと売れていたとしたら、をたまに思う。人の、所持金と社会性の関係性について。
 わたしは読んでいないのではないか、辞めた後でも自己肯定感が高ければ読んだかもしれない、などと想像する。
 所持金の多寡が自己肯定感に正比例する心理現象は、所持金が無いと自己肯定感が低くなる側面のみが問題だ。自己肯定感が高いのは、基本的に両手を上げて良いことだから。ということは所持金が少ない人用の、所持金の多寡によらない価値観の用意が貴重となる。ぱっと思い浮かぶのは芸術。お笑いは最たるもの。音楽もそうかも。金を使うほどいい音楽ができる、とはあまり聞いたことがない。それは音楽界隈の人々の嗜好が、金を使った、いわば成熟した音楽を必ずしもゾッコンしないからという風土のようなものも理由かもしれない。



立ちくらみ対策で、目を瞑って足は肩幅に、顎を少し上げてその場に立ち尽くす。えもいわれぬ、抗えない、ぼーっとする感覚。体の輪郭だけ残して空間に溶ける心地。まぶたの裏に明るい輪っかがぼんやり揺れながら広がる。火葬中を思う。



夢:ちぎられ博士なるワード




 2022/05/04記す。一日中部屋を出なかった。口にしたのは水分のみ。同居人にはいらぬ心配をかけて申し訳ない。花澤健吾作漫画『アイアムアヒーロー』を読み終える。ラストが唐突で、最終巻はすぐ振り返っちゃった。
 序盤にあった、黒バックで地球が見えるシーンの挿入はなんだったんだろう。心理描写ぽいけどな。自分とセカイ、セカイが自分みたいな?初期のBUMP OF CHICKENの歌詞世界みたいな?どっかで読んだ00年代の日本の文化圏で流行った思考みたいな?
 漫画を読み切るだけで疲れる。漫画読みとは娯楽のはずだが。
 言いたいことはなんだったんだろう。何者も死の上に生きていることとか、タイトル通り自分が英雄だと思い込んで生きて、然るべきときに死ぬだけということ、英雄とは言いながら個人とは外的要因にとても弱い生き物であること、などか。生きている理由は自分で思い当たる理由とは違うところにあることとかか、最終巻の主人公見てると。手を取り合わないと生きられないとか、これは教訓ぽい。



髪を切りたくても切りにいけない内心



CDジャケットがポップアート?絵画のように並べて愛でたい。



特に自分の性欲は卑しいものだとする考え



『ブサイク解放宣言』内、筆者と能町みね子氏のトークの書き起こしの中で、女子同士では容姿の言及はタブーとされるとの発言があった。私だと思った。



ラリった描写:ペットボトルとスマホを片方ずつ両手で持って、スマホを口に入れる



夢:彼女。洗面所から出ると、歯磨きしていた彼女がいた。
最近イヤホンで音が大きすぎなのか声が聞こえず反応できずにいると、耳元にひそひそ声で「レントゲン撮っ、、ごめんごめん」と途中で小声が出た。ありがとう、ごめん無理させて。レントゲン写真を確認しよう。
洗面所に来て、上裸で、乳首の辺りを鏡に寄って見ようとしている。



本好きで本を仕事にしていても、本としか言えないさまが面白い



細かいことを気にしている間が平和だ。乾き終わって畳んだタオルが、同じ形と向きで棚に並ぶよう進んで微調整する時間は、私にとっては、平和が実現した状態にある。精神的にも肉体的にも、その瞬間には平穏が満ちている。
平和は、細かいことを気にする時間にとって必要条件
細かいことを気にする時間は、平和にとって十分条件

△平和であるなら、細かいことを気にできる
◯細かいことを気にできるなら、平和である



夢:ベッドサイドの足側の壁紙が破れた。彼女に張り替えてもらったのに。




キュレーションサイトで目についた小宮山悟のニュース記事のインタビュー部分をざっと読む。言葉選びや語調の節々が投影する世界が、あの頃だった。「若い奴ら」「常々言っている」「今どきの子なので、そこにめくじらは立てないですよ」「〜しなさい、そういうことです」「〜させてあげること」みたいな言葉でできた発言は、界隈の素人がお言葉としてありがたがる絵の想像と合わせて、ちょうどあの日の世界——私と野球をレペゼンするのに絶好だと思った。一読後すぐはありがたがった心境だったのは残しておきたい。客観には程遠い。染み付いている。2022/04/28 2:04またしても夜更かしのベッドに横たわりながら記す。



外に出ないせいで、2022年、桜がめちゃくちゃ儚かった。辺りに花びらが散っている現実が受け入れがたく、咲く前かを疑ってしまった。



わたしのLife

わたしのLife

藤原さくらの『わたしのLife』という曲が耳につく。一曲良さそうな曲があればディスコグラフィー掘りたくなる。移ろいやすい、大衆のリスナーなんてそんなもん。



ため息が漏れる一階
だから運動のために散歩は早歩き
雨から逃げるモチベーションもブースター
お菓子依存のための名目
1時間ちょっとで汗をかく
散歩後の汗で、彼女を思い出す
午前に出て昼下がりに帰り、手洗いうがい、衣類をハンガーでサンルームに干したら、着替えて昼飯準備。私は何もないので、食べたいものを毎日聞いた。ケチャップ多めの喫茶店ナポリタンを作った。



菓子、漫画、お笑い、ラジオ、図書館貸し出し、YouTube、散歩、+家事(直近は主に買い物と洗濯畳み)で大概の現実逃避が成り立つ



修理に出したスマホに付けられていた簡易カバーが寝ている間にめくれて、それを戻したら画面の70%が気泡とほこりでいっぱいになった。このやさぐれ具合が現状を物語っている?2022/04/25記す。立ち上がって我にかえると、とても不幸な生き方を察して呆然とする。お笑い番組を見ても段々つまらなくなってきた。何しよ。



素敵って言葉に逃げてる奴、というよりは感性が語彙、もしくはその両方が乏しくて素敵という他ない人の可能性も考慮



2022/04/25 13:52記す。庭の物干し竿に手洗いした帽子を干す。窓を開けると24〜6℃の陽気。目の前の金木犀か、昨日の雨を蒸発させる日光にさらされた草や土の匂いか、春の温かな匂いがする。落ち着いた住宅街の平穏。



 2022/04/25記す。NPB球審が判定に不服な態度をとったPに詰め寄った事案について、ダルビッシュ有投手をはじめ、意外に審判擁護派が多かった。
 仮に審判も感情を出しても良い風潮が広がれば、判定の自動化の動機に一石を投じるかもしれない。
 一方で、選手やコーチをゲーム運営のために退場させる現場審判の特権は、一部を球団側に譲る必要が議論されるだろう。熱くなった審判を見張る人が必要だから。
 冷静冷笑、メタ視点、意外な切り口が優位なSNS



2022/04/25脳内再生
宮地嶽神社の帰り道下り坂の途中で



米代恭作漫画『往生際の意味を知れ!』。
13話最期の煩悶シーンに自分を重ねる。自分がわからなくなって、自らが冷え冷えするさま。
第二巻目次のSTORYの説明書きに違和感。私の読み(まだ一回しか読んでないから読み違えている可能性もあるが)と違うから。
「荒唐無稽なお願いをしてくる日和に、不信感といらだちを感じる市松だったが、〜再び色づいていく。」とあるが、「不信感といらだち」と「大好きだった、そして今も変わらず大好きな」が並置されているのがまず違って、圧倒的な生理的欲望=持続的な好きな気持ちが理性をシンプルに凌駕してしまう生理主導の男と、それを使って手玉に取る女のやりとりだった、
しかしラストのキスシーンで、え?そっち?と急に裏切られた。もっと完全な理性主義者の女がサスペンスやホラー要素を先導するのかと思いきや、そうじゃないの?えほんとにデレてるの?みたいな。直前の家族出演も、母への復讐っていうメタ要素皆無の、いかにもベタな物語チックな安い目的の裏に、真の企てがあるグルなんじゃないの?と。もし日和の精神的救済と市松との成就という恋愛に舵を切るならそれはそれでそういう作品なんだろうと楽しめそうだが(特に日和の回復過程を我が身を重ねられそうなモチベーションで)、最近のメタメタが正しい世の中、作品に浸りすぎているせいか、それを大して感激も感動もしないけどどこか憧れようとさせる正しさに従順にすごいな〜と膝をうつ準備をしている気持ちが肩透かしを食らったような感触をもっている。
居酒屋に尾行して乗り込んできた席で復讐目的を暴露するシーンも、とても幼くみえて、榊田の「そんなんよくある話じゃん」という待っていたメタツッコミも、さらーっと冷たくスカして流して回収されなかった。そのツッコミに対して、日和は頭悪く同じことを繰り返しただけだったように見えた。余りに論理が甘かったから、これはフラグなのか、はたまたストレートに人文テーマ(恋愛と精神的成長)の漫画による情緒だったのか、まだわからない。
主観的、甚だ私的な怒りだから共感できるのかもしれない。誰に助けてもらうでも、金を拠出してもらう申請でもない、公に解されない、説明不能の、歪んだまま絡まって固まった脈絡だったから、13話ラストの煩悶や「自分の人生に、相手を刻みたくない」「"特別な人"をつくりたくない」という発言に同意できてしまった。



昔聞いていた曲が、ただ懐かしさに浸るためのもので音楽的な魅力を確認できない場合、それどうしたらいい?当時の景色としての曲としか認識できないのがいささか悲しい。その曲自体に今魅力を感じないから、説明するにも私の思い出語りを上に重ねないと間に合わない。曲が良くないので説明したくもないモチベーションもあるから隠したがる。個人主義に相対した、他人に支配された生き方の息苦しさ。



音と一時記憶がとても親和する
昨日の散歩中聞いたラジオのトーク部分と丁度歩いている道の風景がありありと思い出せる



この顔じゃ、恋愛は無理だな……と4〜5日振りの風呂後の鏡を見て



Twitterにおいて、エロは、トレンドワードに匹敵する大衆性(目を引く力)を帯びながら、嗜好やフェティッシュは個別にあれど、皆一様にそれぞれの理想に向かって愚直にコミットする平和が比較的流れている、というのはあまりに楽観しすぎだろうか。
そうだ、その平和は犠牲の上に成り立っていた。晒しの暴力性だ。デジタルタトゥーの問題。




夢:中学野球。M進。外野。シートノック、シートバッティング。いてもいなくてもわからない下の下の立場。隠れたい性に丁度いい。打球がずっと速い。下手にグラウンドを移動していると上から横から砲撃されるのでよく周りを見て。
目立ちたくはないし上昇志向もないのに、なぜそこにいるのか、わかっていない。他に上手なものがいるのに、下手なものとして抗う努力をするのがどうにもできない。なのに一度決めてしまったから安住したい。




脳内再生が止まなくてこれは一発聞くしかないと思わせる曲でおなじみローラースケーティング



自分に責任を負う意識がないから、辛くなればしねば良いのでは?などと思いながら、窮地では平気で命乞いをする未来も別に避けようとしない。平気で嘯く口と頭。ベタに、どん詰まった。



先生が人格者だとは誰も言っていない



音を立てたくない。スマホから流す音源、鈴の音。




 2022/04/18記す。石黒正数作の漫画『ネムルバカ+番外篇サブマリン・番外篇2』、『響子と父さん』を読む。
 話したり書いたりして使える言葉も結局はどこかから仕入れる他ないのと同じように、漫画について、もはや現代では誰かのキュレーションからしか知ることしかできないとして、問題は、回ってきたそれを巷の反応と別個に自分勝手に面白いと思っていられるかどうかなのかな。
 大童澄瞳氏の言で絵がとても上手と聞いてから天国大魔境を途中まで読んで。確かにかわいい。言葉選びや設定と相まってルカと入巣柚実は、私的に上がるほどに魅力的。頬の余白と口の曲がり方が作風というか特徴的?リアルとフェイクの間の絶妙なラインを実現する造形なんだと思う。上手すぎても=写実志向でもリアルとの違いが目につくし疲れる。下手すぎても見ていられない。




広告フレーズ案:
正解があるものを教えてください



冒険が苦手だった。根拠はテレビゲームの記憶。ゼルダの伝説では、最初の街から世界に繰り出すとき、そわそわして、ボスを倒した後に戻った故郷にずっと居続けたい気持ちが沸いた。しかし主人公は次なる戦いに繰り出さなければならない。
ファイナルファンタジーⅩでは、詳細は忘れてしまったが、物語道中の横道にミニゲームがあって、それが体力にもメインストーリーとも関わらないのをいいことに、長々それに固執できた。
Twitterを見ていたらsaebou氏のリツイートでタイムライン上に和菓子で作った赤ピクミンの画像と小文が流れてきた。それ自体はとても朗らかに見ていられたのだが、最後の一文「この後はうちのチャッピー(子供)に食べてもらいました」(原文ママ)に思い出した。ピクミン食われたくなかったなぁと。夜までのカウントダウンが怖くて、今これを書きながら鳥肌が立っているが、呼び戻されずに地上に見捨てられたピクミンが敵に蹂躙される演出をとても避けたくて、避けたいあまりそのままゲームから遠ざかってしまった。
思い返せば、ゲームを辞めてしまうというこの手の根本的な離脱は、意図せず、他の冒険ゲーム体験にも当てはまっている。自分の手でゲームを最後までクリアした経験がほとんどないからだ。ポケモンロックマンエグゼシリーズくらいしか記憶にない。
2022年現在においてメディアでゲームが語られる時、少なくとも私が今まで見聞きした文脈は、必ず、いかにそのゲームを濃密に楽しむかに重点が置かれている。
発売前に販促を担ってゲームの概要を語るのか、あるいはプレイ中に私的に湧いたフェティッシュを論うのかなど、それぞれに語る目的は違えど、冒険ゲームのプレイヤーたるゲームライターやキュレーターは、当然だが、一様に冒険譚に則り冒険するのが前提だ。必ず現れる敵に立ち向かい、課されるタスクをこなし続け、健闘虚しく討ち死ぬことも笑い飛ばした。笑い飛ばしはしなくとも、コンティニューできるゲームオーバーを厭わないメタ認知が暗に備わっていた。それがゲームを知る立場から企てる語りには欠かせない条件に違いなかった。

それが原因か定かではないが、私はゲームを語れない。
推し量るにこういった周りのノリと、自らの性格の不一致から導かれるのは周りを優先する適応で、自らの性格が現れる本心には蓋をして機を待っていた。

しかし記憶は曖昧だ。いくらでも塗り変わるし、刷り込みによる事実の歪曲可能性も証明されていると聞く。好きなように生きればいいということか。



小1の生活の授業で「学校中の人と話してみよう」という企画。大きいスケッチブックに配られたプリントを貼って、話した人を一人ずつコンプリートする。キャラのように似顔絵が4×5くらいで描かれていた。刺激的だったから覚えているんだろう。



(一部敬称略)



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