ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

11/23〜12/6 で思いついたこと

(2021/12/27更新)


真顔で文章を書いている人の顔が良い、というのが良い。妄想する。「好きな人のいいところは?」「真顔で文章とかネタとか書いてるときの顔です。」いやいや、それは言いたくない。だって口にすればたちまち陳腐になる、量子力学の例の猫のような感性がまさにこれだから。加えて、その言葉になった感性を、感性の対象である当人が聞くことによって、わたしがその姿を目にできなくなる可能性を思うと、決して口に出したくない。死ぬ前にぼそっと、藪から棒に言うものだ。

続きを読む

11/09〜11/22日記

(2021/11/23更新)


くるぶしソックスを始めたとき、それは私の目には波の音が聞こえる貝殻、または赤・青・黄色が程よく彩る透き通ったおはじきみたいに見えた。凛と澄ました趣きだった。それが今や見慣れてしまい、よく洗濯するまで使って、ヨレたり、毛玉がついたのを履くことも多いから、その魔法は解けてしまった。たしかに長靴は嫌いで、傘は大好きとまではいかないが長靴の枷感(=拘束感)よりマシだったのは共感する。

続きを読む

日記(10/27〜11/8分)

(2021/11/12更新)


変容や危機に際して、「これ、こうしたらどうなっちゃうんだろう」に引き寄せられてしまうということが、人生でままある。イヤーワームのような執着性質によって、わたしは逃げずにそこに居ようとするだけでは、自動的にその思考に吸い寄せられてしまう。魔力とでも言おう、この踏み外してみたい欲の増長するタイミングは現状謎で、言ったら犯罪容疑者が自らの所業を回顧するのに使うワード「魔が差す」が、まさしくこの謎感覚の契機を言い表そうとするわたしにとっても、最も都合のいい表現になる。
逃げなければ踏み外さずに済まないという罠に、今絶賛はまっている自覚がある。

続きを読む

直近2週間中の思い出

(2021/10/20更新)


フラワーアーティストにとっての花が花材と呼ばれていたことに若干の違和感を覚える。「私の設い(しつらい:どうやら界隈では自然に口にされる、草花を芸術的に仕立て上げ、人の手によって暮らしの中に取り込む一連=フラワーアーティストの仕事のことを指す)のために花材を取り寄せる」という。
これに私は、「わざわざ遠くから取り寄せんねんな、芸術性と営利活動のためなら」と正直思った。自然を用いる営みだからそのありようも自然主義的思想が貫かれるのかと思いきや、必ずしもそうではなかったことに面食らった。
材料を取り寄せるんではない、たとえば自ら育てる草花や旅先で偶然発見したそれなど合法的に摘める身近な自然縛りのフラワーアートがありえるとしたら、許容される対のコンセプトになるだろう。カウンターの余地がある。

続きを読む