ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

今週思ったこと

(2019/09/27更新)

せわしい現代にあって珍しい(のか?)、器が大きい成熟した大人の面白い話を聴くことで、一時的に現実から逃避して落ち着くことができている。仮に、彼ら大人が右にも左にも振れずに腰を据えて話すことができているのはひとえに既に財を成しているからだとするなら、彼らに寄りかかっている私はその財がバックボーンの安定感の恩恵を受けていることになる/×といえる。だから、彼らのかつての迸るまでの金への欲求や欲求に任せてなぎ倒していったであろうものやこと、そして欲求を満たした結果彼らが手にした金とその金の在り処の正しいことを認めざるを得ない、私はそんな立場にあるのではないか。資本主義社会の仕組みからはもう逃れられない時間が経った。『三度目の殺人』で子役の広瀬すずに母役の斉藤由貴が漏らした「その金で食えていたんだからね」の科白、暗い台所のシーンと重なる。



雪や台風などで鉄道の運行状況がテレビで流れるのを見るにつけ、一人で、あるいは家で働けたらと望むように。いや、天災があったらその日は休みor自宅勤務などで翌日以降のスケジュールの調整が柔軟にできたらいいか、まぁ。



倒木して駐車場を侵した庭の白樺の木が想像以上に重く、庭側に動かせないことで、自宅に居るのに散らかりを直さない人間が居るというアナウンスが発せられる
心苦しいがこれ以上面を晒す/晒し首に遭うのも辛い。苦痛の天秤。隣りの親切心がピンポンを押してくる。応答してしまった。更なるアナウンス!哀れ。
小説的?



運命 英語 fate、destinyが出てこない




今季途中から来たロッテの助っ人、レオネス・マーティンの個人応援歌の流れで、『アイデンティティ』 / サカナクションを初めて通しで聴く@YouTube
意外な点が二つ。一つ、想像以上にポップだった。リリースが9年前の楽曲ということを考えると妥当。今聴いてもキャッチー。懐かし半分で好き。
二つ、アイデンティティ、否「自分らしさってやつ」がわかり始めるのが想像以上に早かった。サビのメロディと歌詞「♪アーイデンティティが〜〜なぁぁぁぁぁい」の部分は昔から知っていたんだが、アイデンティティが無い!と歌っているもんだから、それが無いことに気づいて葛藤するさまを歌っているんだな、見つかった見つからないという結論までたどり着く以前の過程に終始した歌詞で曲は終わるけどその揺らぎこそがアイデンティティたりうる個人の核となる財産なんだ的なことを歌にしているんだな、と今日まで勝手に思っていた。だから2:37あたりでわかり始めちゃったときてびっくり。アイデンティティ軽くね?もうわかったの?!とやや面食らった。
でも全体的に気持ちは共感できる歌詞。特に1番。恥ずかしい。

表現の上達しなさはさておき、書くことの恥ずかしさの壁がここ最近明らかに瓦解してきている。親との関わりとその心情とか顔面のコンプレックスとかを書くのに慣れてきている。恐ろしい。



夢:高校の部活で、「こん中から一人海外行くやつ決めるから」と監督に指名される7選手のうちの一人に私が。「うわぁやったぁ」「誇らしい」「俺なんかが行けるわけないか」など決して表には出さない私的な思いが湧き出るものの、概ね平常通り褒められたことが嬉しくて浮かれていた。ついてはひと言、自分が海外に行くに相応しいと思わせる自己アピールを書け、と紙とペンを渡される。隣りの奴は「一つ、……」の書き出しで始めていた。例文に、英語ができるとかきっとやり通せる精神があるとかざっくりと向こうに行ったと仮定したスケジュールを書いてみせるとかがあった。
アップが始まる時間となる。皆がグラウンドに出る中私は誰が選ばれるのか気になって仕方なく、マネージャーが出入りする小さいプレハブ小屋で、監督が今日のメニューが記されるホワイトボードや次の大会の背番号を書いたノートをいじっているのに注意を向けていた。通り過ぎざま田中が10番だったのが見えた。
聞き耳を立てていると、マネージャーとの談笑に聞き捨てならない発言が。
「最近調子良くて。豊富戦で向こうさんに「あれだれ?」……(聞き取れない)」「良い選手だと言われてネットで調べたら有名人みたいに一番上に出てきてよ……」。
どうやらもう彼の中では決まっているようだった。あーあ結局選ばれねぇのか、向こうの生活想像なんてしないでよかった、やっぱ無駄だった、朝3時に起きたり深夜バスで移動したりはそりゃ俺には無理だったって、気ぃ弱いもん、クソが。すべて杞憂に終わった風に落胆する。
☆(=飛ぶ)
中田翔が深夜にも関わらずマネージャーにティーを上げてもらって動画を撮っている。ガニ股打法の頃の中田だった。あとは忘れた



ファッションが追いやられている?
だとしたらなぜ?



孤独で切実で愛すべき男と女たち〜
(from江國香織著『なかなか暮れない夏の夕暮れ』の紹介文)



発光 ウスバカゲロウ



女性がたとえば「女子が並んでるお店が〜」って言うときの女子の使われ方には、その女性の社会での承認度合いと自己認識、総合的な自己肯定度合いが窺える。スムースに「女子」と口に出せる女性の健康体に、僻みに近い羨ましさを覚える。
「女子」を口に出すことを憚るないし嫌う健康体(ex.coming soon...)もあろうが、私はそのスタンスで健康になる術をもっていない。「女子」に反発する健康な女性の言う憚るは'憚ることができる'、嫌うは'嫌うことができる/嫌える'と可能動詞に言い換えができる。反発'できる'のは立派な能力であり、社会適応した証し。私は自分を、この能力を利用はできても装備はできないキャラと認識している。「言ったら矢が飛んでくる案件だよな……、私が言ったら余計だろう……、言ったら言ったで付き合い増えるの嫌だし、やめよう……。」「かといって裏で悪口きいたり言い争うのもなんだし、そもそも喧嘩弱いし……。」でお世辞にも健康とは言えないありさま。だから「女子」がさらっと出る女性が羨ましい。



上野樹里のラジオが好き。一人しゃべり、BGMなしのストロングスタイル。言葉選びや声色、声質、抑揚、間(マ)で作られる空気感が心地いい。内容よりも、全体に通底していて時々垣間見える彼女の考えや意思の確固なところに惹かれる。先日の弘中さんの番組とは対照的。まあ好きなのは今だけかもしれないけど、飽き性だし。
話が上手いって言うのは簡単だけどこれをできる人はなかなかいない。新婚だからか親族ネタの挿入が多いので、バーンアウトされないことを願う。
本職のお仕事『監察医 朝顔』は一度は見ようとしたものの、画面の彼女があまりに美しい/×美しすぎるのと、また画面が明るくて眩しくて、断念してしまった。ほんのささいな要素なのはわかっているけど。



テレビを観るのは無料だから、少しの嫌なところも許せず、つまり全編気持ちよく見たい気持ちが働くのかもしれない。手に取れる範囲に娯楽がたくさんあって且つそれらを好きに選べる環境にあったら、フリータイムにわざわざ心に負荷をかけて見続けようとは考えない。好奇心なり勉強なり理由がない限り。(だからみんな好きなもんばっかりになっちゃって。細分化・分業化・geek化の流れ。アト6系の生産工程。)
その点映画だったら、多少目に余る点があっても、入場料を払った手前私なら守銭奴根性で我慢するに違いない。有料の壁を越えさえすれば最後までモノは見てもらいやすいってことかな。




どうすれば他人に「この山に登ってみたい!」と言わせられるかだけを追求したら、自らが山に登るさまやその道中に望める美しい景色を映像に収めてみせる、ということに行き着いた。そのさいに仲間を呼んでクルーを組むと、性格上、撮影内容に妥協が多く含まれてしまうから、登山から撮影まで一人でやることにした。私にはこれしかできなかった。
伊集院の視点を通して聞くこの話↑の主のお医者に親近感がわく。したがってここに私が理想とするべき思考の過程があるのかもしれない。



現代、思ってると思ってることが本当に思ってるのかわからない、時として本人にも
たとえばツイッターに投稿した短文のつぶやきを、全て自動的に投稿主の思ったこととして判断するのは、場合によっては間違っている気もする。
突発的な感情は思う・思っているとは区別して考えるという手法はアリ。対して瞬間的に最大になるmassiveな感情の塊をつかまえる楽しみも、存在するからにはもちろんあっていい。



アシダカグモは蜚蠊ゴキブリを食べる益虫で、「軍曹」と呼ばれている。蜘蛛の巣は作らない。見かけたら、「お務めご苦労様です」と声を掛けてあげよう。



文章は端的な方が評価されるらしい
なんで端的でない方にひかれるんだろう?見栄を張りたくなるからかな。巧みな文章は回りくどいと勘違いしているのかもな、ただ語彙が追いついてないだけなのに。



2019/09/12、飯田橋駅から文京区立小石川図書館〜同目白台図書館のルートを往復で散歩。目白台や小石川近辺は、時間帯や時期のせいかもしれないが、平日の公園のようなゆるやかで落ち着いた雰囲気で好きになった。
知らない道は周りの景色が新鮮で楽しい。特に今回は人がそんなに居なかったからなお良かった。抱いたまま離せない東京への偏見ー道行けば常に早足の人がごった返すコンクリートジャングル、東京ーは見直す余地がある。
歩きながら気づいたことと言えば、通りがかるどの住宅の前にも新車に違いないピカピカの車が一台は停まっていること、もしくは家がでかいこと。そして道に面したスーパーで店頭販売している一房7〜800円の表示のぶどうを、赤ちゃんを体の前に抱いた女性が何食わぬ顔でカゴに入れようとしていたこと。 私が触れた文京区の平穏は金によるものだったか。
図書館。初めて訪れた両図書館は外観・規模共に町に溶け込んでいた。Googleマップを頼りにたどり着き、一目見、心が温まった。東京の図書館なのでもっと建築技術を見せつけるような存在感のある仰々しい建物を想像していたのだが、いい意味で期待を裏切ってくれた。こじんまりの形容がぴったりの図書館。目白台はアットホーム。幼稚園か保育園の先生が子ども達を連れて散歩に来、読みきかせをしていた。小石川は噂どおりの音声資料のアーカイブ。興奮した。うまく利用したい。
セレクション西船橋と生鮮市場てらおをハシゴ。てらおには初めて行ったが、既製品に関しては特に掘り出し物、目を見張る値段の商品はなかった。駅から多少歩くので、今後どうしても250円弁当が食べたくならない限りは行かないだろう。
総じて、よく歩いた。足裏、ふくらはぎ、ももが張っている。とても口外はできないが達成感がある。
来たる生活に向けての鍛錬だと思って歩いている。ささやかな自己満足の所業かもわからないし、努力の方向がまるで違うとの指摘はもっともだろうが、今気持ちが向くのは体力増進だ。「体が追いつかなくなると心も折れる」と現役引退直前の宮本慎也が言ったことが妙に頭に残っている。全くの無意味ではないことを願いつつ、また適当に歩く。
p.s.図書館の利用者は「お客さま」なんだね。カードを作るとき、丁寧に応対してくださった司書の方がさりげなく言っていたのがやや気になって。他にいい呼び方がないのかも。



昨日と明日を言い間違えるほどの疲れ
「昨日は涼しいよ」



ものを知らない奴ほど説得力の価値がでかい
星野源を好きになるには(または好きと口に出すには)、星野源の音楽フリーク話が欲しかった。ワーカホリックにまつわる激動のエピソードはうってつけだった。

詩はノンフィクションである方が評価される?としたらなぜ



都ではゴールドにラッシュするのがステータス
肩身狭いね



変化するものの中で評価されるのは、結果を出したという事実
採点基準が流動的な競技・フィギュアスケートでは成績で昔と今の選手の力量を比較できないから、浅田真央さんはすごいとなる(すごいとしか言えない)
ルールの変化が激しければ激しいほど結果の重大さが増すから、自然と結果主義的な姿勢になる

では、結果に拘らない世界は変化が小さい?→そんなことはない?たとえば、
文芸…明確な基準などないから、明確な結果の良し悪しもない。変化という価値観とは縁遠い
芸人…結果が出ないことがネタになりうるから、結果に拘らない姿勢を推し進める場合がある。
職人…ある一つの対象に心血を注ぎ、ひたすらにその対象の完成形を目指す。その点から言うと、基準の変化は小さく、また完成形という結果には拘りを持つ、と言えるだろう(か)。前例のフィギュアスケートに近い。
演芸…

結果に拘らない世界は、変化が小さいというよりは、結果の良し悪しのみが評価基準ではないことが多い。また場合によっては、大会で勝つなどあからさまな結果が出ないことが逆に評価される(=フックになる)現象が成立する。



サワコの朝』にて、南果歩が手振り付きスクワット。朝7:30〜8:00の時間帯も助けてシュール。



手前の過去の発言や行動を思い出してうわぁとなったときはいつも「しねしねしねしね……」と呟いて事実を振り切ろうとする。見て見ぬ振り、現実を直視しない習慣はここにも表れる(?)



中日の青、エメラルドグリーン、淡い紫色
この三つ



「待合室など室内でロックをかけてる歯医者は自由を履き違えている」
byリリーフランキー from問わず語り
自由に履き違えることってありえるんだ、履き違える自由はあるんだ、と。



ハライチのターン8月第1週放送回、岩井のフリートーク・ダイエット話にて
食べ物は脳が欲しがっている、との持論が「脳を洗脳すればいい」のワードとともに笑いのネタになっていたが、思いのほか的を射た感覚では。脳を支配するよりわかりやすい表現だった。




中国のレタリング、なんか違うな
太いせいかとても安っぽく見えてしまう、偏見なしに



(敬称略)



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