ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。加筆修正ばかりします。

(1,222字)歌舞伎町俳句一家・屍派 - ハートネットTV をみながら

【18.02.01更新】

これは途上国の話(dake)ではない。日本における話で(mo)ある。


人間の命の重さは本質的には皆平等なのに、である。生まれる時期・土地・身の回りの環境といった運命的な要素によって命の大小が決まるかのように社会が回る。非常に辛い。しかしこれには抗えない、今私には答えが見つからない。



新自由主義的資本主義は、欲望に任せて、食う。もう余程の地球規模の天変地異(人類の3/4が死ぬ等)が起こらない限り、この資本のコモニズム、一般知性および大衆知性の収奪(=寝転がり労働、人間草としての労働)の駆動輪は止めることができないだろう。必ず絡め取られる。一方で私たちは、この現象のお陰で、イノベーションの指数関数的な発展の恩恵にあずかった快適さを存分に味わうことができている。数年前からは格段に向上した「便利さ・ラクさ」を簡単に感じることができている。(逆に言えば、あらかじめ規定された快適さ・便利さ・ラクさを享受している。快適な気持ちや便利の心地よさは、ほぼ自分たち由来の感覚ではない。)私たちの手で「便利さ・ラクさ」を生み出し、支えている。ここは、その「便利さ・ラクさ」は本当に全個人の幸せなのか、という話。


最大多数の最大幸福。今の多幸感を大事にするために、近い将来の誰かを確実に殺す。間接的に。完全犯罪で殺す。みんな、生きるために殺す。人だから。これは歴とした世界に貢献する営利団体の合理的行動である。規模による影響が大きすぎる。生きるってそういうことだよっていうのは分かるけど、大々的すぎやしませんかと。 (殺すというのは比喩でもあり、字義どおりの意味でもある。)


どんなことが幸せなのだろう。非常に便利な世の中を私は享受しているが、これは私にとって最上の幸せなのだろうか。なにもやることがないから、何となくよく考える。私は一人。社会の中にいる一人、いわば社会の歯車の一部。この小さな小さな歯車は、幸せに回っているのだろうか。高速回転しているようにみえて実は逆回転していないか。断片的な幸せがあるなら最上は求めるものではないのかもしれない、そもそもこの歯車は回らなくてもいいものなのだから。でも、どうしても考えてしまう。もっと満足できる幸せはないのか。私のための幸せはないのか。私はあなたと同じように欲望があった。そう、今わかった。私は残念ながら、私の嫌いな動物、人だった。


誰かの幸せは誰かの不幸せの上に成り立つ、これは真実か。私には、皆が幸せになれるいい案が思いつかない。しかしこの状況を私は改善、場合によっては打開したい。私たちの動物的欲望(支配欲)はそもそも抑えるものではないのか。止められないのなら、人一人一人の一生の内の、幸せだと感じる比率を今以上に上げるための方策はないか。欲望の方向を事前にコントロールできないか、それで今より幸せは増えないか。私は引きこもり気質だけどぜひ一緒に考えたい、考えさせてほしい、アイデアがほしい。お願いいたします。



にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村