ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

今週思ったこと

(2019/11/26更新)


昨年春からの日課である壁を使った倒立と、毎日とまではいかないが日常的くらいの頻度を保つ散歩、そしてそれよりも頻度が落ちるたまのランニング。これら習慣的に体を動かす行為に、私は今、自分を許す根拠を置いている。忘れずに運動しているうちは、まだ生きていてもいい。習慣的な運動は私的免罪符になっている。現状の生活を継続したままで倒立の日課をやめた、あるいは散歩やランニングを全くしなくなった私を、私は許せる自信がない。死ぬかもしれない。結構真剣にそんな気がした。今日11/18、ランニング後の帰り道に考えていた。

運動する理由
一つ、日毎の摂取カロリーが消費カロリーを明らかに超えるということが、見て見ぬ振りはするものの、向き合った場合にどうもうまく許せないから
一つ、何もできない・何もする気が起きないおのれの、唯一の承認根拠・寄る辺になっているから
一つ、経験上感覚的に、部屋の中でじっと体勢を変えないなどして体の血の巡りが悪くなると、鬱々としてくるから
一つ、止められないお菓子のバカ食いに起因する糖尿病の兆候がいよいよ現れる(た?)ようで、怖くなったから
p.s.下書き:昨年春からの日課である壁を使った倒立、それと毎日ではないが日常的な散歩やたまのランニングなどの有酸素運動。これらの習慣的に体を動かす行為・行動に、私は今自分を許す根拠を置いている。忘れずに運動しているうちはまだ生きていてもいい。日常の運動は、そんな現実逃避を許すための行い、免罪符になっている。現状の生活を継続したままで倒立の日課をやめた、もしくは散歩やランニングを全くしなくなった私を、私は許せる自信がない。死ぬかもしれない。結構真剣にそんな気がした。今日11/18のランニング後、帰り道に考えていた。



夢:毎日回すのが習慣のスマホにプリセットされたガチャが当たる。3等の「20%増量中!かっぱえびせん」である。リスクを負って更なる賭けに出ると、これもまた成功、無事勃起した股間をお届けすることができた。



観光公害
光都市化は、物価が上がり、またマンションやオフィスは短期の宿泊施設に変わるなど、地元民を押し退ける。居心地が悪くなった地元市民は外へor都市郊外へ。ex.チェコプラハ
地元民のみが予約可能なお店に需要が生まれる?



行事という響きが懐かしい



パターンの連続性または不連続点(連続中の欠陥)に注意して観察をすることで対象に何が起こっているのかがわかる。by DR.マンハッタン (大意)




Saku Yanagawa氏の日本語公演動画を見る。いわゆる現代風刺というか、皮肉を込めた時事ネタが面白い。アメリカのスタンダップコメディを踏襲している、というか完全にスタンダップコメディですね。それだから、日本のテレビで見るお笑い芸人に比べて政治ネタが多い。その切り口や視点はCNNやBBC的なメインストリームの域を出ないので、それ自体は日本のワイドショーを見るようで味気ない。しかし炎上→スポンサー離れを忌避するなどの理由で基本的に政治の話題には触れない美学が浸透する日本のバラエティにはないネタなのが、単純に清々しく、新鮮に感じられた。ラジオ好きな私の性分も助けているような。サンドリを聴く感じに近い印象を受けた。コーナー「あいつこんなこと言ってました」シリーズで得られるカタルシスと相似する、ぶっちゃけ系の楽しさと快感。明らかに違うのは政治ネタの有無。
彼の芸はそういうわけで今まで中々味わえない喜びがあって楽しかったのだが、一方で少し王道すぎな気もした。もちろんその場の観客の空気をつかんで話さなければならない芸だから、スタンダップコメディ素人が客の大半だったという今回の公演の特性上彼らに合わせてオーソドックスなスタイルを選んだのかもしれない。それは妥当で、全く問題ない。ただ動画を見て抱いた感情の一つに、「米式スタンダップコメディアンが日本に増えたら、多分みんなこれと同じようなネタ選びにやり方で笑い取れんじゃないかな。そしたら誰を見ても同じでつまんないんだろうなぁ〜。」というものがあった。



夢:久々に練習に参加する。外野からの返球を適宜カットしてキャッチャーに転送するカットマン役だ。ブランクがあったので不安だったのだが、案の定全くと言っていいほどうまく動けない。球を捕ってから投げ手に握り変えるのが遅いし、2,3回に1回ファンブルする。加えて送球は相手がジャンプを要する高さに抜ける。おまけに肩が悪い。何度やっても駄目。大人に怒鳴られる。周りからはヤジ。終了後、これを契機にイジりという名目でいじめられる。罰だったんだろう、泣きながら逆立ちさせられた。脇に付く人間どもの存在が気を急かして落ち着かず、20秒もままならなかった。
ベンチ前のミーティング。やっと1日が終わる。次回は遠征組と居残り組に分かれるようだ。忘れたが恐らく居残りだろう。
今日で、もう辞めよう。そう思ったが、一方で夢らしいことに、3年夏の引退まで続けたかつての自分がいたのも知っていたから、決断をためらった。自分を認められる殆ど唯一の拠り所になっている忍耐行為すらままならないのでは自信を完全になくすようで、踏ん切りがつかずにいた。ミーティング終わりにちょうど誰かに辞めるか否かを問われたが、答えに窮した。優柔不断加減は最新アップデート済、当時のまま。
起きる。これを機に当時を断片的に思い出す。腰椎分離症や椎間板ヘルニアといったケガ中は、およそ3ヶ月間チーム練習から離脱し、自分で考えた別メニューに従事していた。その間は早くチームに合流したい顔をしながら、心の奥では実は一人でいられるラクさを享受した。ケガは周りから孤立する承認を得、練習に出ない端的な理由となった。ケガはバリアの役割を果たす大義名分だった。と同時にバリアを張る理由も流暢に説明した。ケガは周りに承認されながら孤立するという私のユートピアを実現した。だから時限的なのが悔やまれた。本音は一生ケガしていたかった。
チームに合流したいと思わないケガ人などいない。そんな考えは道義に反する、あってはならない犯罪思想のようなものだと思っていた(正直今振り返ってもその考えはそう変わらない)し、そうでないとその間の通院から、紐で吊るしたダンベルを手首だけを動かして巻き上げる個人練習まで、大体の行動の辻褄が合わなくなる。だから無意識にそんな矛盾した自分を騙し、漏れ出てきたら押し殺して過ごしていた。無為に過ごした。そんなんだった。今もそうだからブーメランだ、返ってくる。思い出したのはそういうわけだからか。夢(自意識)にまで啓発されるとは。あれは今思えば、たしかにやらなければならないことではなかった。そういう意味ではあれは言わば、前後2日の行動の整合性のために繰った日々だった。
結局リアルでないと、私の場合、うまくいかないのではないか。根拠になる経験はある。受験勉強は全く苦しくなかった。だから最後まで追い込むことをしなくても、一応最初に掲げた目標は達成できた。できてしまった。いつか林修が言った、おのれの好き嫌いより得意領域で勝負する、それを仕事にした方が楽に生きられる、とは正にこういうことではないか。



学童たちが放課後小学校のグラウンドで各々散らばって遊ぶさまは、のどか。およそ20歳差の彼や彼女の心理状態が羨ましい。この視線は、かつて通った道だから「恋しい」とか「戻りたい」とかの言葉で説明されやすいだろうが、私の場合はそうではなく、ああいった例えば人が全肯定されたときに得られる心の平穏を保持したまま仕事がしたいという対象への単純な憧れの感覚が強かったから、/〜対象に単純に憧れる感情が第一だったから、「羨ましい」の形容が最適だとした。言い訳がましい?



久々のTSUTAYAにて。表紙の黒い、いびつで、それでいて煌びやかなシルエットに目を引かれ、雑誌『VOGUE』の20周年Anniversaryの最新刊をたまたま手に取る。編集長の感慨や展望が記されたページがあって少し読んだ。デジタルに対する紙媒体の役割や意義を叫んでいたが、聞いたことのある視点ばかりだったからか、立場上無理して捻り出した言葉にしか見えなかった。目がチカチカするページは嫌い。前半の写真は良かった、表紙はもっと良かった。深い理由はない。
p.s.調べると、表紙のモデルはAdut Akech(アドゥ・アケチ)という南スーダン出身の方だった。ケニアの難民キャンプに向かう途中で生まれたという強烈なバックグラウンドを持つそう。既に売れっ子らしい。そりゃそうか、日本に来るくらいだもんな。
(参考:“いろんな美しさがあることを伝えたい”/アドゥ・アケチ - ファッション特集 | SPUR,CNN Profiles - Adut Akech - Model - CNN Style,Login • Instagram,https://models.com/models/adut-akech,Adut Akech - Wikipedia )
ブラックが羨ましい。黒光りがここまでクールに見えるとは。艶々しい肌は、やはりモデル、芸術的。アドゥ・アケチで絶賛画像検索中。
p.s.2.たまたま目に入った雑誌は、正式には、『『VOGUE JAPAN』20th アニバーサリー ヴィジュアル ブック』。「ヴィジュアル ブック」と冠されることからも察するに、どうやら通常回よりも写真集色の濃い、記念号に該当するモノらしかった。



満員電車の中で、前に立っていた20代中後半のスーツ男がはてなブログを読んでいたのが背中越しに見えてしまった。サラリーマンの悲哀を自嘲する調子がひたすら続く文章だった。夢のマイホームがどうとかいう題のエントリーだったので、少なからずサラリーマンとしてはそこそこ上手くきていると自負する身の上を嘲る筆者だった。彼はローンの返済を憂いたり、妻とのテンションのギャップを憂いたり、家事手伝いに私的な時間が奪われてしまっていることを憂いたりしていた。
もう少し詳しくは、確か彼は、引っ越したせいで朝6時に妻子の寝顔を横目にのそのそと起きては駅までの20分を歩いている状況に釈然とせずも、道中立ち並ぶ一軒家をみて「俺だけじゃないのだな」と束の間慰みを得、ホームに着けば、満員電車を待つ、さながら兵士の気分で士気が高ぶってくるらしかった。
ここまで読むと男は右肩を/右半身を体の内に入れ、右手を背中に隠した。



タイトル案:内閣総理大臣◯◯の仕方ない憂鬱
あれが好きこれが嫌いと簡単に言えない、発言に必ず暗喩が生じる立場。故に常に突き放され、批判され、孤立を余儀なくされる、とみなされる。権力者の宿命だ、仕方ない、当然だ、として。大きな物語の主たる内閣総理大臣役ゆえの、私人としての孤立。
原理的には政治家全体に当てはまる憂鬱だから、政治家志願本にも、政治家(屋)批判本にも、政治家人情本にもなる。



黒紫色も好き←new!!
エメラルドグリーン・中日の青



アインシュタイン相対性理論って時間の相対性(⇔絶対性)も唱えるものだなんて。ウィキペディア読んでもさっぱりわからない。



横田の苗字、有能なミュージシャンが多い(私感)



時間は権威
ソースは文学。大学機関でポップな学びの対象にもなっちゃう。



親父の、耳に引っ付く高い声。2Fのドアを閉めた自室にいても、1Fの引き戸を閉めたリビングから響いてくる、高低差の大きい抑揚のある声。上下階のドア2枚をつんざく発声。これが駄目なんだ。だから好きになれないんだ。生理的に受け付けられないというものを初めて実感として知る。申し訳ない。



初々しくて革命は
(初々しくて革命は - i-Dより)



今回は、ジャズの生んだ偉大な個性、セロニアス・モンクを特集。〜
(NHK FM『ジャズ・トゥナイト』番組説明より)
ジャズの生んだ個性、ってのが有機的で良い。嘘偽りなさそうというか。聞いたことがあるようで聞いたことのない言葉の並びなのも刺激を与えて(わいが本読まないだけかな)。新海誠の言っていた集合無意識それがもつ興奮惹起作用。「の」がミソ。いいすぎかな。



タイトル案:いつまでもおさらい
人間は忘れる。ときに誤る。だからいつまでも同じことを言わなければならなかったりする。それは正しい。同じような曲ばかりがオーバーグラウンドにあっていい理由、口実。




"子供"表記の是非
要はこどもの「供」表記の是非なのだが、ちなみに私は子供でもよい派。
以下この問題に対する私の認識。
こどものどもに「供」の字を使うと、こどもの「ども感」(=吐き捨てるように「子っ"どぉぉも"」と言うときに含まれる見下しのニュアンス)が際立つということが、こどもを支配的に・隷属対象として扱う見方を肯定または助長するのではないか、との視点から、「子ども」表記が推奨されるようになったんだろうと認識している。
が、そもそも子(ら)を「こども」と呼ぶ時点で、どもが入っているし、仮に供の字につき従うニュアンスが含まれることを認めたとしても、奴隷的に従わせてもいいとする考え方こそが改められなければならない思想なのだから、こどもを子供と書くこと自体に問題はないとみる。
オレオレ詐欺振り込め詐欺・違法ドラッグと危険ドラッグ・障害者と障がい者が同じというわけで、子どもでも子供でもよい派。いや、こどもは大人が守りときに導く必要がある立場である点を否定できないからして、「子供」の字に奴隷とまではいかずとも、歩行者専用の道路標識にみる傘下感を見出しても罪ではない、むしろ善良な気さえしている。
要するに我々大衆の認識と個々の行為の問題だ。子を大人のしもべのように扱ってはならないことのみが肝心なのであり、それを認識し行為に反映するのが鍵なのだ。
とすると、こどもを「子ども」表記にすることで我々は余計な遠回りをする。事態を隠蔽する危険があるように思われるのだ。子供が子ども表記になったから、大人は子どもへの実際の対応を改めるだろうか。また子供を子ども表記にするのに納得し、満足し、この問題に暫定的に解決済みの判を押し、安堵した頭があるのではないか。言霊の存在は認めているが、それ以前に、さしあたって人は忙しく忘れっぽい、そして早く死ぬことを考慮しなければならない。
子ども表記は当初計算した実効性を得られておらず、逆に子ども表記のせいで大人どもは子の存在を忘れ(忘れさせられ?)、自然に圧政が敷かれる土壌を整えた恐れがある。



※以下ネタバレがあり※

今更ながらウォッチメンの日本語翻訳ver.を読む。
•情報量が多いと感じる。これが芸術かと感慨を覚える。ネタを拾い損ねている自信はとてもある。なお1.5周ほど読んだ(=1度通しで読んだのち、2周目は話の途中から頁を前後に行ったり来たりしながら螺旋階段を下りるように着地a.k.a.読み終わった)。
•学ぶ視点が多かった。例えば、コメディアンは戦争状態にあるからこそ輝くとか。
•最後のページはションキングで鳥肌もの。上から流れる血で見えなくなりかけた時計の針が丁度てっぺんを指してる絵。あれ、まだ回ってない……。(ページを捲り返して)ああぁぁぁ……!これから、つまり今こそが終末という名の現在、latestなんだ!そうか、あいつらがまたヒーローやろうとしてた描写は……っていう。
•物語全体を通じて、ニーチェの有名な深淵と怪物の名言の意味が身にしみる。
•全編にわたりカラーリングが凄い。日本の土壌では恐らく培われない・培えない色遣い。少なくとも私には思い付きもしない。アメコミ独特の美、か(これがアメコミ初体験)。
•全てのものは理由なく「ただある」ということを知ったときに訪れる何にも代えがたい強烈な空しさったらない。職人の手を経ない時計。あとDR.マンハッタンが最後オジマンディアスに言ったセリフ、「何事にも最後などない」(大意)。キツい。
ロールシャッハの偏執、その中身と見た目のギャップは現代人のメタファーに見えた。私は恥ずかしいが、あの醜さが登場人物中一番感情移入しやすかった。そういう作りでもあるんだろうけど。
•オジマンディアスの告白シーンはベートーヴェンの第九が聞こえる。エヴァ的なあれ。
•当該シネマハスラーを聴き、復習&新しい見方を仕入れる。これができれば友だち要らず。



(敬称略)



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