ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。加筆修正ばかりします。

(1,151字)フィクションはたらふく食べるもんじゃない

※勝手ながらこの記事は、後日数回にわたり追記・修正されます。〔③02.08更新〕





いつか見た聞いた物語が、知らず知らずのうちに心の中にまんま複製されて、それらが自分の規範としてgrooveしている。「印象的」は履き違えられ、もはや飼っている。



「君は君らしく生きていく自由があるんだ」


彼らが彫刻する美しい言葉、精緻な描写、真理(めいたもの)は、それ自体鮮やかで、誠実で、正しい。彼らは職人だ。ただ、それらは彼ら職人を職人たらしめる要素、つまり職人としての評価を決めるための核となる要素だ。そしてその要素は、彼ら自身の美しさや正しさに基づくもの、もしくは道徳や常識に根ざした原理的なそれの域を出ない。出なかった。方法論もない。だから彼ら職人は、私とだいたい同じ生物種で、だいたい同じ世界の同じ規範の中で生きている、ただの伝えたがり!だ。


「柔らかい陽の光を浴びれば また目を覚まして また歩き出せる」


私がいつか見た聞いた物語は、結局、あらゆる視点から洗練された虚構だった。芸術的な虚構は、印象的にはしておけど、規範にするものではないし心に飼うものでもない。


「」


ところで、というかそもそも、その芸術的な虚構は、21c、おおむね市場にのって耳目(鼻口)をひく。私の見聞きもこうして触発された。市場にのれば商品。価値に比例して、市場で流れる流れの速さや滑らかさ、周回数、複製回数、保存回数が決まる。価値は新規性や独自性、希少性、信用による。


「」


昨今特に、信用による価値の大きなことがトレンドだが、私にはその基準がなんだかぼんやりとしている。なぜぼんやりかというと、信用を付与しているのが自分以外の他人だからだ。そしてその人数の多寡が、信用価値の高い低いに直結するからだ。さらにそこに、信用は次の別の信用を規定する(ある信用は、それ以前の信用を引き継いだ結果を表す)という性質が加わるから、なんだかぼんやりなのだ。まあそれよりなにより、信用は計量にそぐわないものだとする個人的な価値観・偏見がぼんやりさせる原因の大本だろう。信用と価値を考える上での参考として、春山昇華様のブログ記事「AliPay & WeChatPayが中国を世界最先端の信用本位制資本主義国家に導いた」を紹介させていただく。


「」


こういった経緯を経る商品価値は、芸術的な虚構をいかに評価するのでしょうか。それは、トイレットペーパーやサランラップと同じく、効用と価格を見えざる手で割るようにして、私を放置するのでしょうか。今、TOKYO FMのCMでふと流れてきた、
「流行は時とともに醜くなるが、芸術は時とともに美しくなる」(ジャン・コクトー)
との言説は、現代ではこのようにCMコピーとして通用するものなのでしょうか。


「」


閑話休題。美しいから正しい、正しいから美しい、どちらも嘘だ。客人である私はせめて夢うつつを……


「」


見紛うなまいせるふ!


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