ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。加筆修正ばかりします。

(1,280字)SNS

  • 親密圏を相手取る、他者性の希薄化したLINE
  • 不特定多数を相手取る、他者性の希薄化したTwitter
  • 非匿名なぶん上二つに比べ他者性が認められるFacebook


他者性の希薄化したコミュニケーションにおける他者との距離感や質、ことばの質は変容している?変容の何が良い?何が悪い?

(個人的には、了解を「り」にしたり、様々なスタンプを駆使したり、フリック入力の速さに憧れたりしたことはない。ネタツイートや誹謗中傷もしない。)





危惧されているように、現在LINEでのいじめや現職アメリカ大統領のツイートが世界中で報じられる現象、Facebookを舞台とした国ぐるみの政治介入など、SNSが孕む危険性は現実的な問題として表出している。したがって今、これらの現状を由々しき事態として糾弾し、SNSの正当性すらも論じられるのは当然であろう。しかし、これらに対して利用を敬遠させたり後付けで規制をかけたりしたからといって、事態が収まるとは思えない。なぜならこれらは我々人間間のコミュニケーションをめぐる課題だからである。技術を否定することでは、技術の部分であり且つ主体でもある我々は自身を肯定できない。資本主義が生んだ技術が生んだ我々は真実である。どうしたらいいのだろう。





Twitter特有のスラングに「FF外から失礼します」というのがある。これは簡単にいうと話の冒頭に付される挨拶で「フォロー、フォロワー関係外から申し上げます」の意味である。フォローもせずフォロワーでもありませんが、と前置くこの常套句はTwitter内におけるコミュニカビリティの発現の一種であると私は考える。この挨拶について一部ユーザーから「本来オープンでフラットな場が魅力だから礼儀さえあれば不要、牧歌的な時代に比べ窮屈」という声が上がっていた。
(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1710/01/news010.htmlより参照)


私はここに大いに学ぶ点があるように思う。それはつまり他者とのコミュニケーション、特に見えない他者とのコミュニケーションにおいて、息苦しさがないことはありえないという点である。礼儀さえあればというところの礼儀の程度を、あるいはこのTwitter情勢において望む牧歌的とは何かを、テキストのみで共有するのは難しい。


コミュニカビリティを共有しにくいTwitterゆえに発生した歩み寄りの態度を無下にされる、あるいは拒否される可能性があるというこの事実は、ごく小さいことながらも、コミュニケーションの宿命を明らかにする点で看過できない。コミュニケーションの宿命とは、到底他者とはわかり合えないということである。"テレコミュニケーションという技術革新を享受するなら、他者とわかり合うことはほぼ不可能であるということを理解した上で用法(場合によっては用量)を守って正しく使いましょう、少なくともface-to-faceのコミュニケーションより困難になることには違いないのだから"という倫理は、インターネットに常時接続するもう一つの社会から学べる。



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