ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。最近は思考の断片の記録と化しています。

今週思ったこと

人間、飽きることをコントロールできたら強そう。
飽きるから仕事して金稼いでるみたいなところがある。イチローみたいな職人気質の人間を「強い人・凄い人」って言う感覚と同じ。怖くもある。一生飽きない怖さ。



たしかに私も、戦争を経験したら目の前にある金が欲しくなるだろうと思う。



節制や縛りのある人生
欲望の境目がなくなって心に弾力がなくなる。結果悪事に手を染めて、場合によってはしっぺ返しを食らう。そんな人生があるとする。
縛りが非合理的でも、或いは縛り自体に意味がなくても、心の弾力のために縛りを設けることには賛成。それは一種の私的な義務を課すということに他ならない。たとえば、駅から家までの帰り道は、自転車や自動車には乗らずに、無駄に時間をかけてでも徒歩で帰るという縛り。皆に必要とされるあまりタイムスケジュールが株の相場みたいに変動してお金に換わる、要するに時間がとても貴重な彼女が正真正銘のとても忙しい仕事人だとしても、帰り道は必ず非効率的に歩くことを課す。そうすることが、心のブレーキ(≒判断力)の確認と手入れの作業となり、いざというとき一線を越える手前で進路変更する準備となる。非効率的な徒歩での帰宅に心の弾力を養う側面を見出す、そんな私は引きこもりである。
欲望を解放する人や欲望を解放しようとうたう人を私は羨ましいと思う。欲望を解放する彼らがいるから(いたから)人間社会が進歩した。一方で彼らがいるから(いたから)彼らに不必要と断定されたあらゆるものが、(そのまま放っておいてもよかったかもしれなかったにもかかわらず)この世から抹殺された。彼らのお陰で人間の賢い部分と醜い部分が説明できる。下手したら(?)彼らだけを参照して人間らしさとよばれるものが説明できるかもしれない。もし楽に楽しく安心に満ちている、平和な人生を謳歌しようとするなら、傍観者になるのがよいのかもしれない。つまり上記の「彼ら」を遠巻きに眺める客人になるのがよいかもしれないと言っている。
ここに、地味でのろまでちょんぼな無能の存在が際立ってしまう。どうしよう。
夢や目標のない人生とは。夢や希望をもちたくないという欲望に忠実な人間の人生とは。えもしかしてこれがほんとの欲望の解放?



自分の手がけるものを欲しがらない人は駄目じゃないか?
自分の会社の商品を(ほぼ間違いなく)買わない経営者だから、その経営者にも会社にも惹かれないのかもしれない。コストパフォーマンスや儲けがすべての商品および人間。マックの経営者はおそらく、マックを食うか食わないかを選択できる状況にあれば進んでは食わないし、前沢社長はおそらく、ZOZOで取り引きされるものに殆ど興味はないだろう。トヨタの社長はトヨタに乗らなくはなさそうだからまだマシかも(車を使うタイミングで、車に代わる魅力的な乗り物が見当たらないから)。
資本主義最後の良心は、自分の手がけたものを自分が欲しい(と思える)か、にかかっている。その度合いが、いかなる状況においても高ければ高いほど(=どんなに満ち足りていてもor飢えていても欲しくなれば欲しくなるほど)良心的なのだろう。俺は金があってもなくてもコレなら欲しい、と言えるものを提供できるのが良心。真であり善である。(ただ美しいかは別だと思う。)
譲歩して、たとえそれが自分にとって不必要でも、不十分ではないものであるか(=無くてもいいけどあって困らない、貰えるなら貰っておけるものかどうか)、これも重要だ。マックやZOZOは、甚だ私感ではあるものの、この条件に当てはまっていない。



gunmenの顔面



夫婦はやめてほしいことを年1で言う会(項目数は事前協議する)を設ける



クズ日記
それに対する普通の日記(自分のフィルターにかからないクズが残る点で有意義)



病気の優しい母親が夢で息子の首を締めながら、「助けて、助けて、お前の首、お前の臓器を譲って、譲ってお前の、お前の身体、助けてお母さん、がんばったでしょう、、、」



鏡をなくす(自意識過剰の加療につき)



いつも手離したくなってしまう(これ辞めたらどうなるんだろが頭いっぱいになってしまうことが、何かをやっている最中と一休みしているときによくある。)



オンライン・オフラインを意識して区別する今の日本は、自分が強い。自分という主体の存在感が強い。景色に自分を溶け込ませられない。だから人の目を気にするし、謙虚になる。不安になるし、片時も自分の目から世界を眺める視点を外すことができなくなる。常に現実的である。これは面白い。
自己犠牲は、自分が強くない(≒我が我がしていない)社会にある、と、近視眼的な観察ではみなせるけど、一方で少し距離を置いた観察だと、それ(=自己犠牲)は確固とした自分が前提の、主観的な言葉だということも言えるということが分かる。これは面白い、重ねて。
これ(以下)は形而上学的な話題を考えにくい私を自覚した経験から気づいた仮説だ。決定論は自由意志を排除するとかしないとかについてを会話形式でわかりやすく記述しようとした(らしいけど日本人の私的にはスベっている)『アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです。』というタイトルの本を、松浦俊夫のTokyo Moon・2018年12月2日放送回の録音をiPhoneで流しながら読んでいる最中に、ついいつもの癖で中断して書いている、否、親指を動かしている(だけ)。
自意識過剰に苦しんでいる方への民間療法として、形而上のはなしに入門することは、ひょっとしたらアリかもしれない。形而上のはなしは、(少なくともそのはなしについて初学者の)我を忘れさせた。その証拠に、この本に書いてあることはおそらく専門家にとってほんの序章に過ぎないだろう(←これは各々が手にとって確認すればいい)。さらに、私が今中断したページは33ページである(←神に誓って)。自由意志が存在するかについて書かれた、初学者におあつらえ向きの本を読み始めて33ページ/221ページ((まえがき・目次を飛ばして)本文〜あとがきまで)目の段階で、初学者の私は断続的に我を忘れた。この短く拙くも正直な経験の記述が、私と似た性格をもつ人間に同じ体験をしてみてほしくなる理由になる。(且つ私のもつバックグラウンドを共有できればできるほど、この我を忘れる体験を保障できる。例えば日本生まれ日本育ちの20代のように。)もう一度言う。形而上のはなしは、それに耳を傾ける程度で、甚だ現実的だった普段から私を引っぺがして、我を忘れさせ、部屋に溶け込ませた。
世を離って、自らが手がけた作品の中に没入していく人間がいた(いる?)ように、形而上学的問いを座学することが、アーティストになる自信すら失った自意識ばかり頭を擡げる何も持たない人間への、開かれた門戸ーーそれも治療を兼ねながら知識取得を目指せる門戸の一つになるかもしれない。続きを読む。



6位くらいが丁度いい



経験↔︎未経験
未経験である方ができるものとは?
(ex.童貞話、新鮮なフリートークby伊集院)
→未経験のありさまを、経験した者以上に具体的に明け透けに記せ



夢:ナイツらがゲストのクイズ大会に、スタッフと客の間のような立場で出る(同じフロアの同じ目線に立っている視点だったから。夢とはいえ、謎は謎。)。他のパネラーが単発的な小ボケで回答する中、ナイツ塙の、自らのネタのエッセンスを回答にはらませつつ、時間を追うごとに本チャンのネタ色が強くなっていき、終いには席から立ち上がってしゃべくり出す、という一連のボケが漫才みたいですごく面白かった。詳細含め、他は忘れる。目が覚めたら、掛け布団がいつにも増してしっちゃかめっちゃかになっていたので、きっとなにか動きを求められる機会もあったんだろうと思う。おわり



何もしていないぶん、特権として夢だけは見られる



いつの時代も強い奴はいる。今は金。



根拠のない感情のカモこと、サブプライム



最近、マンションの部屋に灯る明かりの並びなり、座席に座る人の連なりなり、とにかく人が整列しているのを見るにつけ、食って寝て考えてヤってをする私とおんなじような動物がここだけでこんなに沢山いるのかと思ってしまうと目眩がして、また同時に、整然とする様が草に見えてしまうとうぇってなる



出発とsplash、音似?



リスカ株式会社の『しっとりチョコ たっぷり!!80g』をリスカするがごとくハイペースで口に放りこみながら親指を動かす。罪意識は'ある寄りのない'だから危険。砂糖、ダメゼッタイ。いいかげんに近い。



閉館直前に図書館へ入る。音源コーナーに向かい、ラックにある目当ての在庫CDを探していると、閉館のアナウンスが鳴った。もうちょいもうちょいと思いながら目当ての品を目指していると、片付けに取り掛かろうとするスタッフ一群のうちの、華奢で眼鏡をかけた女性の一人が、脇を通り抜けざまに「閉館時間になります」と、なりますの'す'まではっきりと私の耳に届かせる意識を含ませたであろう(実際はっきりと聞こえた)、体格にしてはつとめて語気を強めたかのようにもとれるものの落ち着きは前提にある声で、牽制してきた。「あ、は、はい。」親族以外の他人から私だけに向かって発せられた言葉を受け取るのが久々だった。だったのもあり、懐かしの叱られた気分、そして焦る。秒読みが始まった。迫り来る1秒1秒が重く感じてくる。針がニュートラルから不安に振れて足元が覚束なくなるにつれ、1秒の積もる重さも加速度的に増した。そして間もなく耐えられなくなった。叱られて10秒ほどで、気持ちの面でとてもお宝にはたどり着けないと悟る。偶然も大事だろと、テキトーにそこにあったやつ(背表紙に『ウルトラマンオンブラス2』とある)をなげやりに手に取り、気持ち背を丸めながら小走りで自動貸出機へ向かう。おわり



40歳になってそこそこ世の中に認められていると、成長したくなくなるそうだ。(kwann2019/01/12放送分より)



cozyになれ合いや結託の意が踊れどなおあたたかい暖炉



他力本願という言葉を布団の中で思い出すのに大体2時間くらい使った。
ググるのは簡単だった。でもそれを拒否した。山里亮太の単独ライブの名前で使われていたことは分かっていた。且つ初めの字が「た」であることも、語感から察知していた。これらを大きな頼りに意地を通そうとした。
他人に任せること……他人に全権委任しちゃうような……四文字熟語で……なかなか出てこない。目をつぶって、ぐうっと霧の中を歩きながら考えていると、案の定眠ってしまった。はっと目覚めてまた考え始める。今度は両手を伸ばして歩くことにする。眠る。はっと起きてまた考える。眠る。ふっと起きがけにスマホに手がかかる。ダメだ、と、訳もない、意地だけで手をしまう。また考える。ここまででおよそ1時間45分使った。
脳に雷電。山ちゃんのライブの名前だと思い出したとき以上に凄烈な。バナナムーンの常連リスナー!常連リスナーのラジオネームだ!チャンスがはらはら舞い降りた。ラジオネーム◯◯……ラジオネーム◯◯……。考えること数分、小さな稲光。そうだ!正確には◯◯の子だったぞ、ラジオネーム◯◯の子。ほら、Twitterのアイコンが四角い顔の似顔絵だったアカウントの。◯◯の子……◯◯の子……山里亮太単独ライブ◯◯……◯◯の子……。なかなか出ない。すると急にまた小さな稲光。いや、◯◯'じ'の子だ、もっと正確には◯◯じの子だったぞ。本震がバナナムーンの常連リスナーの名前の閃きだとすると余震に価すべき稲光が、ここにきて断続的にピカピカ光っている。どうやら本当にチャンスらしい、霧は靄に変わっている、手が届きそうだ、これは逃してはならない、と思う。◯◯じの子……◯◯じの子……山里単独ライブ◯◯……◯◯じ……◯◯じの子……。あ!!他力本願寺の子だ!!!他力本願だ!他力本願ライブだ!!他力本願他力本願!他力本願寺だ!よっしゃぁあGoogleに勝った、スマホに耐えたぞ!とうとう見つけた。めでたく目的を果たし、悲願が成就した。確かにうれしかった。うれしかった。数分後には熱は冷めたけど。
冷めた後の今、よくわからないこじつけた理由で勝ち誇っていたさまを、いわば正しく把握する。しかし、把握してなお、こんな勝ちを通じて、自分もまだ捨てたもんじゃないかもしれないなどと結構真剣に思ってしまっている。おわり



(敬称略)



にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村