ひまじんのいまじん(仮)

息抜きに呟いています。テーマが一貫していません。加筆修正ばかりします。

愚痴・戯論

(11.14更新)
※誤字脱字、句読点の置きどころ、表現の猥雑なこと、何を言っているのかわからない内容……等々はご容赦下さい。後日加筆・修正または削除することがあるかと思います。


(Goo◯le◯ppleへ)
多様性多様性ってお前、めいめいの一神教的世界観でしか語ってないじゃないか。(あとがき:いやそんなこともないか、バリエーション豊かになりたいという方向性は同じか。ここでの問題は資本集めが全てのトリガーになってることで、資本集めのために多様性が求められたり、ゆえに「多様性を""吹聴""してる!」と揶揄せずにはいられなかったり、あるいはいわゆる塗り潰しを経ての多様性を企図したりしてるところが、多様性のことばとしての意味と明らかに矛盾してるってゆうのが嫌なんだったナ)資本主義のルールのもと多国籍企業として全部自分色に染め(ようとし)てるじゃないか。入念に下書きした大義を携えて。てかルール上、自分の信じる態度はスプラトゥーンみたいに自分色で全部塗り潰す行為にしか見出すことができないんじゃないか?じゃないと死ぬ、ということか?比喩ではなく。この世界観じゃろ?だから結局自己保存の欲求のための口先用の多様性になるんじゃないか?



お前らのナントカ欲求を満たす、ステータスの要素になる、広々フリーな共同キッチンのフルーツバスケットのなかにある林檎は、立派な生きものではある。毎日のためのコーヒーも朝ごはん用のパンと牛乳も晩御飯の秋刀魚もそれに合わせる白飯も、言うて同じ。



(あとがき夢想:このままでは限界がくるとする進歩史観が信じることに関しては人間が動物としてやめられない態度だと仮定すると、まずルールを改正して陣取りゲームを穏やかにさせて、段々とプライムプレーヤーの価値観に色みが加わるように働きかけをしよう、というところまではある程度の了解は得られそう。けど、じゃあ実際に緩和させる方策ってなんだろうってなると難しい。個人的には没頭がキーワードなのかなと思う。(対象は個人レベル、ミクロの話。)相手に働きかけられても、「あぁあぁごめんごめん」みたいになっちゃう対象があれば、ルールが変わっていくのに必要な、ルールのなかでは非合理とみなされる異端が生まれやすいと思う。「あぁあぁごめんごめん」の先には、モーツァルトやらチャイコフスキーやらクールハークやらがいてほしい(もっといい例えありませんか)。そういう主体性ってどうだろ、人間に備わってるかな。オタク的な蒐集癖とか、技術革新の担い手って大体こんなキャラに由来すると勝手に思ってたんだけど、どうだろ。神聖ローマ帝国は嫌いだけどモーツァルトは聴く。ロシアの攻撃的な国威発揚は褒められないけどチャイコフスキーは美しい。gangstaは苦手だけどHIPHOPは好き。This Is It。距離を置くことは悪くないことだと思う。)


(なおあとがき:下のリンクは、あいちトリエンナーレ2019という現代アートの祭典の芸術監督をされる津田大介さんのお話です。このお話全体にわたってみられる情動と社会という観点、とりわけ記事の下のほうの「情によって情を飼いならす」との視点に共感しました。飼いならす術の一つに、上述の""オタ活""は有効に作用するのではないかな〜と思った次第です。)
あいちトリエンナーレ2019のテーマ、コンセプトが決定しました | あいちトリエンナーレ

あいちトリエンナーレ2019のメインビジュアル

(http://aichitriennale.jp/news/2017/002035.html より)






すぐ手を差し伸べたいとかいうな、そういう奴ほど俺のことを気持ち悪がるだろ、満員電車で舌打ちするだろ落し物拾ったときにきったねえなとか反射的に思うんだろ女はどうとか男はどうとかすぐ口をつくんだろ。皮肉だろう、「傷つくことを恐れるな」って言葉を講釈垂れてんなよって言いたくなるときがあるんすよ。ひねくれた受け取り方をしちゃう日があるんですよ。「手を差し伸べるよ」って言葉が、お前が建前上欲しがってるこの手を遠ざけうることを知らないお前が一番嫌いだ。もっとうまく騙せ。


人と人は分かり合えない歴史解釈もバックグラウンドも違う。分かり合うにはある一つのものさしに共感しなければならない。共感は一つになることを強いりがち。となると、共感を(結果的に)強いることが一線を越えて染め上げたとしたら、そこに生まれるのはなんだろう。それは少なくとも字義通りの'多様'とは違う何かだろう。多様ではなくなるとは、自己保存の欲のために異分子を意識的に(気持ち悪がって)排除した結果のこと。(尚、ここでの多様とは、自然にしてれば多様な状況が生まれることが少しでも予想される領野のこと。)排除される側としては、排除されることは十中八九いい気持ちがするものではない、突き放し方でhateにも繋がる。そうして、全部通ってなうがある、ように思う。


(しつこいあとがき:共感それは愛、誰にも侵されない先天的な才能。のはず。だから難しい。超単純に考えてしまうと、一(共感)v.s.多(多様性)の構図で対戦することになって、答えがなくなってしまうからダメだと思う。単純にはいかないから難しい。公共の福祉みたいな話になるから。だから強(し)いちゃいけないんだろうな、多分。オートマチックに盲目的に、ゴリっとやる思想に収斂していっちゃダメなんだと思う。昭和に学んだナウい我々の課題もまた昭和色みたいだ。つまり時代は関係ないってことだね。あの頃はよかった…なんてのも、本当に個人レベルの思い出補正が効いた戯言ってことで、申し訳ないけれど片付けられてしまうんだね。巨人の星。体育は重要。
閑話休題、現実的な問題としては、共感を結果的に強いるというときの、「結果的に強いてる!」と叫べる基準はどこに置きましょうか、とか、皆が異論なく共感できることは何かとりあえず明らかにしようよ、になる。と思う。やっぱりご意見がほちい。)


「わからないけどわかる」はかなり難しい技術なんだよ誰にもできない。もしできるとしたらそれは自分の欲求が全て満たされてる完全人じゃないと果たせないと思う。資本主義の世界で欲求を満たすには資本を集めなければならない。集める過程では、競争はもちろん排除の論理が求められる。一度排除したら一生仲良くできなくなりうる。少なくとも一時的には(友好的で健全な競争であっても)対立する間柄になる。後世にまで引き継がれる仲違いや恨みの存在なら、本来的な(DNAレベルの)アップデートがないままの人類を前提にすれば、現状を踏まえてまったく想像に難くない。そうしてなう、そうしてザッカーバーグ

さて、お金くれるってから仲良くなろっか。仲良くなれよ。あ?金くれてやるっつってんだよ?文句あんのか?ねーだろ?言わせねえよ、鼻から救われない低脳のファッキン下僕が、とな。(Facebookは登録してないから言うこと言う資格ないけど、彼の最初のモチベーションがナンパ・顔写真比べのIT化っていうよくきく話は、まあ初っ端からこの世界向いてないなとは思わせたよね無理もない。)





畢竟人が死ぬのが一番自然の為、だから本当に死ねばいいと思う。いい案ください。