ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

今週思ったこと


2019/01/24の朝『いい日旅立ち』を聴きたくなる
音楽畑には間違いなく向かないだろうと思う



言葉が商用に流用(=流れもちいられる)される。例えば玉椿と名付けられた音楽アルバム。やっかみか。



夢:春の選抜甲子園中継。第3か第4試合の3回裏、横浜高校が攻撃していたから、人気のある学校だからみんなが見やすい後ろの時間帯なんだな、と勝手に推測する。そうしてその後、なぜか試合に出ていた。三塁手で。
ワンシーンだけ覚えている。詳細は忘れたが、三塁手前まで来たランナーが(血相変えて)背を向けて二塁ベースへ帰っていった。彼はミスで飛び出しているらしかった。なので、セカンドの荻野に送球した(球を持っていた!)。余裕を持たせるために比較的強い送球で。目論見通り、タイミングは完全にアウトだ。しかし投げた球は彼の頭上にいき、ジャンプして伸ばした網の先で掴まれかけたものの、後逸、ライト前まで転がる。その間にランナーは戻り、ホームに生還。それが決勝点となり敗戦。
とんで、申し訳なかったことを食事前のミーティングで関係者(父母兄等)含めた100人程の前で伝える。話、特に状況描写が冗長になって空気がより悪くなる。さらに申し訳なくなる。食事後に100人で円陣を組むことになる。やけくそで心うちを叫ぶ。おわり



職人になりたい 信頼される



2019年なう、フロー・サーキュレーション・プールされるほど御の字な社会であるにもかかわらず、日常的に/簡単には触れるべきではないと消費主体たる個人が勝手に位置付ける商品(芸術作品)が存在する。今の私には、その一つに、エレファントカシマシの『悲しみの果て』 という楽曲がある。
これはなぜか、そして何なのか。
何故かに答えられそうな個人的感覚として、価値が逓減する(≒磨り減る)のが怖いからというのがある。つまり聴けば聴くほど段々と作品に含まれる効用を感じられなく(感じ取りづらく)なる経験が、今この作品をむやみに享受することでまた更新されるんじゃないかという恐怖心から、簡単に聴くことを拒む。ちょっとやそっとのことで再生したくなくさせる、いざという時のために。
同じ詩を同じメロディに乗せて歌っているのを聴く……、フレッシュさが無くなるのかもしれない。感覚的な経験であるほどその経験は唯一無二なものになる。だから新鮮さが大事なのだ。聴くたび涙がちょちょぎれる理由を口で説明できない、いや、説明できてはいけないのだ。

芸術について、感覚的でない経験、すなわち実証的な経験を求める作品とは何だろう。この世にいくつあるだろう。芸術は感覚だろうよ。非合理の結晶(イイスギカ)・マイナーの成果でなくて何だろう。仮にアラベスク模様のモスクが感覚的であるのに自覚的ではなかったにしても、それは決して実証的ではなかった筈だ。
上では、芸術とは非合理の結晶でありマイナーの成果であるといったが、それに付加される定義はこれだ。美しさを求めた、時代に有用なものであること、或いは有用なものに付随するもの。マイナーな人間、要は世界のルールのメインストリームに従事しない者が形作る、その時代における有用性がみとめられる美しいもの。これが芸術だ。



夢:二度寝からの夢。◯山のばあちゃんが、私のiPhoneの画面が割れているからカバーをつけ直したいと言う。それに対して私は、これはまだ使えるし割れているとはいえないからほっといてくれと言う。R指定氏が弟のベッドで寝ている。ばあちゃんと私が一段落した後、DJ松永氏がエピソードトークをばあちゃんに話している。



横光利一は日本を秩序の世界と言っていたそうだ。日本の秩序は自然であり、侵入者はもれなくこれと戦わなければならない、と。秩序と呼ぶ自然の下に個人があり、須く個人は無になるべし、と。伝聞のそのまた伝聞の域を出ないのはfrom Wikipediaだから。最低限の誠実をここに。
まさに私だ、私の目で見るNHKだ。この言い回しは最近好かないが、敢えて使おう、そう感じずにはいられなかった。人間草としての私は何をしていいか未だにわからず引きこもり、秩序を担うNHKに出る星野源は即ち秩序の役を仰せつかって(cf.「出させていただく」姿勢)、バナナマンは懲戒。
写真週刊誌は左翼か。いやただの破壊工作団ではないか!殺れ〜〜!!(ジャニーズ×秋元両軍の法螺貝)



その割に素直にNHKを楽しむ人生を送りたいおのれもいる。特に20代30代はNHKには批判的でないといけない、てかそんなん観てないで働けバーカみたいな風潮がある。




今更、LADY GAGAの『Bad Romance』がよい



ラジオ深夜便を聞いているとはっぴいえんど『花いちもんめ』が流れた
団地の一室でじき死ぬ人と気持ちが重なった



夢:話の後半しか覚えていない。広島へバスで向かう。広島市民球場の横を通る。全体に長閑な雰囲気でよい。あの、以前利用した広島駅周辺に改めて行き、物色したくなる。加えて公園にも行きたくなる。このへんの欲求は夢の中でもわしらしい。



「子供が欲しい」発言のどこがむず痒いのだろう
エゴく聞こえるからかな
でも種は繁栄するしかない仕組みだし、そもそもエゴくなければ繁栄なんてしやしないだろうに
一方で、種の繁栄なんて考えずに種は繁栄するし、ゆえに、同じように何も考えずに種を繁栄させようとしなくてもいいわけだし
ある生物が種を繁栄させない選択をするのも、大きくいえばただの自然淘汰の一要因だし
一応の結論、子どもが欲しいからって理由で生まれる子どもがいてもいいんだろうな、その子どもが大事に育てられれば
俺はいったい何を言っているんだ



芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚

芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚

ポー天邪鬼、めっちゃ分かりみぶかくて面白かった。ここでも書いてるあの感情がまんま詰まった短篇。すなわち、やらなかったらどうなるだろうで頭がいっぱいになる、天邪鬼と呼ぶにふさわしくそのほか無い心的衝動のありありとを凝縮している作品。短いのも相まって俺得的。小説は困難も在り納戸スネ。ポー。




JKビジネス(ex.JKさんぽ他)の何が良くないのか
クソガキのオレにはフィリピンパブやガールズバーもほぼ同じに聞こえてしまう
資本主義とはそういうものではないのか?極論これができないから貧富の差が広がる、つまり上→下へと金が渡るのには最早この道をゆくしかないのではないのか?Caught in a BAD ROMANCE (Of course, we know)。中国やバングラデシュジーパン工場と何が違うのか?道徳的にOUTなのだとすると、「目の前にいる、同人種の、うら若き少女」という同情が道徳を決めているのか?その道徳は、「よく目にしない(或いはここにはいない)、異人種で、成人した男」を決して守らないのか?目の前にいる/いない(という、言うなれば"肉体性")を条件の一部に含む道徳はむしろより悪質なのでは、という意見にはどう反論すればいいのか?肉体を守るには今やもう金が必要なのだとすれば、金を配るのが人権宣言なのか?



娘をこって読むようになったのっていつからだろう



タイトル案:『空色の沼』



いろんな要素が含まれた商品の方が、独創的なものを作りやすい。だって多くの要素のうちの一つさえ市場と繋がっていればその他は我が身を通せるはずだから。



夢:高校2年の部活。1年が報告があると言って2,3年を集める。何、全員辞めんのかなと思ったら5人程辞めるという。意外に少ないな、そんなもんかと思う。まああいつ辞めんだ、ふーんくらい。
とんで、体育館にて、老人の元教師かだれかを全身ホルマリン漬けにするというセレモニーが開かれる。棺の中にドボドボって。見る人見ない人がいたが、私は見た。骨と肉が何故か分離して、骨はすぐ液体に漬かってシュワンシュワンと表面がコーティングされて骨の髄まで力がみなぎるかのように色が変わっていくのが見えた。肉はそれに反してはっきり変化が目に見えるようではなかった。それだけ



物体とは排他した結果である 説
自分を成すには排他するしかない



視覚を使うエンタメ…映像、liveパフォーマンス(ex.ダンス、演奏)
聴覚を使うエンタメ…ラジオ、映像、音楽、
嗅覚を使うエンタメ…香水、
触覚を使うエンタメ…プチプチ、
五感を使う(使いがちな)エンタメ…旅行

→非人間向けエンタメ(非人間がエンタメをやってるそのさまを見、聞き、触り、嗅ぎ、思って、面白がることができる非人間向けエンタメ。そうじゃないと金生まない。だって金払うの人間だから。)
ex.ハムスターのカラカラ回るやつ
動物実験



俺は意図せずともわざと傷ついて先に事の見取り図(概要)やノーマルを把握したい傾向がある
例えば2019/01/25のガソリンスタンドにて。初めて軽自動車に給油する際、車を降りたらすぐ安全のために鍵を閉めて、それから車の給油口を開けようとした。が、中々開かず、梃子摺る時間に恥ずかしい思いをし、また左手の人差し指の側面部を軽く切った。結局、給油口は車の鍵が開いている状態でないと開かないことが判明し、「車が閉まっているのに給油口が開けられたら油が盗まれ放題ではないか」と、言わば当たり前の仕組みに気付くことで事態が終息する。
こんなように日々をやっている



「梃子摺る」が1772〜1781頃の流行語らしい



覆面有名人になりたがる人
見境なく札束で頬を張りたい欲
顔を明かさない社長が理想



深夜3時に王様のブランチを再生するというライフハック



うるさい価値、静かな価値、一見うるさいが静かにもなりえる価値、一見静かだがうるさくならんとする価値。上から、人間、創作物、人間、啓蒙書。
価値に数字をつけたのが価格。価格は
静かな価値に価格をつけるとどうなる?



Wikipediaの「今」の欄には、今取り掛かっている仕事なり何なりが書いてある



タイトル案:「こともなひ」という食べ物屋



ネガ⇒ポジ | ラジオ日本 | 2019/01/26/土 | 27:00-27:30
ネガ⇒ポジでの滝沢さんの、それまでのテンションから打って変わって落ち着いて且つ流暢に曲紹介する一連が結構すき。トークのけたたましさ(←いい意味で。(ハイテンションクライデイイダロ)が曲紹介の落ち着きのためのフリに聴こえもする。



夢:真夜中どこかに徒歩で向かう。途中、枯葉の絨毯が敷かれた暗くて細い道に入る。怖くて走る。左目の端にA4サイズのサワガニが蠢いている。先を急いだ。すると道の真ん中を走る足元に、暗闇のなか僅かに差す月の光に反射してキラキラ光る点がちらほらある。これは通り過ぎてから分かったことだが、あれは恐らく玉虫だ。あれだけの数の玉虫が一挙に目に入るのは滅多になかったろうが、当時は何より怖さが先立っていたため、足を止めようなんて考えはつゆとも浮かばなかった。先を急ぐ。走りながら、今度は右前方の隅の方、ケモノ大の黒い影が見える。暗闇の中に不気味に揺れる影の大きさはどう見ても虫ではない。上体は息を切らし下半身には乳酸を溜め、視界は暗く前方に敵の影、耳には無差別な風や木々のざわめき、状況を総合した第六感は枯葉の下の土の下にひそむ生物の息を音を感じ得る……と、こうした我が身を取り巻くリアル(店先でのVR体験とは違う)に危険を覚え、恐怖し、おののくわけだが、しかし引き返すにも随分進みすぎた。ここから逃げるには先に進むほかないと判断した時、本能的にか足に力が入り、持てる力の限りを尽くして脇目も振らずにケモノ大の影とすれ違おうとした。そしてすれ違った。走る、走る。すると奥から拡声された人の声、アナウンスか何かがうっすらと聞こえる。人がいると思い安心してさらに走ると、右前方から、周りを囲んでいた木々の高さ程に高いネット(後に防球ネットだと分かる)が聳え出し、急に開けてきたと思えば、野球の試合をしている音ーー応援する声、野手の声、金属バットの音、ウグイス嬢のコールなどが徐々にはっきりと聞こえてきた。起きる。



(敬称略)



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