ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。加筆修正ばかりします。

今週思ったこと

矢野顕子の東風カバーはだめ



ジオングの不穏な響き、なにかおっぱじまりそうな



同じロケで、違う番組を作る。カメラマンやディレクターが違う。一番は、放送局が違う番組。なのに同じロケ。或いは同じ題材。



物語を大の大人がなぜこうも熱く語るのか
馬鹿らしくないのか
なぜそんな大人を皆揶揄しないのか、ダサくないのか
なぜダサくないのか、一つの小説や映画を語り明かすなんてさまが
どうせ理由なんてないんだろ、或いは流れる時間の強度(←西暦始まって以来)と規模の大きさ(←世界)に無意識にひれ伏してるだけなんだろ、それかただカッコつけて粋がるやつを真に受けて真似してるだけだろ、それか余りにdisる対象が多すぎて肯定せざるを得ないんだろ



絶妙な縛りが生を饒舌にする
としたら、文学や映画は縛りがちょうどいいということなのか。上2つの縛りって具体的になんだ。文字を使っておもしろいことやれ、数時間の映像でおもしろいことやれ、これだけか。だとすれば、文字は多くの人に共有されているし、目の見える人間のが多いから、遊びが広がる余地あるし、縛りもゆるいからみんな侃侃諤諤、自由に泳げる遊び場になるのか。
おもしろいことやれって縛りにああやれこうすべきと蛇足が入るのは、おもしろいとは何ぞやとか、こうあることがおもしろさを担保するのだ、とか、個人レベルの縛りがノイズになってるからってだけなのか。個人の矜恃や美意識、言ってしまえば自分を確立し、守り、自分自身が納得するためにプラスαで勝手に設けた縛りがつまり表現であり、縛りの種類が表現の幅ということなのか。
ある1人の縛りをさも正当なように声高に叫ぶのは、派閥をつくって◯◯派って徒党を組んで、現世で金を儲け、来世で歴史の教科書に載ろうとしてることの表れなのか。
おもしろい感情×それをやるのに必要なものの共有度合×他人の共感度、これである程度は自分のやること決まる?



大前進 とは
人民軍の行進みたいな画想像しちゃった



夢:野球部での、祝勝会か何かの乾杯行事に参加せず、専修大学付属松戸中高等部の体験に行く(たしか中学の方へ)。野球を辞めたかったのか、環境を変えたかったのか。その両方だったのかもしれない。
行った先はボクシングの教室だったが、教室という空気ではなく最早ジム、いや一周してむしろ魁!!男塾の一教室みたいだった。そこでは肉体が重んじられ、1人しかいない生徒はガンガンにしごかれている。その生徒と途中会話したのだが、ギラギラして、今にも飛びかかってきそうで、相手にしたことのない人種だった。言うなればまるで獣と相対する心地だったので、会話の内容はおろか、容姿うんぬんには目も向かなかった。強いて思い出すなら身長は私より少々低かったっけな、くらい。しばらくすると、ボクシング体験ということで、その獣とスパーリング的なことをやる流れになる。一度断ったが、そんな断りは雲散霧消、存在せず、やる。生まれてこのかた一度も殴る行為をしたことがない人間が急に体験で人を殴れといわれてもと思い焦るが、お構いなく早速ギアは取り付けられ、始まる。スパーリング体験と聞いていたはずなのだが、それは、競技の訓練はおろか体験の様相を大きく逸脱したただの殴り合い、喧嘩にしか感じなかった。内容に関しては全く覚えておらず、残っているのは怖すぎたという印象のみ。覚醒した後の今となってはむしろ親切で正直な学校だろうと思う(勧誘のために実態は隠してニコニコ接するのが現代日本における通例だろうから。(しかし生徒総数は1000人を超えているマンモス校だったろうからこれが自然か。てか時代設定よいつなんだ))のだが、それにしても住む世界の違いを痛烈なまでに焼き付けられる戦慄体験となった。
もうあまり思い出せないのだが、思い出せる限りの情報を以下に。まずボクシング教室の先生について。先生、否、師範は60代前半とプロフィールにあったはずだが、声は猛々しく、あの獣の周りに畏怖のオーラをにじませるくらいには激烈に厳しい人間なことがすぐわかる。おいとまする最後の方、上を脱いだときの身体の締まりの凄いこと。百戦錬磨の叩き上げでないとああはならないと感嘆の声を上げたくなるがその前に息を飲む。
次いで、(確か戦慄体験後だったか、)携帯の履歴に金岡君(高校の同窓、野球部)から「乾杯してます」などと連絡があった。とんで、高校の部活の同級生(詳細忘れる)ら2〜3人が専修中高に来る。そこで嵐。外を見ていると向こうにあるビルの上に設置された大きな避雷針に2度ピカド-ンとでかめの雷が落ちる。職員か誰かが「向こう側だよな、手前じゃないだろ」などと見物している生徒に聞く。私はそれを見てはっきりと返答はしなかったが心の中では、いや手前だよ、と返した。校舎内に戻ってHRをやる教室に向かう。その際、途中で通った教室で道草をしてると、ピカッと光る。あやばい。ドカ--ガシャ--ン。落ちた。窓ガラスが割れ、破片を浴びた。ギャーと人間の声。あーやばい逃げよう、広めの場所……体育館だ体育館、体育館に向かう。逃げる最中シャツにしっかり着いたガラスの破片を、裾を持ってパタパタして落とそうかと思いきや、刺さっているのか絡んでいるのかよく分からないが、殆どがうまく落ちない。なお顔や頭にも破片は降ってきたのだが、浴びると同時に反射的にその場で頭の破片はゆすり落としていたから平気。内心をいうと、頭は傷ついたらやだったが、顔面に関してはもう既に傷つきまくってるのと同じ状態なのでむしろ多少切り傷がついた方が表では開き直れる(普段はマスクで隠していたりする為)からそっちのがいいなと思っていた。金岡君と合流。雷の話は早々にここやべえんだよという話に。「軍隊に近い、とんでもねぇとこだった」「お前なかなか大したことしてんぞ、祝杯上げてるってのに無視してこんなとこ来たりして」「まあまあ、色々ね思うところもあったんだけどね、でもここには入らんよ、やべぇもん」
とんで、逃げた先体育館。女子がエアロビクスをしているのがわかるが、次の瞬間、ステージ上で指導していた先生含め6〜70人の人間が、ワーキャーと、蜘蛛の子を散らすように逃げる。校舎と体育館をつなぐコンクリートでできた細い渡り廊下の上で、どうしようかと外を眺めていたら起きる



本を読んでるとき、最後終わりがみえちゃってるのがなんかやだ。もうページもない、字もあと2、3行で途切れてる、ああおわる終わる、あー終わった、っていうのが文字を追い切る前にわかるのが癪。だから、事前にわからないように、余分な文字や絵を続けてページを更新すれば、読み切るまで終わりを予感できなくて済む。余分な文字も、全く突拍子も無い文字の羅列だと、先にページをパラパラしたときに何らかの異変に気付くから、それらしい文字の羅列や絵を続けていきたい。→そうすると、作者が設定する終わりの区切りが溶けていって、どこが終わりかわかんない作品になる。=自分で終わりを設定できる作品に仕上がる、つまり人生。どこで理解を止めるか、どこで話を納得して終わるか好きにできる。これ、やっぱり変?



揚々と流暢にケイザイなりカガクなりブンガクなりを語る人間が普通にセックスしてるのがわかるとホッとするよね、生きててもいいんだって
あるある



アメリカのような明け透けな自由であるほど真の自由に近づけるのか
自由とは何か
各人によって自由は違うのか、だとしたら例えば奴隷制下の自由も理論的には存在するのか、そうしたら奴隷制を不自由だからダメとは批判できない、でも(奴隷制を不自由という理由で批判するより)まず大人数の人間を同じ人間が虐げる仕組みということで批判できるではないか、そしたら奴隷制下の自由の存在は完全否定はできないのか
奴隷制下の自由は存在するorしない どっち?
2018/12/25時点の答え:
生まれながらに奴隷制下にいるなら存在する(しうる)
それ(奴隷の立場)が当たり前だから
しかし、(それがグローバルスタンダードの考え方ゆえ皮肉なのか、)外の世界を知るとその自由(=今の奴隷制下の自由)は逓減する。なぜなら外にある自由の方が大きいことがわかって、怒りや恨みや妬み嫉みや欲求が湧くから
つまり、自分以外を知らない方が、個人レベルでの幸福量は絶対的なだけに大きいのではないか。比較対象がないだけ依存度が高くなる(∵信頼という行為が存在しないから(∵比較対象がなく選択行為が存在しないから))ゆえに、精神的に安定して過ごせる時間が長くなるのではないか。精神的に安定して過ごせることが幸福と言い換えられるとすると、つまり、外を知らない方が幸福量が大きいことになりやしませんか。
誰かこの論理disって、マズい。
たとえその依存が脆弱な制度の下にあっても、自分の外を知らない方が幸福量が大きくていいのだろうか。
たとえその依存がのちの大不幸を生むにしても、だから(=のちに不幸になってしまう、一時の幸福だからという文句で)外の世界を知ることが大事だという論理はおかしくはないのか。仕方ないのか。
外の方がいいな、となって(出て行くリスクをくぐり抜け苦痛に耐えて)獲得する幸福量と、知らないままの幸福量はどちらが大きいのか。



すいません<すみません<ごめんなさい
右にいくほど、口頭で謝るときに謝罪の印象を残せる
簡易的な言葉であることを条件に、より使われづらいものほど、煙幕効果が強力ないい逃げ口上になる(私感)



頻発するソフトウェアのアップデート、ぜってー情報抜き取り調査でしョ



細野晴臣『MEDICINE COMPILATION』歌詞カードの装丁(?)がよかった(おそらく石川絢士のお仕事そうな(art directionの役でいいんだよな……))
また、文字の太さ(レタリング?フォント?)とか落書きみたいな絵とかもあって、そういうのもホソノバのそれと並べると違い歴然。ハンドメイドv.s.Microsoft wordの趣き。時代の隔たり・流行り廃りもあるだろうが、好みは圧倒的前者、つまり前時代推し(1993リリース)。後者(2011)はフォントや文字列、写真や文章の配置が整いすぎてて、機械が提供するフォーマット発の発想になった'既製品(commodity)感'が爛れ出す、並べると。良し悪しだ。Factoryがイカす時期もあったから。時代が回っていると思った。







楽家だって神秘家(『Rasputin』 / Boney M.をみながら)



そんなに媚びるのがいやなら、研究者にでもなりなさいっ!



褒められるっていいですね。今ここにいるんだって感覚をその肯定とともに受けられる感じがして。言われすぎはだめですけど、効果が薄まるから。他人に対して傲慢にもなりかねないし。
褒められる場面を簡単に妄想しただけでもちょっと穏やかな気持ちになるもんら



夢:自転車と定期券をダブルでなくす。翌日朝、両親と大捜索。駅前。大陸系の、一方で帰化されたようでもある、40代くらいの女性が話しかけてくれる。ピンク色のさらっとした生地(スカーフとかに使われるような)の上半身が目立つ。駅前のシルバー人材を働かせる集まりの関係者なのかな、と話しかけられたときには安堵したものの、話しているうちにただの通りすがりの人らしいことが濃厚になってくる。挨拶を交わして、自転車と定期券を探してるんですと状況を伝えた後の返答が、俺のことを、「アメリカ人?」だったしね。結果、彼女との接触は特に、いや全く役に立たず。しばらく経ったところで、両親には申し訳ないので、ここでもう自分1人残って探すことにする。駅前のいくつかの駐輪場のうち、いつも使わない場所付近から探す。もしかしたら無意識に別のとこに停めたかもしれなかったから。最後に使った日は遅刻しそうになって急いでいたから、その可能性から潰しにいく作業。うーん、なかなか見当たらない。探していると、父親が道路の向こうから、地面を指さしながら「おい自転車のキー、そうやってすぐ落とすんだから」となかなかの声で叫ぶ。ああ恥ずかしいと思いつつも向かってカギを見ると、これ俺のじゃねぇし!見つかる前に起きる



"死刑は人の生命を奪う刑" by 2018/12/27時点の法務大臣



目地とはなにかを解説するためのタイルの目地にズームインした写真に、説明のために両脇にあるタイルが尋常でない大きさに映されたときに感じる、なんとも言えないグロテスクさ



世界の国費の歳出で一番は何だろう
防衛費かな社会保障費かな借金返済かな



ご新規を獲得しない限りは、パイの奪い合い、あちらを立てればこちらが立たず状態が続くね



表現方法ごとに効果的な表現がある
音楽は腰を揺らしたり、耳が外を向いて付いてるからBackgroundの役目になりやすい
文学は文字を追わせるぶん論理的にことを運んだり、リアルな描写をありありとさせたり、とにかく時間をかけて表現を味わわせるのに効果的
当たり前だがそんな感じで、その他あらゆる表現にはそれぞれの特性に基づいた、向いている表現(内容)がある



"盲点とは探すべき所にあるのではなく、探すはずのない所にあることだ" by 峠草平 from『AUFRUF an ADOLF』



アドルフに告ぐ文庫版第一巻、ヒトラー総統の絵がべーあー似に思えてしまったよ



自然差別
人間のプライドを振りかざすさまは正しいか。もっとも優等な生物である人間という当然、人間は人間を第一に助けたいと願い、また助けなければならないという当然、人間はなるべく長く生き続けなければならないという当然、これは正しいか、正義か。あるいは道徳か、倫理か。自然か、不自然か。どうあることがよいか。
NEET差別
employment、education、trainingとは何か。それをしないとは何か。それをしないのは悪で人非人か。だとしたら令嬢やバカンス中毒者他は人非人か。NEETであることが悪なら、引きこもりのようなNEET然たる人間以外のnot employment,education or trainingに該当する人間もまた悪か。NEETが悪なら、老人は大方悪ではないのか。NEET差別が存在するなら、それと同調圧力はどう切り分けて考えられるのか。
p.s.「若者は社会を支えなければならない」のは本当か。それのレベルは道徳レベルか、憲法レベルか、法律による義務レベルか、或いは雰囲気レベルか。NEETはただ社会学用語ではないのか。



アドルフに告ぐ、街中での迫害暴力と虐殺シーンを見た後は気が重くなる。あとヒットラーユーゲントのアドルフカウフマンの葛藤よ。



夢:模擬試験を準備するバイト(?)と自分が模試生をやるのがダブった。スーパーマーケットにて。前回の成績が席に置かれている。千葉大はcぐらいだった、が、隣にいた若い女性の先生(中1か中2で一時期お世話になった人、途中で産休に入られた)に話しかけられ、わぁっと褒めそやされてテンションが少し上がる。「惜しいじゃん、すごい!でも(この成績は)私のせいでもあるんだけどね」みたいな。
あと、その前の夢(前だったか、場面転換しただけで連続した夢だったかは覚えていない)で、高校野球、それも甲子園の一塁塁審をやった。初回、先頭の1番バッターがいきなり敬遠。2番バッターは中堅手守備位置の向かって右前に落ちるセンター前ヒットだった。敬遠されて一塁ランナーにいた選手の2塁への進塁がギリギリ(センターからの転送でアウトかセーフをコールされるくらいには際どかった)で、塁審をしながら肝を冷やした。その後のバッターの結果は覚えていないが、3アウト目は一塁ランナーの牽制死で私がコールしたのを覚えている。寝転がって頬杖ついた体勢でいたから(なぜ! 、不意の牽制にびっくりしたが、私がランナーではなかったのでよかった。審判は、次のプレーが容易に想像できる場面を除き(よくあるシーンとしてたとえば、球審が判断するホームでのアウトorセーフの判定は、アウトかセーフかによってバッターランナーなど他のランナーの進塁が同時に起こっているため、間をおかずすぐコールする必要がある)、基本、目視で確認して一呼吸おいてから確信を持ってコールするので、咄嗟の出来事の焦りを、素手が塁に届かず上からグラブが被さっているのを確認しながら鎮め、一呼吸置いて息を吸ってのち「ヒズァァァ!!」とビックリマークをいつもより一つ多めに声を張り上げることで難を逃れようとした。結果無事に引き上げて来られて裏で話せたから、事なきを得たようでよかった(=なぜか攻撃側の高校がチェンジで守備のときは私も引き上げてテレビで高校時代の仲間(坂本や金岡と会話したのを覚えている、大木もいたかも)と観戦した)。次の塁審仕事に出ていく前に起きる



決定論がうまく理解できない



間を空けつつ、『アドルフに告ぐ』を読み終わる。重い。読後の方が、最中よりさらに気持ちが重い。



あったこともないやつを追悼さすな



ほんとは生き方なんて、他者を害さないようにするくらいの約束であとはどーでもいいはずなのに、自分のストレス耐性を考慮して名を上げかつ現代の資本主義社会の恩恵に与るには、今この年齢で何をすべきで向こう5年の目指す方向、10年後に何を拠り所に生活し、15年後どういう話をしていたいかを計算しようとすると、たちまち煩わしくなってしまうのは何でなんだ



※以下ネタバレを含みます雑々感です。色々ご注意。

論理と感性は相反しない (講談社文庫)

論理と感性は相反しない (講談社文庫)

山崎ナオコーラ著『論理と感性は相反しない』。ベタに、本人もあとがきで書いていたように、言葉で遊んでるな〜楽しそうだ〜と思えるそんな短編集。
書き下ろしなので、ある物語が後ろの物語に引き継がれる(ex.登場人物名が同じだったりする)仕掛けがみられた。その仕組みを無視して作品の一つ一つに感想を持つと、感想の種類が大きく3つに分けられる。一つは①読み終わってすぐぱっと印象が残る短編作品、一つは②読み終わって、ん?終わったぞ、と思ってすぐペラペラ読み返して言わんとしている(ような)ことを探し出す作品、あともう一つは③上のように読み返した末、やっぱりわかんない作品。まず①すぐ印象が残ったのは……と書こうとしたが、昨日の晩〜今日の午前中に読んだ筈なのによく覚えていない(し、うまく書けそうもない、よって以下雑になります)。あ、「芥川」とかいいなーとか思っちゃった。多分ここじゃないんだろうけど、読んだ人や著者からすると。感性が違う、小説読めないキャラだと思う、意味とか探しちゃうから、俺。もうあんま話聞かないで、頭弱いから(自己否定に逃げ。「人間が出てこない話」は何を言ってるのかわからなかった覚えが。「まったくの新しい傘」は分からないというか、まだ思案中みたいな。あの傘はなんの比喩なんだろう、行政かな、みたいな状況。「プライベートをなくせ」は素直に頑張れ。「恐怖の脅迫状」は、なんで恐怖だったんだろ。男の子の指摘が冷静すぎる反面恥云々いってんだったらもっと女のこに優しくしてやれよ、どっちなんだよって思った(それが小4ってことか?わからん)。表題作の「論理と感性は相反しない」は、真野が論理役、神田川が感性役と言えるのかがまだ心残り。どっちもただ(結局)譲歩し合っただけの普通のカップルに映った。だからちょっとタイトルは飛ばしにも見えた。「カップルの間柄における論理系人間と感性系人間は、言ってもなんだかんだそこそこ関係維持できる」は、論理と感性が相反しないことになるのかね。「時と場合によるなんて言うに及ばないだろ、そんな野暮なこと言うなッ」とか言われたらもうm(_ _)mです。愛や恋やの要素が絡む対人話は苦手。そして真野の社会人への進行は無常を思って悲しくなった。多分俺が社会人になりたくないから。花は綺麗だけど電飾キラキラの趣きがわからないのは禿同。頭ぽんぽんは、何時でも、死ぬまで、一度も、しないだろうが。あと、今思ったことを。なんか東京が舞台になる話の雰囲気、匂い、人物の(心情)描写が、なんかついていけていない気がしてきた。東京に生きる人に親近感を覚えられないからだと思う。火花しかり、これしかり(reference少なッ 電車で向かう新宿渋谷?高円寺?下北沢?と親和的な湿っぽい描写や、アパートがどうとか、隣人がどうとか、自分と夢とか、全て身に覚えがないから追っかけられないんだろうな。まだまだガキなんでしょうか。俺に東京に住む日がくるのか
恥ずかしい
以上



(敬称略)



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